ドイツ史(読み)どいつし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ史」の意味・わかりやすい解説

ドイツ史
どいつし

ドイツ史の概観と時代区分



 3西

 113

 ()18

 西1990


古代

先史時代

4000西沿()()3000()()2000()()AunjetitzÚnětice1400

 ()oppidum


古ゲルマンの社会

農牧兼業の北ドイツのゲルマン人たちは、ふたたび気候の寒冷化が進むと前3世紀ころに南下し、西・南方ではケルト人を追ってライン川の東、ドナウ川の北、ゲルマニアの大地を占拠した。さらに前2世紀末にはキンブリ人、テウトニ人の南下となり、直接古代ローマ世界と接触し、紀元前後ようやく歴史時代に入った。『ガリア戦記』を残したカエサルは、前58年西ゲルマン諸部族を糾合したアリオビストゥスAriovistusの反撃にあい、皇帝アウグストゥス派遣の3軍団もアルミニウスのために紀元後9年トイトブルクTeutoburgの森の戦いに壊滅する。ローマ帝国のたびたびの征討にもかかわらず、ゲルマニアの大地がその版図に入ることはついになかった。

 タキトゥスの『ゲルマニア』によれば、土地は多くの沼地と深い森に覆われ、ゲルマン人たちは、個々に小集落をつくって森を切り開いて住み、個々の家を経済生活の単位として、狩猟・漁労に加えて粗放な穀草式農法を営み、およそ50の小部族に分かれていた。人々は自由民として武装し、部族の民会に集まり、王や軍事指揮者を選んだ。この自由民が部族の軍事力の基礎であった。個々人の自立性が強いだけに部族の分裂・再統合も激しく、容易により大きな部族に統合されつつ、拡大と移動を繰り返した。

[進藤牧郎]

民族大移動

東ゲルマン諸部族は気候的に恵まれていなかったが、ことにゴート人は、紀元前後にバルト海沿岸から、スラブ人の原郷とされるカルパティア山脈北麓(ほくろく)を通過して、2世紀には黒海沿岸に達し、東西ゴートに分裂しながらも東ゲルマン諸部族を従属させていたと考えられる。375年、東方からのフン人の西進に直面してゲルマンの民族大移動が始まったとされるが、すでにゲルマニアでは諸部族の移動の嵐(あらし)が吹き荒れ、その波頭はローマの国境を襲い、早くから奴隷や傭兵(ようへい)として、なかにはローマの将軍や官僚になって帝国内に流入していた。フンの西進以来、とくに東ゲルマン諸部族は帝国内を大きく移動するが、故地に残った諸部族の多くは、アッティラの時代にはその従属下にあった。しかし451年カタラウヌムの戦いによってフンの支配が崩壊すると、諸部族の再統合・自立化と移動も再燃した。イギリスに渡ったアングロ・サクソン、ガリア北部に浸透したサリ・フランク、南東部へ向かったブルグント、イタリアに進出した東ゴート、ついでランゴバルド、スペインにまで入った西ゴートなど、ゲルマニアの大地を去った諸部族を除けば、北からザクセン、チューリンゲン、フランケン、アラマン、バイエルンなどの諸部族がようやく形成されてきていた。

[進藤牧郎]

フランク時代

31481511496

 732退75176875175475576881430()791Ostmark56西3791796800()8沿8172Ludwig 843876843870Arunulf8878999113Ludwig 900911


中世

神聖ローマ帝国の成立

()gallo-romanLehenswesenGrafensystem1Eigenkirchenwesen

 9()Luidolfinger

 19119181919936()

 1936973Reichskirchenpolitik955退962()972()Theophano2961983西

 19629689732976398310022100224


皇帝と教皇

21024393103956ReichsministerialenGoslar()Vogtrecht7410561106107750Investiturstreit10952

 11221()1152901156()Heinrich der Löwe114280115680()1118011118999211801223311899212412121550


領邦と都市

13()1

 1226Livland沿14西

 2125378127311273911278

 413477813MinnesangSachsenspiegel134871356()141936


近世

ハプスブルク世界帝国の成立

114西44Rudolf 135865135859135913652Albrecht 1438393Friedrich 144093()Haus Österreich1477114931519Maria von Burgund14961Philipp 150406Juana la loca11556641516Anna von Böhmen und Ungarn西15195151956()15262Lajos 151626515221155556退


宗教改革

15西1

 13()1517()

 1522152425


封建反動とバロックの君主たち

1556115566416915602161937161719()161848

 西1648

 西西Price Revolution16

 ()()pietas austriaca, klementia austriae1683116581705退217002170114()111705116171140西1713


啓蒙専制主義

()17136Pragmatische Sanktion174080

 16408817402174086()宿174048175663

 2Karl Albert von Kurbayern1740427Karl 1742454521Franz 1745652

 17652176590

 21781179022Leopold 17909221792180611804351806


近代

疾風怒濤

()17Sturm und Drang()

 Ding an sich()19


三月革命と反革命

1西1181415

 Burschenschaft1817183435

 1848()退()31862

 ()186618703殿1186188187188()71


ドイツ帝国主義

この帝国(第二帝国)は、25の領邦国家の連合体ではあったが、皇帝に権力を集中し、議会に責任を負わない宰相を頂点とする官僚機構をもったため、ドイツ資本主義は初めて国家権力と癒着することとなった。ビスマルクは、プロイセン・フランス戦争の成果と賠償金によって、重工業、化学工業を基軸に資本主義的生産力を飛躍的に発展させた。繁栄に酔うドイツ・ブルジョアジーを与党に自由主義的改革を進めたビスマルクは、1872年反プロイセン的カトリック勢力に文化闘争Kulturkampfを挑んだが、73年早くも経済恐慌に、77年には農業恐慌にみまわれ、労働者階級の台頭に直面。翌78年の社会主義者鎮圧法によってこれを弾圧し、ブルジョアジーやユンカーの求める保護関税政策に転換した。帝国建設のためヨーロッパ列強間の勢力均衡による平和を求め、フランスの孤立化を図る同盟体系をつくりあげた。1878年のベルリン会議は、国際戦争を回避し、ビスマルク外交の名を高めたが、バルカンをめぐるオーストリア、ロシアの対立を激化させ、さらにロシアをフランスに近づけ、ドイツは79年オーストリアと、82年にはイタリアを加えて三国同盟を結んだ。しかし財政改革をめぐってビスマルクは議会との争いに敗れ、90年社会主義者鎮圧法の更新さえ否決されてしまう。ドイツ資本主義は早くも独占を生み、保護関税と相まって国内の物価をつり上げて国内市場を狭め、急速に外国市場へ進出し、植民地獲得へと進む。もはやビスマルク体制の枠を越え、1890年の彼の失脚はまさにドイツ帝国主義の到来を意味した。

 重工業を中心とする独占資本は発展し、石炭はもちろん、鉄鋼でもその生産量はイギリスの2倍に達し、軍備拡張・海軍建設を支えた。軍隊と官僚を握るユンカーと独占資本家との結合が強められ、皇帝ウィルヘルム2世(在位1888~1918)は膨張政策を打ち出す。彼は、いわばビスマルク外交の遺産でもあった1887年のロシアとの再保障条約の更新を90年に拒否し、オーストリアと結んでバルカンからさらにトルコへ触手を伸ばした。ロシアは94年にフランスと同盟を結び、1902年仏伊協商、04年英仏協商、07年英露協商と、協商側の体制が固まるに対して、三国同盟は弛緩(しかん)しドイツ・オーストリア側の孤立化を深め、バルカンにおける汎(はん)ゲルマン主義と汎スラブ主義との対立を激化させ、ついに1914年サライエボ事件で第一次世界大戦を招来するに至った。

 ビスマルクの弾圧をはねのけた労働者階級は、選挙ごとに社会民主党を成長させ、大戦前夜には議会の第一党となっていた。19世紀末以来、改良主義的傾向を生み出していた社会民主党は、その指導者の多くが帝国主義戦争の勃発(ぼっぱつ)に直面して反戦の旗幟(きし)を捨て、祖国防衛を理由に労使協調による「城内平和」を唱え、戦争に協力する右派と、あくまで労働者のために反戦平和を主張する左派とに分裂した。1917年ロシア革命が勃発すると、飢餓線上にあった労働者は、キール軍港における水兵の反乱を契機にストライキに立ち上がり、皇帝を退位に追い込み、敗戦を迎えた(ドイツ革命)。ドイツ革命の進展を恐れた社会民主党は、スパルタクス団(ドイツ共産党)の蜂起を旧軍隊の力を借りて鎮圧し、議会制民主主義ワイマール共和国を成立させた。

[進藤牧郎]

現代

ワイマール共和国

選挙で過半数を得られなかった社会民主党は、ブルジョア政党とワイマール連合をつくり、ベルサイユ体制に対処した。過酷な賠償は革命運動を高揚させたが、連合国との協調のため旧軍隊を国防軍に再編して抑え、また旧軍部を含むカップ一揆(いっき)を1920年ゼネストによって粉砕した。賠償を強化する西欧列強を22年ソ連とのラパロ条約によって牽制(けんせい)し、フランス・ベルギーによるルール占領に対しては、消極的抵抗としてのゼネストをもってこたえた。その帰結ともいえる天文学的なインフレを「レンテンマルク」Rentenmarkの奇跡によって克服し、相対的安定期に入った。産業合理化を徹底して進めた独占資本は、労働者階級との対立を激化させて右傾化し、1929年来世界恐慌のなかで没落した中産階級、失業者を基盤に台頭するナチスNazis(国家社会主義ドイツ労働者党)に近づくのであった。

[進藤牧郎]

ナチス・ドイツ=第三帝国

()Dolchstosslegende調1933SA()使

 西()1937Lebensraum38393989

 Arbeiterfront19414112西455


第二次世界大戦後のドイツ

6654西1945554647西4849西NATO()西西495西10西

 西西195553西54595355西西61

 西196669Ostpolitik73西西80818283851989西9西西1018退11100990西103西

 EC1991EU92221調9398SPD9892716退SPD90EU991調EU98400


ドイツ史の研究史



 18西()Monumenta Germaniae Historica1859Historische ZeitschriftFriedrich von Savigny17791861

 19

 19

 西調J.Ziekursch18761945E.Kehr190233

 Otto Brunner18981982Theodor Schieder190884Werner Conze191086Vierteljahresheft für Zeitgeschichte

 1950西()1961Fritz Fischer

 1970H.U.Wehler1931 西1975Geschichte und Gesellschaft

 J.Kuczynski190497195070調

 1980西EU

 

 1960沿



1971 19771980HU15198285西19841986198819921992201996 131996971998

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ史」の意味・わかりやすい解説

ドイツ史
ドイツし
history of Germany

 
101 () 96211 ( ) 12113 135615149516 (161848) 18171180619西19212194449西901041  

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