朝倉氏(読み)あさくらうじ

百科事典マイペディア 「朝倉氏」の意味・わかりやすい解説

朝倉氏【あさくらうじ】

 
()()()()1428-148115731533-1573
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝倉氏」の意味・わかりやすい解説

朝倉氏
あさくらうじ


()()()()()14671477()()()()5100()()()()()()()()15731()()

 

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改訂新版 世界大百科事典 「朝倉氏」の意味・わかりやすい解説

朝倉氏 (あさくらうじ)


1471315701731

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝倉氏」の意味・わかりやすい解説

朝倉氏
あさくらうじ

 
73 (1471) 1 (1573)   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「朝倉氏」の解説

朝倉氏
あさくらし


()(())()()()()1573()

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旺文社日本史事典 三訂版 「朝倉氏」の解説

朝倉氏
あさくらし

越前国(福井県)の戦国大名
南北朝内乱のとき,広景が足利方に属して越前国に新田氏を攻めて以来,同国に住し,守護斯波 (しば) 氏の被官となる。応仁の乱(1467〜77)に際し,斯波家の内紛に乗じ,孝景 (たかかげ) は越前国を横領して守護に任ぜられ,一乗谷に城を構え,分国法「朝倉孝景条々」を制定して領国支配を固めた。義景のとき織田信長に対抗,1573年滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の朝倉氏の言及

【一乗谷】より

…福井県福井市街の南東約10kmにある足羽(あすわ)川支流一乗谷川の狭長な谷。1471年(文明3)朝倉敏景が父祖以来の坂南郡三宅黒丸(現,福井市北郊)を捨ててここに築城してから,1573年(天正1)義景が織田信長に滅ぼされるまで,越前守護朝倉氏5代の本拠地であり,戦国期の重要遺構として,両側の山地を含む地域が1971年特別史跡〈一乗谷朝倉氏遺跡〉に指定された。1967年以来の発掘により義景居館,庭園(南陽寺,湯殿,諏訪館。…

【越前国】より


退87(1)()()退

【河口荘】より

… 南北朝期になると越前守護斯波高経をはじめ諸勢力の押妨をうけた。室町期以降には大乗院は直務支配を続けるとともに,請負制も実施し,その荘官には堀江,甲斐氏など在地の有力武士が任命され,応仁・文明の乱のなかで朝倉氏がこれらにかわって,やがて荘地の大部分を侵略した。また当地域の在地史料には1458年(長禄2)の称念寺々領目録(称念寺文書)や本役銭,反銭などの収取に関する文書(滝谷寺文書,御前神社文書など)があって,荘内の複雑化した土地権利関係が知られる。…

【坪江郷】より

… 鎌倉末期には郷内において悪党の活動が活発化し,1333年(元弘3)三国湊の悪党による強盗・殺害事件,翌年には上郷名主らの供料・御服横領などが続いた。室町期には在地では武士・国人の侵略,興福寺内では氏人たちの不忠が続き,さらに応仁・文明の乱のなかで甲斐氏を破った朝倉氏が1470年(文明2)坪江荘悉(ことごと)くの知行を申し出,72年半済(はんぜい)をてこに一荘全体を掌握,その一族と家臣堀江氏が荘内諸代官を占めた。なお当地域の在地史料には長禄合戦のなかで将軍の安堵を求めて提出された1458年(長禄2)の坪江郷簾尾(すのお)村竜沢寺寺領目録や同時期の寺領坪付帳(竜沢寺文書),また荘園領主の収納権に由来する本役米・本役銭と朝倉氏の領国支配権にもとづく段銭(たんせん)などの収取関係文書(滝谷寺,性海寺文書など)があって,郷(荘)内の複雑化した土地権利関係が知られる。…

【馬借】より


1418(25)26(150421)

※「朝倉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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