デジタル大辞泉
「湛慶」の意味・読み・例文・類語
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たんけい【湛慶】
(一)鎌倉時代の仏師。運慶の長男。運慶の完成した写実様式に快慶の優雅な作風や宋朝様式を取り入れ、洗練された温和な表現を得意としている。代表作、蓮華王院の﹁千手観音坐像﹂。承安三~建長八年︵一一七三‐一二五六︶
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湛慶
たんけい
(1173―1256)
鎌倉時代の慶派の仏師。運慶の長男で、1213年︵建暦3︶に法印に叙せられ、父亡きあとの慶派を主宰して活躍した。彼の作は運慶の豪快さには欠けるが、洗練された温和な表現をとっており、手堅い表現が特色である。若年より父に従って奈良の興福寺および東大寺の復興・造像に携わったのをはじめ、東寺、法勝(ほっしょう)寺、醍醐(だいご)寺、高山寺、高野山(こうやさん)などで造像し、晩年蓮華(れんげ)王院︵三十三間堂︶千体千手観音(せんじゅかんのん)造立の主宰仏師となり、1254年︵建長6︶には中尊の千手観音坐像(ざぞう)を完成した。これは湛慶在銘の千体観音中の数体とともに現存している。また高知市雪蹊(せっけい)寺の毘沙門天(びしゃもんてん)三尊像︵年代不詳。法印時代の晩年の作と思われる︶も数少ない遺作の一つである。建長(けんちょう)8年、蓮華王院造仏が未完成のうちに84歳で没した。
﹇佐藤昭夫﹈
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湛慶 (たんけい)
生没年:1173-1256(承安3-康元1)
鎌倉初期の慶派の仏師。運慶の長男で,父なきあとの七条仏所︵仏所︶を主宰して活躍した。彼の作は運慶の豪快さには欠けるが,洗練された温雅な表現をとり,いかにも手がたい作品である。若年のころから父に従って興福寺や東大寺の復興造像にたずさわったのをはじめ,教王護国寺︵東寺︶中門,同南大門,法勝寺塔,醍醐寺閻魔堂のほか,高山寺,高野山などで造像し,晩年には蓮華王院︵三十三間堂︶千体千手観音の再興造立の主宰仏師となり,1254年︵建長6︶中尊像を完成している。これは湛慶在銘の千体観音像中の数体とともに現存している。また高知市雪蹊寺の毘沙門天三尊像︵法印時代の作なので,晩年のものと思われる︶も数少ない遺作の一つ。東大寺講堂の千手観音像造仏の完了をまたずに没している。
執筆者‥佐藤 昭夫
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湛慶
たんけい
[没]建長8(1256)
鎌倉時代の仏師。運慶の長男。建久年間 (1190~99) ,東大寺再興の造仏事業に祖父康慶,父運慶を助け,興福寺北円堂の造像に名を連ねた。建暦3 (1213) 年に法勝寺塔の造仏により法印に昇叙。父運慶の後継者として七条仏所を率い,多くの造仏に従う。代表的な作例としては高知,雪蹊寺の﹃毘沙門天三尊像﹄ (法印時代の作) ,建長3 (51) ~6年に造立した現存の三十三間堂の中尊﹃千手観音像﹄などがある。そのほか建保6 (18) 年東大寺東塔の仏像,貞応3 (24) 年醍醐寺の﹃泰山府君像﹄﹃五道大臣﹄,同年高山寺の﹃善妙神像﹄,嘉禄2 (26) 年父運慶の菩提のために浄蓮華院の﹃阿弥陀像﹄,喜禎3 (37) 年高野山大門の﹃仁王像﹄などを造立し,康元1 (56) 年東大寺講堂の﹃千手観音像﹄造立中に没した。技量は運慶に及ばなかったが,堅実で温和な作風が特色。
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湛慶
たんけい
1173~1256
鎌倉中期の仏師。運慶の長男。運慶の統率のもとで東大寺・興福寺の復興造像にたずさわり,1213年(建保元)には法勝寺九重塔の造仏で,運慶の推挙により法印に叙せられた。運慶の没後は,後継者として活躍し一門を統率。49年(建長元)に焼けた蓮華王院(三十三間堂)千体千手観音像の再興に際しては修理大仏師となり,54年に中尊千手観音座像を完成させた。56年(康元元)に東大寺講堂本尊千手観音像の造立中に没した。高知市雪蹊(せっけい)寺の毘沙門天三尊像(重文)は法印時代の作。高山寺の善妙神・白光神像・狛犬・神鹿(いずれも重文)も彼の作とみられる。運慶の様式を継承してはいるが,力強さよりは穏やかさを基調とし,親しみやすい作風。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
湛慶 たんけい
承安(じょうあん)3年生まれ。運慶の長男。父とともに東大寺,興福寺の復興造仏に従事。また高野山の金剛力士像,京都蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)本堂の中尊千手観音像なども制作した。法印。建長8年5月19日死去。84歳。
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湛慶
たんけい
鎌倉初・中期の慶派の仏師
運慶の長男。父の大成した作風を受け継ぎ,ゆったりした落ち着きを示す。京都の七条仏所を統率。代表作に蓮華王院︵三十三間堂︶中尊﹃千手観音座像﹄など。
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世界大百科事典(旧版)内の湛慶の言及
【鎌倉時代美術】より
…康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251‐54年(建長3‐6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。その本尊の千手観音像と二十八部衆像の一群はまさに一時期を画するものである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」