デジタル大辞泉
「ピール」の意味・読み・例文・類語
ピール(peel)
1 野菜や果物などの皮。
2 《candied peel(砂糖漬けの皮)の略》レモンやオレンジなど柑橘類の皮を煮て砂糖漬けにしたもの。洋菓子などの材料にする。
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ピール
(一)( Sir Robert Peel サー=ロバート━ ) イギリスの政治家。トーリー党党首。アイルランド事務相、内相、首相を歴任。トーリー党を近代的な保守党に脱皮させ、また、一八四六年穀物法廃止を断行、自由貿易を促進した。︵一七八八‐一八五〇︶
ピール
- 〘 名詞 〙 ( [英語] peel ) レモンやオレンジの皮をゆでてから砂糖で濃く煮詰めたもの。主に洋菓子の材料に用いる。「レモンピール」
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ピール
Robert Peel
生没年:1788-1850
イギリスの保守党政治家。現実的な保守主義者で,ロマン的保守主義者のディズレーリと好対照をなす。ランカシャーの出身。父は当代屈指の綿業家で下院議員でもあった。ハロー校を経て1808年にオックスフォード大学を最優秀の成績で卒業,翌年,直ちに下院議員となり,トーリー党に属した。10-12年,陸相リバプールの下で陸軍次官兼植民次官を務め,これが機縁となって,長期リバプール政権︵1812-27︶下でアイルランド事務相︵1812-18︶と内相︵1822-27︶の重責を果たした。またこの間19年には,下院委員会の委員長として,銀行券の兌換再開︵イギリスはナポレオン戦争中,銀行券の兌換を停止していた︶を答申し,経済通の一面を示した。28-30年,ウェリントン内閣の下で再度内相を務めロンドン警視庁︵スコットランド・ヤード︶を設立,この間,D.オーコンネルの指導するアイルランド分離運動に直面し,それまで反対してきたカトリック解放法︵カトリック教徒への公職開放︶をみずからの手で実現せねばならないはめとなった︵1829︶。34年,国王の指名によって第1次ピール内閣を組織したが,100日余りで野に下った。
1830年のグレー︵ホイッグ党︶内閣の成立と32年の第1次選挙法改正以来,時代の趨勢はトーリー=保守党からホイッグ=自由党へと大きく傾きつつあったが,彼は野党の保守党をよくまとめ,41年政権に復帰し,第2次ピール内閣︵1841-46︶を組織した。もともと彼は,経済の面では自由主義的で,自由貿易政策を支持してきており,政権につくや,関税引下げ政策をよりいっそう拡大した。その一方では,保守党党首として地主階級の伝統的な政治支配を国制の基礎とみなし,穀物の保護関税を定めた穀物法には賛成であった。しかし,反穀物法同盟を先頭に自由貿易運動が急激に高まるなかで45年のアイルランド大飢饉に直面したとき,彼は,社会全体の福利の実現という見地から,穀物法反対の立場に態度を一変させ,46年,ディズレーリを先頭とする党内右派の猛反対に抗してみずからの手で穀物法廃止法案を下院に上程し,自由党の支持を得て同法案を成立させた。この大英断によって保守党は分裂し,以後70年代にいたるまで弱体化を余儀なくされたが,イギリス自由貿易の大勢はここに確定し,19世紀中葉の自由主義の黄金時代がもたらされた。このことのゆえに,また1829年の︿カトリック解放﹀の実現のゆえに,ピールについては,従来,自由主義者,保守主義者,はては裏切者の評価までなされてきたが,今日では,時勢に明敏な,責任感の強い現実的な保守主義者という高い評価が一般に定着している。46年以降,保守党から分裂したピール派を率いたが,50年に落馬が原因で死亡。なおピール派の中には,後の自由党指導者グラッドストンが含まれていた。
執筆者‥村岡 健次
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ピール
英国の政治家。1809年以後トーリー党下院議員。2度内相︵1822年―1827年,1828年―1830年︶となり,審査法の廃止,旧教徒解放など国内改革を推進。1834年首相となり,その内閣は短命に終わったが,トーリー党を近代的な保守党に脱皮させた。1841年―1846年再度首相となり,穀物法廃止を実現して自由貿易の基礎を作ったが,保守党の分裂を招いて辞職。落馬事故で死去。
→関連項目保守党︵英国︶
ピール
ベルギーの平和主義者。ドミニコ会の神父。長く貧困家庭の救済事業に従事,第2次世界大戦後は戦災孤児や東欧からの難民の救済運動に当たった。1958年ノーベル平和賞。
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ピール
Robert Peel
1788~1850
イギリスの政治家。ランカシャーの綿業経営者の家に生まれ,1809年トーリ党所属下院議員となり,22~27年,28~30年内相として結社禁止法の廃止,警察制度の整備など多くの改革を行った。その後首相(在任1834~35,41~46)となり,46年穀物法廃止を断行。保守党の分裂を招いたが,近代的な保守党の誕生に貢献した。
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ピール
Robert Peel
1788〜1850
イギリスの政治家
トーリー党に属し,選挙法改正に反対。1834年以後しばしば首相となった。現実的な保守政治家で,1846年穀物法廃止法を成立させたが,これは保守党分裂のきっかけとなった。スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の設立者としても有名。
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ピール
日本で発売されている外国産タバコのブランド。輸入、販売は柘製作所。原産地は中国。﹁スイートメロン﹂﹁メンソール・オレンジ﹂がある。
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世界大百科事典(旧版)内のピールの言及
【工場法】より
…
[イギリス]
産業革命が生んだ工場制度は生産力の飛躍的発展をもたらしたが,他面,児童や婦人の長時間労働,事故の多発,〈工場熱〉(18世紀末の紡績工場を襲った原因不明の熱病)の流行,風紀の乱れなど,さまざまの社会問題をひきおこした。このためイギリスでは1802年,人道主義の立場を代表するロバート・ピールの提案によって,綿工場で働く児童労働を保護する〈徒弟健康風紀法Health and Morals of Apprentice Act〉が制定された。世界最初の工場立法である。…
【スコットランド・ヤード】より
…1603年以後,イングランドとスコットランドは1人の王の統治下(同君連合)となり,さらに1707年両国は合同したため,この屋敷は不要となり,政府所管となった。 1829年,R.ピール内相のもとではじめて首都警察(すなわちロンドン警視庁)が設けられたとき,この建物を本拠とした。表玄関側の通りがホワイトホール・プレース,裏側の通りがスコットランド・ヤードと呼ばれていたが,なぜか裏通りの名のほうが有名となり,以後警視庁の別名となってしまった。…
【ディズレーリ】より
…40年代最大の政治問題は[穀物法]廃止,すなわち穀物貿易を自由化するかしないかという問題であったが,農業の利害に強く執着したディズレーリは廃止に反対であった。だが,時の保守党党首[R.ピール]は,このころマンチェスター派の自由貿易論者に改宗しており,こうして両者は真正面から対立するにいたった。ディズレーリは,彼の代表的な政治小説︽コニングズビー︾(1844)を著してピールを非難・攻撃する一方,党内に︿青年イングランド党﹀という小会派をおこした。…
【ピール銀行法】より
…1844年7月制定のイングランド銀行特許(更新)法Bank Charter Actのことで,時の首相[R.ピール]にちなんでピール銀行法と通称されている。ピール銀行条令ともいわれる。…
【保守党】より
…なお集権的な内務・警察機構や常備軍の発達が微弱だったことから,過激な対抗運動に対して実力弾圧の余地が少なく,かつ相対的に富裕で開明された貴族・地主には,買収や譲歩などの政治性の濃い対応余地の大きかったことが,保守党に柔軟な漸進主義を許容する土譲となった。 発生の直接起源は,選挙法改正要求に代表されるような改革運動の急進化のみならず,これに反発して過剰な現状維持に走る頑迷派トーリーにも対抗するため,[E.バーク]の保守的政治哲学やフランスから輸入された〈保守の党parti conservateur〉の概念をよりどころに,R.ピールが中心となり[トーリー党]が保守党に再編された1834年にさかのぼる(もっともそれ以降もトーリーという呼称は保守党と同義で頻繁に用いられる)。46年の[穀物法]撤廃を契機に,ピールら党中枢議員と一般議員・農村支持層との対立が激化し,非ピール派の党本体は一時〈保護主義党Protectionist Party〉を名のって翌年の総選挙以降分裂が表面化する(非ピール派に近代保守党の起源を求める有力な見解もある)。…
※「ピール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」