酒井了恒

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凡例

酒井了恒
時代 江戸時代末期 - 明治時代初期
生誕 天保13年12月13日1843年1月13日
死没 明治9年(1876年2月5日
改名 虎之進(幼名)、吉弥、了恒、玄蕃(号)
別名 吉之丞(通称)
墓所 東京都台東区谷中霊園
幕府 江戸幕府
庄内藩 番頭、第二大隊・大隊長
氏族 酒井氏
父母 父:酒井了明
兄弟 了恒調良白井久井黒崎研堂
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調

戊辰戦争における戦歴[編集]


290026



2

退退退退

略歴[編集]


18421213 - 

1857 - 

1863 - 

1868 - 

1871 - 

1874 - 使

187625 - 34

[]

  • 了恒は剣術に秀で、兵学を講ずる一方で、漢詩を詠み、書を嗜み、雅楽に通じ、笛の名手であったという。転戦先においても「戊辰役二十絶」を詠むなど、その多才ぶりを発揮している。
  • 鬼玄蕃と恐れられた了恒だが、実際の性格は温和で慈悲深かったといわれる。味方の若い兵を気遣うだけでなく、占領地の孤児や窮民を救済したり、乱暴狼藉や窃盗を厳しく戒め、敵兵の死骸も手厚く埋葬したという。そのため敵方の武士にさえその遺芳が語り継がれ、百姓からは「庄内様庄内様」と慕われたという。
  • 肺を病む身でありながら、陣中では常に兵らと同じものを食べ、寝る時も軍装をゆるめず決してわらじを脱がなかった。雨が降ればまず部下を先に屋内に入れ、斥候を出せばその帰投復命するまで夜通しでも眠らなかった。玄蕃のこうした大将ぶりを見た兵たちは感激し、玄蕃を隊長に戴いたことを無上の誇りとしたという。
  • 新庄を攻略した際、玄蕃のもとに十二歳の少年が捕虜となって引き立てられたという。玄蕃はその少年をあわれみ、天を仰いで「涙闌干」と泣き、自らいましめを解いて路銀を与え、ねんごろにさとして親兄弟のもとに走りなさいと放免した。そして少年の波乱の運命を嘆き一詩を賦したという。その少年は、後の首相小磯国昭の叔父であり、国昭の伝記にも記されている。
  • 久保田藩領において刈和野の地(現在の秋田県大仙市内)を占領した際、玄蕃は風邪をこじらせて倒れてしまった。玄蕃が病床に伏している間、松山・仙台藩兵が刈和野を守っていたが隙をつかれて敵方に奪回されてしまった。そこで玄蕃は翌日輿に乗って指揮をとり、これに鼓舞された二番大隊は刈和野を再び奪回したという。
  • 後の首相となり、日露戦争を勝利に導いた宰相となる長州藩士桂太郎が、この戦いに新政府軍の隊長として参加している。敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事していたため、桂自身はかすり傷1つ負わなかったといわれるが、数で勝るはずの新庄での戦いに敗れ、久保田藩領内でも庄内藩に負け続け、延々と逃げ回ることになり、庄内藩が降伏した時には、桂の部下約200名の半数近くが死傷していたという。
  • 薩摩藩参謀であった大山格之助が、明治維新後に東京で了恒に会った際、「あの鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは……」と驚嘆したという。
  • 政府の密命により清国を偵察した後、地理、気候風土、言語、食糧事情、歴史的な背景や影響など様々な観点から日本が中国大陸において戦争を行うことに問題が生じることを指摘している。その指摘の多くが後の戦争において的中することになるという。

親族一族[編集]

出典・参考文献[編集]

  • 『庄内人名辞典』(庄内人名辞典刊行会)
  • 『図説・幕末志士199』(学研)
  • 『秋田・庄内戊辰戦争』(郡義武著・新人物往来社)
  • 『酒井玄蕃の明治』(坂本守正著・荘内人物史研究会)