デジタル大辞泉
「山川菊栄」の意味・読み・例文・類語
やまかわ‐きくえ〔やまかは‐〕【山川菊栄】
と結婚。伊藤野枝らと赤(せき)瀾(らん)会(かい)を結成、社会主義の立場から婦人解放運動に活躍。第二次大戦後、初代の労働省婦人少年局局長。
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やまかわ‐きくえ【山川菊栄】
(一)評論家・婦人運動家。東京の生まれ。山川均と結婚。伊藤野枝らと赤瀾(せきらん)会を結成、社会主義の立場から婦人解放運動に活躍。第二次大戦後、初代の労働省婦人少年局局長。著書﹁武家の女性﹂﹁わが住む村﹂。明治二三~昭和五五年︵一八九〇‐一九八〇︶
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山川菊栄
やまかわきくえ
(1890―1980)
女性運動家、評論家。旧姓森田、一時青山姓。明治23年11月3日東京に出生。1912年︵明治45︶女子英学塾︵現津田塾大学︶を卒業。1915年︵大正4︶神近市子の誘いで大杉栄、荒畑寒村の平民講演会に出席、社会主義への関心を深めた。1916年﹃青鞜(せいとう)﹄に伊藤野枝(のえ)の廃娼(はいしょう)運動批判を批判する論稿を寄せ、論壇に登場。同年、社会主義者の山川均(ひとし)と結婚、翌1917年長男振作を出産。1918年から始まった母性保護論争に参加、社会主義女性論に基づく明快な論理の展開で、一躍、女性論壇の第一人者となった。1921年赤瀾(せきらん)会、1922年八日会の創立に手を貸し、社会主義女性団体・グループの養成に尽くした。1923年マルクス主義女性論の古典であるベーベル﹃婦人論﹄を初完訳し、普及させた。1925年から1926、1927年︵昭和1、2︶にかけ展開された無産政党婦人綱領・評議会婦人部論争に加わり、無産女性運動の理論の深化に貢献した。第二次世界大戦中は執筆を続ける一方、戦争非協力の姿勢を保った。敗戦後の社会党首班内閣のとき、初代の労働省︵現厚生労働省︶婦人少年局長になり、1947年︵昭和22︶から1951年まで在任、女性・年少労働者の保護行政の基礎固めをした。退任後も、﹃婦人のこえ﹄や婦人問題懇話会を組織し、女性問題の研究・啓蒙(けいもう)に尽くした。昭和55年11月2日死去。倉敷の山川墓地の、夫との合葬墓に眠る。
﹇鈴木裕子﹈
﹃﹃山川菊栄集﹄10巻・別巻1巻︵1981~1982・岩波書店︶﹄▽﹃鈴木裕子編﹃山川菊栄女性解放論集﹄全3巻︵1984・岩波書店︶﹄▽﹃鈴木裕子編﹃山川菊栄評論集﹄︵1990・岩波書店︶﹄▽﹃鈴木裕子編﹃新装増補 山川菊栄集 評論篇﹄全9巻︵2011~ ・岩波書店︶﹄▽﹃山川菊栄著﹃女二代の記﹄︵平凡社・東洋文庫︶﹄▽﹃山川菊栄生誕百年を記念する会編﹃現代フェミニズムと山川菊栄――連続講座﹁山川菊栄と現代﹂の記録﹄︵1990・大和書房︶﹄
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山川 菊栄
ヤマカワ キクエ
大正・昭和期の評論家,婦人解放運動家 元・労働省婦人少年局長。
- 生年
- 明治23(1890)年11月3日
- 没年
- 昭和55(1980)年11月2日
- 出生地
- 東京・麴町
- 旧姓(旧名)
- 森田 菊栄
- 別名
- 別名=青山 菊栄
- 学歴〔年〕
- 女子英学塾〔大正1年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 大仏次郎賞(第2回)〔昭和50年〕「覚書幕末の水戸藩」
- 経歴
- 明治41年津田英学塾の前身、女子英学塾の入学試験の作文に「婦人解放のため働くこと」を抱負にあげる。大正元年卒業後、堺利彦らの金曜講演会、大杉栄らの市民講演会で社会主義を学ぶ。5年山川均と結婚してともに社会主義運動にたずさわり、8年には与謝野晶子、平塚らいてうらと“母性保護論争”を展開、また10年には初の社会主義婦人団体・赤瀾会の結成に参画した。その後は公娼廃止運動のかたわら翻訳、執筆活動を続け、戦後の昭和22年から4年間、労働省婦人少年局長を務めた。26年退任後は、月刊誌「婦人のこえ」主宰、日本婦人問題懇話会を結成。著書に「おんな二代の記」「覚書 幕末の水戸藩」などの他、「山川菊栄全集」(全10巻 岩波書店)、「山川菊栄女性解放論集」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
山川菊栄 (やまかわきくえ)
生没年:1890-1980(明治23-昭和55)
評論家。東京出身。母は水戸藩の儒者青山延寿の娘で東京女子師範第1回卒業生,父は開明的官僚という家庭に育ち,女子英学塾を卒業。1916年山川均と結婚。18年の母性保護論争で社会主義の立場に立つ婦人論を展開して論壇に登場。以後,ベーベル︵︽婦人論︾を初完訳︶,カーペンターらの著作を翻訳紹介する一方,︽婦人の勝利︾︵1919︶,︽婦人問題と婦人運動︾︵1925︶などの著作で,科学的社会主義に基づく婦人論,婦人運動理論を樹立した。21年赤瀾会の結成に顧問格で参加,25年政治研究会婦人部で無産政党の婦人政策を提案し,評議会の婦人部テーゼも起草するなど大正期の無産婦人運動を理論的に指導した。その後も言論活動を続け,第2次大戦後は社会党に入党,47年9月新設された労働省婦人少年局の初代局長となった。︽覚書幕末の水戸藩︾や,新しい時代を生きた母娘の記録︽おんな二代の記︾の著もある。
執筆者‥江刺 昭子
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山川菊栄
やまかわきくえ
[没]1980.11.2. 東京
婦人運動家,評論家。父は海外経験をもつ官吏,母は水戸藩儒学者の娘で東京女子師範卒という開明的な家庭に育つ。女子英学塾︵→津田塾大学︶在学中に婦人運動に目覚め,研究を重ねる。卒業後,社会主義に関心をいだき,1916年社会運動家の山川均と結婚,1921年日本で最初の社会主義婦人団体,赤瀾会を結成する。平塚らいてうと与謝野晶子を相手に母性保護論争をマルクス主義の視点から展開したほか,﹃婦人問題と婦人運動﹄︵1925︶,﹃無産者運動と婦人の問題﹄︵1928︶など多数の論文を執筆・翻訳し,社会主義運動の理論家として活動した。第2次世界大戦後は,片山哲内閣の労働省婦人少年局初代局長となり,婦人行政の基礎づくりに尽力した。
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山川菊栄【やまかわきくえ】
評論家。東京の生れ。津田英学塾卒。1916年山川均と結婚。1918年の母性保護論争では社会主義的立場から発言した。1920年日本社会主義同盟に参加,1921年赤瀾会を結成,1947年労働省婦人少年局の初代局長となった。︽山川菊栄集︾10巻・別巻1がある。
→関連項目女人芸術
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山川菊栄
やまかわきくえ
1890.11.3~1980.11.2
大正・昭和期の社会主義女性解放思想の代表的理論家。東京都出身。女子英学塾卒。旧姓青山。夫は山川均。女性解放思想を日本に紹介した。1921年(大正10)堺(近藤)真柄(まがら)らと赤瀾(せきらん)会を結成。25年に無産政党行動綱領に婦人の特殊要求を執筆したほか,日本労働組合評議会に婦人部設置の要求など,無産者運動のなかで女性の解放を実現する役割をはたした。第2次大戦後は労働省婦人少年局初代局長に就任。自伝﹁おんな二代の記﹂。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
山川菊栄 やまかわ-きくえ
1890-1980 大正-昭和時代の女性運動家,評論家。
明治23年11月3日生まれ。山川均(ひとし)の妻。社会主義の立場から女性解放を論じる。大正10年赤瀾(せきらん)会を結成,翻訳や著作をとおして活躍。戦後は労働省婦人少年局の初代局長となった。昭和55年11月2日死去。89歳。東京出身。女子英学塾(現津田塾大)卒。旧姓は森田。著作に「婦人問題と婦人運動」など。
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山川菊栄
やまかわきくえ
1890〜1980
大正・昭和期の女性運動家
東京の生まれ。1921年,女性社会主義団体赤瀾 (せきらん) 会を組織。女性解放運動に尽力し,夫山川均を助けて活躍した。第二次世界大戦後,日本社会党に入り,片山哲内閣の労働省婦人少年局の初代局長を務めた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
山川 菊栄 (やまかわ きくえ)
生年月日:1890年11月3日
大正時代;昭和時代の女性運動家;評論家。労働省婦人少年局長
1980年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の山川菊栄の言及
【労働省女性局】より
…労働省内の一局。1947年9月労働省発足と同時に,婦人労働問題,年少労働問題,そして一般の婦人問題に関する総合的な施策を国の責任において実施するために婦人少年局が設けられ,山川菊栄が初代局長となった。1984年婦人少年局は,女性労働者が増大し,年少労働者が減少したため再編・整備され,庶務課,婦人政策課,婦人福祉課からなる〈婦人局〉となり,97年10月には女性局と名称を変えた。…
【解放】より
…創刊号に︿宣言﹀をかかげるなど,他の総合雑誌とは性格を異にし,労働問題,社会問題がとくに重視され,社会主義思想の影響を強く受けた。黎明会,新人会の会員が執筆したほか,荒畑寒村,堺利彦,山川均,山川菊栄などの社会主義者も毎号のように登場している。文芸欄には小川未明,宮地嘉六,金子洋文らが執筆,しだいに労働者作家,社会主義的作家の寄稿が増加したが,関東大震災のため23年9月終刊した。…
【赤瀾会】より
…設立世話人は,[堺真柄]︵さかいまがら︶,[九津見房子],橋浦はる子,秋月静枝の4人。顧問格で山川菊栄と伊藤野枝が加わった。綱領に︿私達は私達の兄弟姉妹を窮乏と無智と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して断乎として宣戦を布告するものであります﹀とうたい,活発な街頭活動を展開した。…
※「山川菊栄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」