デジタル大辞泉
「瀬戸」の意味・読み・例文・類語
せと︻瀬戸︼﹇地名﹈
愛知県中北部の市。良質の陶土を産し、鎌倉時代以来、日本最大の陶磁器産地。人口13.2万︵2010︶。
﹁瀬戸焼﹂﹁瀬戸物﹂の略。
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せ‐と【瀬戸】
(一)[1] 〘 名詞 〙
(一)① ( ﹁せど﹂とも。﹁せ﹂は﹁狭(せ)﹂と同源か。﹁と﹂は、両側からはさまれて狭くなっている所の意 ) 狭い海峡。両方から陸地がせまっている小さな海峡。また、川の瀬の幅が狭くなった所。
(一)[初出の実例]﹁天離る 鄙つ女の い渡らす西渡(セト) 石川片淵 片淵に網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵﹂(出典‥日本書紀︵720︶神代下・歌謡)
(二)﹁和田の岬を漕ぎ過ぎて淡路のせとも近くなる﹂(出典‥義経記︵室町中か︶四)
(二)② ﹁せとぎわ︵瀬戸際︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁禽獣と人と違た瀬戸をせり詰て見れば、此の心が有る、此の身次第にする、たった二つの間じゃに因て﹂(出典‥絅斎先生敬斎箴講義︵17C末‐18C初︶)
(二)﹁死ぬか生きるかの瀬戸(セト)に乗かかる時﹂(出典‥五重塔︵1891‐92︶︿幸田露伴﹀三三)
(三)③ ﹁せともの︵瀬戸物︶﹂﹁せとやき︵瀬戸焼︶﹂などの略。
(一)[初出の実例]﹁中つぎに、せとの丸つぼ、ぶんりん﹂(出典‥御伽草子・酒茶論︵古典文庫所収︶︵室町末︶)
(二)﹁大きな丸い陶器(セト)の火鉢に桜炭が半ば熨になって﹂(出典‥妻︵1908‐09︶︿田山花袋﹀一九)
(二)[2]
(一)[ 一 ] 愛知県北西部の地名。良質の陶土を産し、鎌倉時代加藤四郎左衛門景正の築窯後、織田信長、尾張藩などの保護の下に陶磁器の町として発展。和食器、洋食器、タイルなどの日本最大の窯業都市。昭和四年︵一九二九︶市制。
(二)[ 二 ] 静岡県藤枝市の地名。→せと︵瀬戸︶の染飯(そめいい)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
瀬戸
せと
現内(うち)瀬(せ)戸(と)から瀬(せと)戸(あ)新(ら)屋(や)・上(かみ)青(あお)島(じま)付近に比定される中世の地名。大井川左岸の平野部は度々氾濫に見舞われたため、中世の東海道は山裾を通り、内瀬戸から瀬戸山を越えて青島・前(まえ)島(じま)方面へと抜けた。瀬戸山はなだらかな丘陵で、東海道は切通しとなっており、かつてここを越えることを瀬戸の山越とよんだが、国道一号と藤枝市立青島小学校の造成によって消滅した。永享四年︵一四三二︶九月、足利義教の富士遊覧に随行した飛鳥井雅世の﹁富士紀行﹂に﹁せとやま﹂、同じく尭孝の﹁覧富士記﹂に﹁せと山﹂とみえ、一行は二二日夜明け前に藤枝を出立して瀬戸の山越えをし、当地で﹁都にと又こそいそけをひかせも船路にはあらぬせとの山こえ﹂﹁うらかるゝお花の浪にかへる也、しほちは遠きせとの山風﹂と詠んでいる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
瀬戸[市] (せと)
愛知県北部,名古屋市の北東に位置する窯業都市。1929年市制。人口13万2224︵2010︶。市域の大部分を占める丘陵地は瀬戸層群と呼ばれる第三紀鮮新世の地層で,ここから陶土やケイ砂が採掘される。瀬戸焼は鎌倉初期に宋で陶法を学んだ加藤四郎左衛門景正が窯をひらいたのが始まりといわれ,近世には尾張藩の保護を受けて発展した。一時九州産の磁器に押されて衰退したが,文化年間︵1804-18︶加藤民吉が藩の命で磁器の製法を導入して盛り返した。明治時代に入り石炭窯の導入,瀬戸陶器学校の設立などにより近代化が進み,さらに第2次大戦後,重油・ガス窯が用いられるようになって食器のほかにノベルティ︵装飾陶器︶,玩具,電気用品などが輸出用に大量生産され,全国屈指の陶磁器生産地となっている。毎年9月には︿せともの祭﹀が行われ,市内中央部を流れる瀬戸川の両岸に延々と出店が並ぶ。東海自然歩道が走る市内東・北部は愛知高原国定公園に指定されており,尾張藩祖徳川義直の廟所がある定光寺にも訪れる人が多い。名鉄瀬戸線が名古屋市の中心に通じ,住宅地化も進んでいる。2005年長久手町とともに愛知万国博覧会の会場となった,愛知環状鉄道線が通る。
執筆者‥溝口 常俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
瀬戸
せと
14年物理村 (もどろいむら) が町制施行により改称,瀬戸町となった。 1956年三机村,四ッ浜村と合体。 2007年岡山市に編入。中心地区の瀬戸は山陽本線開通後に発達した典型的な駅前地区。旧町域の大部分は,吉井川および砂川の沖積地で,モモ,ブドウの栽培が盛ん。 1960年代後半から大規模な工業団地が造成されたのを機に工場誘致が相次ぎ,住宅団地が建設されるなど,岡山市のベッドタウン化が進んだ。東部の万富 (まんとみ) には,鎌倉時代の東大寺再建に使用された瓦窯跡 (国指定史跡) がある。
瀬戸
せと
956年三机村と四ッ浜村が合体して町制。 2005年伊方町,三崎町と合体して伊方町となる。台風の通り道で石置き屋根,防風石垣が多い。伊予灘側は屈曲に富み,集落が開ける。宇和海側は変化が少ない。平地に乏しく,ウシの飼育が行なわれ,三崎牛として,東京,京阪神に出荷。柑橘類の栽培も盛ん。伊予灘に臨む三机湾はかつての真珠湾攻撃の特殊潜航艇の訓練地で,ウバメガシの茂る須賀公園の南に,慰霊碑が立つ。佐田岬半島宇和海県立自然公園に属する。
瀬戸
せと
strait
両側の陸地の間にはさまれた狭い海。潮の干満によって生じる激しい潮流がみられる。広島県の音戸瀬戸 (おんどのせと) などがその例である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の瀬戸の言及
【海峡】より
…二つの陸地にはさまれた狭い水域。瀬戸または水道ともいう。陸地が断層運動や曲降運動などにより海中に沈んでつくられた海峡は深く(ジブラルタル海峡,紀伊,豊後両水道など),広い陸地が海中に沈んで低地や谷に海水が浸入してつくられた海峡は浅い(ダーダネルス海峡,関門海峡など)。…
【愛知[県]】より
…豊川河谷に沿って中央構造線が走るが,その南側の外帯には赤石山脈から続く弓張山地を経て,渥美半島の骨格をなす秩父古生層の山地が点在する。尾張の東部は鮮新・更新統からなる知多半島に続き,瀬戸陶土層,常滑ケツ岩層に多量に含まれる陶土は瀬戸,常滑の窯業地帯を支えている。濃尾平野(尾張平野)は面積約1800km2と関東平野に次ぐ日本で第2の平野であり,北から犬山を扇頂とした木曾川扇状地,自然堤防地帯,三角州低地と続く。…
【尾張国】より
… 産業面では,中世における最大の窯業地の中心が尾張であった。瀬戸では美濃とともに当時唯一の施釉陶器の産地として宗教用具や高級日用具を,常滑(とこなめ)では無釉の日用具を産した。現在瀬戸では500以上,常滑では1300以上の中世窯跡が確認されており,その製品は全国的に市場をもっていたことが,各地の発掘調査から知られている。…
【陶磁器】より
…東海諸窯では山茶碗窯と併存して分業生産体制をとっており,壺,甕,擂鉢のほか,若干の水注や四耳壺,仏器類を併焼している。第3は猿投窯山茶碗窯を母体として12世紀末葉に成立した,中世唯一の施釉陶窯である瀬戸である。瀬戸では前代の中国陶磁模倣の伝統を復活させ,南宋・元・明代の青磁,白磁を写しており,15世紀には美濃にまで拡散した。…
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