水戸藩(読み)みとはん

改訂新版 世界大百科事典 「水戸藩」の意味・わかりやすい解説

水戸藩 (みとはん)


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水戸藩」の意味・わかりやすい解説

水戸藩
みとはん


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百科事典マイペディア 「水戸藩」の意味・わかりやすい解説

水戸藩【みとはん】

 
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藩名・旧国名がわかる事典 「水戸藩」の解説

みとはん【水戸藩】

 
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水戸藩」の意味・わかりやすい解説

水戸藩
みとはん

 
 ()  18 (1590) 54 6000西 () 20 5800 (5)  () 158 (1603) 214駿 () 112532 ()  14 (1701) 7359 ()  ()   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「水戸藩」の解説

水戸藩
みとはん

常陸国水戸(現,茨城県水戸市)を城地とする大藩。御三家の一つ。近世初頭は佐竹氏の所領。1602年(慶長7)の同氏転封後,徳川家康の五男信吉,十男頼将(頼宣)が相次いで入封したのち,09年十一男頼房が25万石で入封。以後11代にわたる。22年(元和8)3万石加増。1701年(元禄14)新田分を加えて35万石となる。藩領は常陸国7郡内と下野国那須郡内。名古屋藩・和歌山藩とともに幕政の諮問に応じた。定府制で,御手伝普請も免除された。2代藩主光圀(みつくに)は「大日本史」の編纂など文化政策に力を注ぎ,学問の振興に大きな役割をはたした。3代綱条(つなえだ)のとき財政難に対処するため,牢人松波勘十郎を登用して宝永の新法を実施したが,全藩一揆が発生して挫折。9代斉昭は,会沢正志斎(せいしさい)・藤田東湖らを中心に藩内の天保改革を推進。海岸防備の充実・氏子制の導入・農村復興などの諸政策を実施した。幕末期には将軍継嗣問題や条約勅許問題に深く関与し,天狗党と諸生党の対立など深刻な藩内抗争が発生,桜田門外の変,天狗党の乱などをひきおこした。詰席は大廊下。藩校弘道館。支藩は額田(ぬかた)藩(守山藩・松川藩)・府中藩・宍戸(ししど)藩。廃藩後は水戸県となる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「水戸藩」の解説

水戸藩
みとはん

 
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160925352 () 9 ()  ()  ()   

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デジタル大辞泉プラス 「水戸藩」の解説

水戸藩

常陸国、水戸(現:茨城県水戸市)を本拠地とした徳川親藩。尾張・紀伊と並ぶ御三家のひとつ。藩主は徳川家康の11男・頼房の入封以降、水戸徳川氏。歴代藩主では、「大日本史」の編纂を開始した徳川光圀(水戸黄門)、藩政改革を推進し弘文館を創設した徳川斉昭などが有名。

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世界大百科事典(旧版)内の水戸藩の言及

【三家】より

…御三家ともいう。徳川家康の直系一門のうち,尾張,紀伊,水戸の3家を指す。尾張家(61万9500石)は家康の九男義直,紀伊家(55万5000石)は同十男頼宣,水戸家(35万石)は同十一男頼房を祖とするが,御三家が最終的に成立したのは秀忠のときである。将軍家の補佐,血統保持の役目をもち,紀州家からは吉宗が8代将軍,慶福(よしとみ)(家茂)が14代将軍に就任した。殿中席次は親藩中の最上位,大廊下に属した。…

【天保改革】より


1836退41

【徳川頼房】より

…1606年(慶長11)常陸下妻10万石に封ぜられ,09年水戸に移封,25万石の城主となり,のち28万石。佐竹氏の秋田への国替のあと,家臣団の編成,水戸城の拡大,城下町の整備,41年(寛永18)全領検地の実施などで,水戸藩の基礎を築いた。権中納言。…

【中山氏】より

…水戸藩の付家老。家譜によれば宣化天皇の裔,姓は丹治,子孫は武蔵に住し,のち中山氏を称したという。…

【常陸国】より

…一方,戦功を認められた結城氏は一躍67万石の大名となったが越前北ノ庄に移され,新しい徳川体制のもとで中世以来の大名は水谷氏を除き常陸から一掃され,その水谷氏も1639年(寛永16)には備中へ去った。江戸幕府は旧勢力を一掃したあとへ徳川一門か譜代の大名を多く配置する政策をとり,とくに佐竹氏のあとへは次々と家康の子を城主として封じ,3度目の徳川頼房以来水戸藩は三家の一つとなった。水戸藩ははじめ25万石,22年(元和8)28万石,1701年(元禄14)35万石となり廃藩置県に及ぶ。…

【藤田東湖】より

…幕末水戸学の祖藤田幽谷の子。父の没後に水戸藩の史局彰考館の編修,次いで総裁代理となるが,1829年(文政12)藩主の継嗣問題が起こると,前藩主の弟斉昭擁立に奔走し,斉昭が家督を継ぐと郡奉行,江戸通事,御用調役さらに側用人と累進し,その腹心として機務に参画する。しかし44年(弘化1)斉昭が幕府の忌諱にふれて隠居謹慎に処されると,蟄居(ちつきよ)謹慎を命じられる。…

【宝永水府大平記】より


1706(3)︿08091

【牧】より

…弘前藩も昔から牧畜の盛んな土地で,枯木平牧など藩営の馬牧が5ヵ所あった。水戸藩では徳川光圀が1678年(延宝6),常陸国多賀郡大能村(現,高萩市)に牧を置き,牛馬を放牧して〈大能牧〉と名づけ,初めてオランダの馬12頭を入れて繁殖を図り,牧馬は400頭にもなり,牧の地域も多くの村にまたがって広い範囲に及んでいた。西国の薩摩では天文年間(1532‐55)に吉野牧にアラビア馬を輸入して放飼し,唐牧と称していたという。…

【松波勘十郎】より

…このほか時期は定かでないが加納藩にも招かれている。06年(宝永3)からは水戸藩にかかわり,他の諸藩で行った諸政策のほかに涸沼(ひぬま)から巴(ともえ)川の間を水路化(勘十郎堀)し,奥州・江戸間の商品流通を促進しながら藩益をあげようとするなど,大がかりな改革を展開したが,09年反対する領民の江戸出訴で京都に追放され,改革は停止された。その後ひそかに江戸に戻ったところを捕らえられ,水戸の赤沼の獄で2人の子とともに獄死した。…

【水戸学】より


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※「水戸藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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