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「永田鉄山」の版間の差分

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{{基礎情報 軍人

{{基礎情報 軍人

| 氏名 = 永田 鉄山

| 氏名 = {{ruby|永田|ながた}} {{ruby|鉄山|てつざん}}

| 各国語表記 =

| 各国語表記 =

| 生年月日 = [[1884年]][[1月14日]]

| 画像 = Tessan Nagata 2.jpg

| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1884|1|14|1935|8|12}}

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| 画像説明 =

| 画像 = Tessan Nagata 2.jpg

| 画像サイズ = 240px

| 渾名 =

| 画像説明 =

| 生年月日 = [[1884年]]([[明治]]17年)[[1月14日]]

| 渾名 =

| 生誕地 = {{JPN}}[[長野県]][[諏訪郡]]

| 生誕地 = {{JPN}}[[長野県]][[諏訪郡]]

| 没年月日 = [[1935年]]([[昭和]]10年)[[8月12日]] 51歳

| 死没地 = {{JPN}}[[東京府]]

| 死没地 = {{JPN}}[[東京府]]

| 所属組織 = {{IJARMY}}

| 埋葬日 =

| 軍歴 = [[1904年]] - [[1935年]]

| 埋葬地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]附属[[立山墓地]]

| 所属組織 = [[画像:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|20px]] [[大日本帝国陸軍]]<br />[[統制派]]

| 最終階級 = [[ファイル:帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg|40px]] [[中将|陸軍中将]]

| 除隊後 =

| 軍歴 = [[1904年]](明治37年) - 1935年(昭和10年)

| 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]附属[[立山墓地]]

| 最終階級 = 陸軍中将

| 除隊後 =

}}

}}


''' ''' [[1884]][[]]17[[114]] - [[1935]][[]]10[[812]][[|]][[|]][[]][[]][[|]]2[[ ()|]][[]]2[[ ()|]]2[[]]1[[]][[]]<ref>13</ref>[[]][[#|]][[]][[]][[]][[]]

'''永田 鉄山'''(ながた てつざん、[[1884年]][[明治]]17年[[1月14日]] - [[1935年]][[昭和]]10年[[8月12日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[統制派]]の中心人物。

[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]次席卒業、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]首席卒業、[[陸軍大学校]]次席卒業を経て[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第2部長、[[歩兵]]第1[[旅団長]]などを歴任した。

軍政家として本流を歩み「将来の[[陸軍大臣]]」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」<ref>志道保亮『鉄山永田中将』(川流堂小林又七本店) 昭和13年</ref>と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。


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== 略歴・人物 ==

== 略歴・人物 ==

=== 前半生 ===


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[[1890年]](明治23年)に高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・[[諏訪市立高島小学校]])入学。「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の[[藤原咲平]]と同級だった。

[[1890年]](明治23年)に高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・[[諏訪市立高島小学校]])入学。「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の[[藤原咲平]]と同級だった。

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[[1903年]](明治36年)5月に[[士官候補生]]となり[[兵科]]は[[歩兵]]に指定され、[[歩兵第3連隊]]となる。

[[1903年]](明治36年)5月に[[士官候補生]]となり[[兵科]]は[[歩兵]]に指定され、[[歩兵第3連隊]]となる。




[[1904]]37[[1024]]16[[|]][[]][[]][[#|]]

[[1904]]37[[1024]][[ ()#16%E6%9C%9F|16]]111[[|]][[]][[]][[#|]]


[[1908年]](明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。

[[1908年]](明治41年)に陸軍大学校([[陸軍大学校卒業生一覧#23 (明治44年卒)|23期]])入校。




[[1910]]43112[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]

[[1910]]431123252[[]]︿[[]]<ref>{{Harvnb||2005|p=|pp=545-611|loc=3 -I -1.}}</ref>23[[]][[]][[]][[]][[]]


===バーデン・バーデンの密約===

=== バーデン・バーデンの密約 ===

{{See also|バーデン=バーデンの密約}}

その後、[[1920年]]([[大正]]9年)に[[在スイス日本国大使館|駐スイス公使館]]付[[駐在武官]]となった。1921年(大正10年)に永田と[[ロシア]]公使館付武官(ドイツにおいて待機)の[[小畑敏四郎]]少佐と欧州出張中の[[岡村寧次]]少佐の陸士16期の三者は、10月27日に[[ドイツ]]の[[バーデン・バーデン]]で会合をおこない、翌日にはここに[[東條英機]]も合流した。会合においては、陸軍における長州閥支配の打破、人事刷新、軍制改革、[[総動員]]体制の構築を目指すことが合意された([[バーデン・バーデンの密約]])。[[極東国際軍事裁判]]では検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。


[[1920]][[]]9[[使|使]][[]]192110[[]]使[[]][[]]161027[[]][[]][[]][[]][[]][[]]



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=== 総力戦体制構築の推進 ===

かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて[[1926年]](大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の[[資源局]]、[[陸軍省]]の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。

かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて[[1926年]](大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の[[資源局]]、[[陸軍省]]の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。



[[1928年]](昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は[[東条英機]]となった

[[1928年]](昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は[[東条英機]]となった。



麻布の[[歩兵第3連隊]]長を務めた後、[[1930年]](昭和5年)に[[南次郎]]陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。

麻布の[[歩兵第3連隊]]長を務めた後、[[1930年]](昭和5年)に[[南次郎]]陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。

[[File:Emperor Showa, Prince Chichibu, Nara Takeji and Nagata Tetsuzan.jpg|thumb|昭和年(1929年)水戸付近における陸軍演習で昭和天皇に軍状奏上する歩兵第三連隊長永田鉄山大佐]]

[[File:Emperor Showa, Prince Chichibu, Nara Takeji and Nagata Tetsuzan.jpg|thumb|昭和4年(1929年)水戸付近における陸軍演習で昭和天皇に軍状奏上する歩兵第三連隊長永田鉄山大佐]]



[[1932年]](昭和7年)に[[陸軍少将]]に昇進。

[[1932年]](昭和7年)に[[陸軍少将]]に昇進。



[[1933年]](昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「[[ソビエト連邦|ソ連]]に当たるには[[支那]]と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し[[荒木貞夫]]陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した<ref name="rikugunkoubou">「日本陸軍興亡の二十年」『丸』潮書房昭和31年12月</ref>。


[[1933]]86[[|]][[]][[]]<ref name="rikugunkoubou">3112</ref>


対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の[[小畑敏四郎]]と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった<ref name="rikugunkoubou"/>。

対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の[[小畑敏四郎]]と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった<ref name="rikugunkoubou" />。



[[1934年]](昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。

[[1934年]](昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。




8[[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref name="yamaguchi">[[]][[2]]{{|date=201411}}</ref>

同年8月、[[国府津]]に[[池田純久]]、[[田中清]]、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた[[経済国策研究会]]を通じ、[[昭和神聖会]]に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って[[戒厳令]]を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った<ref name="yamaguchi">山口富永『二・二六事件の[[偽史]]を撃つ』国民新聞社、平成2年{{要ページ番号|date=2014年11月}}</ref>。



[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]の政治支配と[[総力戦]]計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『[[国防の本義と其強化の提唱]]』という陸軍パンフレットを出版した。

[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]の政治支配と[[総力戦]]計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『[[国防の本義と其強化の提唱]]』という陸軍パンフレットを出版した。




[[麿]][[]][[]]<ref></ref>[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]

[[]][[]][[麿]]<ref></ref>


そのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱す青年将校を弾圧しようとした<ref>松沢哲成・鈴木正節『二・二六と青年将校』[[三一書房]]、 昭和49年</ref>。


[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>[[]]49</ref>


永田らは機密費を使って、[[真崎甚三郎]]悪玉説を流布し、[[岡田啓介]][[総理大臣]]は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという<ref name="yamaguchi" />。

統制派のカウンター・クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。



=== 相沢事件 ===

永田らは機密費を使って、[[真崎甚三郎]]悪玉説を流布し、[[岡田啓介]][[総理大臣]]は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという<ref name="yamaguchi"/>。

{{See also|相沢事件}}



11[[]][[]][[]][[]][[]][[]]

1934911[[]][[]][[]][[]][[]][[]]



退[[]][[]]

退[[]][[]]


そこで永田軍務局長は陸軍大臣[[林銑十郎]]大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した<ref>池田純久『日本の曲り角』千城出版、昭和43年</ref>。

そこで永田軍務局長は陸軍大臣[[林銑十郎]]大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した<ref>池田純久『日本の曲り角』千城出版、昭和43年</ref>。



[[1935年]](昭和10年)[[7月15日]]の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、[[統帥権]]の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。

[[1935年]](昭和10年)[[7月15日]]の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、[[統帥権]]の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。



それを真に受けた[[歩兵第41連隊]]付の[[相沢三郎]]中佐は、同年[[7月19日]]に[[有末精三]][[中佐]]の紹介により永田に面会し辞職を迫

それを真に受けた[[歩兵第41連隊]]付の[[相沢三郎]]中佐は、同年[[7月19日]]に[[有末精三]]中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫った




[[812]][[]]{{|1884|1|14|1935|8|12}}

[[812]][[]][[]]<ref>10813.5 10-11p1   1994</ref>{{|1884|1|14|1935|8|12}}


=== 死後 ===

死亡時は陸軍少将であったが、に[[陸軍中将]]に昇進される。没後追贈で[[正四位]][[勲一等]]に叙され[[瑞宝章]]を授与。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]附属[[立山墓地]]。

死亡時は陸軍少将であったが、に[[陸軍中将]]に昇進。没後追贈で[[正四位]][[勲一等]]に叙され[[瑞宝章]]を授与。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]附属[[立山墓地]]。



永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは後に[[二・二六事件]]を起こすに至る。

永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは後に[[二・二六事件]]を起こすに至る。



その後、永田が筆頭であった統制派は、[[東條英機]]が継承し[[石原莞爾]]らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に至る。


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[[企画院]]総裁だった[[鈴木貞一]]は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた<ref>[[NHKスペシャル]]「[[日本人はなぜ戦争へと向かったのか]]」で放送された証言録音より。</ref>。

[[企画院]]総裁だった[[鈴木貞一]]は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた<ref>[[NHKスペシャル]]「[[日本人はなぜ戦争へと向かったのか]]」で放送された証言録音より。</ref>。



== 評価 ==

== 評価 ==

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「[[統制派]]」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「[[皇道派]]」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある<ref>小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』ミネルヴァ書房、平成22年</ref>。

「[[統制派]]」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「[[皇道派]]」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある<ref>小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』ミネルヴァ書房、平成22年</ref>。



永田は1920年代中頃において、政党政治と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の支那事変に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」(国防意識を高め、国民の理解を得る)という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている<ref name="mori_yasuo"/>。

永田は1920年代中頃において、[[政党政治]]と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の[[支那事変]]に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」(国防意識を高め、国民の理解を得る)という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている<ref name="mori_yasuo" />。



他方、石原莞爾らが関東軍を使い起こした満事変を、永田を含めた一夕会は支持していた。永田が、関東軍の暴走を結果的に支持していたのは事実である<ref>雑誌『外交時報』永田本人の寄稿文「満蒙問題感懐の一端」昭和7年</ref>。


使[[]]<ref>稿7</ref>


だが永田が満事変に賛同していたとするには疑問が残る。

だが永田が満事変に賛同していたとするには疑問が残る。




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3<ref>p.187-189 55</ref>



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また、永田は溥儀擁立にも反対しており<ref name="kido_kouichi"/>、関東軍の板垣とは真っ向から対立していた事が分かる。

また、永田は[[溥儀]]擁立にも反対しており<ref name="kido_kouichi" />、関東軍の板垣とは真っ向から対立していた事が分かる。




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193584[[]]6[[]][[|]][[]][[]]<ref>    p211-212</ref>

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== 逸話 ==

== 逸話 ==


[[]][[]][[]]辿<ref>[[]][[]] 1978</ref>

* [[]][[]][[]]辿<ref>[[]][[]] 1978</ref>


* [[]]<ref> 201547</ref>


== 軍歴 ==

== 軍歴 ==

* [[1904年]](明治37年)

* [[1904年]](明治37年)

** 10月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(16期首席)

** 10月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(16期首席)


** 111 - [[|]]<ref>{{Cite book| |title=簿 991調 |year=1934 |publisher=[[]] |page=23 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1449981/1/26}}</ref>[[3]]

** 11月 - [[少尉]]に昇進。歩兵第3連隊補充大隊附。

* [[1906年]](明治39年)1月 - [[歩兵第58連隊]]附

* [[1906年]](明治39年)1月 - [[歩兵第58連隊]]附

* [[1907年]](明治40年)12月 - [[中尉]]に

* [[1907年]](明治40年)12月 - [[中尉|陸軍歩兵中尉]]に進

* [[1911年]](明治44年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(23期)

* [[1911年]](明治44年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(23期)

* [[1912年]](明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課)

* [[1912年]](明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課)

* [[1913年]](大正2年)

* [[1913年]](大正2年)

** 8月 - [[大尉]]に

** 8月 - [[大尉|陸軍歩兵大尉]]に進

** 10月 - [[ドイツ]]駐在(~[[1914年]]大正3年)8月)

** 10月 - [[ドイツ]]駐在[[1914年]]大正3年〉8まで

* [[1915年]](大正4年)

* [[1915年]](大正4年)

** 3月 - 俘虜情報局御用掛

** 3月 - 俘虜情報局御用掛

** 6月 - [[デンマーク]]駐在

** 6月 - [[デンマーク]]駐在

** 11月 - [[スウェーデン]]駐在(~[[1917]](大正6年)9月)

** 11月 - [[スウェーデン]]駐在(1917大正6年〉9まで

* [[1917年]](大正6年)11月 - 臨時軍事調査委員

* [[1917年]](大正6年)11月 - 臨時軍事調査委員

* [[1919年]](大正8年)4月 - [[少佐]]に

* [[1919年]](大正8年)4月 - [[少佐|陸軍歩兵少佐]]に進

* [[1921年]](大正10年)6月 - [[在スイス日本国大使館|スイス公使館]]附武官

* [[1921年]](大正10年)6月 - [[在スイス日本国大使館|スイス公使館]]附武官

* [[1923年]](大正12年)

* [[1923年]](大正12年)

** 2月 - 参謀本部附

** 2月 - 参謀本部附

** 3月 - 教育総監課員

** 3月 - 教育総監課員

** 8月 - [[中佐]]に

** 8月 - [[中佐|陸軍歩兵中佐]]に進

** 10月 - 陸軍大学校教官(兼任)

** 10月 - 陸軍大学校教官(兼任)

* [[1924年]](大正13年)

* [[1924年]](大正13年)

** 8月 - [[歩兵第50連隊]]附

** 8月 - [[歩兵第50連隊]]附

** 12月 - [[陸軍技術本部]]附、軍事課高級課員、陸軍大学校教官(兼任)

** 12月 - [[陸軍技術本部]]附、軍事課高級課員、陸軍大学校教官(兼任)

* [[1925年]](大正14年)6月 - [[国本社]]評議員嘱託

* [[1925年]](大正14年)6月 - [[国本社]]評議員嘱託

* [[1926年]](大正15年)

* [[1926年]](大正15年)

** [[3月23日]] - [[陸軍兵器本廠]]附(作戦資材整備会議幹事)

** [[3月23日]] - [[陸軍兵器本廠]]附(作戦資材整備会議幹事)

** [[10月1日]] - 整備局動員課長

** [[10月1日]] - 整備局動員課長

* [[1927年]](昭和2年)[[3月5日]] - [[大佐]]に

* [[1927年]](昭和2年)[[3月5日]] - [[大佐|陸軍歩兵大佐]]に進

* [[1928年]](昭和3年)[[3月8日]] - 歩兵第3連隊長

* [[1928年]](昭和3年)[[3月8日]] - [[歩兵第3連隊|歩兵第3連隊長]]

* [[1930年]](昭和5年)[[8月1日]] - [[陸軍省]]軍事課長

* [[1930年]](昭和5年)[[8月1日]] - [[陸軍省]]軍務局軍事課長

* [[1932年]](昭和7年)[[4月11日]] - [[少将]]に進。参謀本部第2部長

* [[1932年]](昭和7年)[[4月11日]] - [[少将|陸軍少将]]に進。参謀本部第2部長

* [[1933年]](昭和8年)[[8月1日]] - 歩兵第1[[旅団]]長

* [[1933年]](昭和8年)8月1日 - 歩兵第1[[旅団]]長

* [[1934年]](昭和9年)[[3月5日]] - 陸軍省軍務局長

* [[1934年]](昭和9年)3月5日 - 陸軍省軍務局長

* [[1935年]](昭和10年)[[8月12日]] - 相沢三郎中佐に刺殺される。[[中将]]に

* [[1935年]](昭和10年)[[8月12日]] - 相沢三郎中佐に刺殺される。殉職により同日付で[[中将]]に進



== 栄典 ==

== 栄典 ==

;位階

;位階

* [[1904年]](明治37年)[[12月8日]] - [[正八位]]<ref>『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。</ref>

* [[1918年]](大正7年)[[7月10日]] - [[従六位]]<ref>[{{NDLDC|2953895/4}} 『官報』1918年07月11日 叙任及辞令] </ref>

* [[1918年]](大正7年)[[7月10日]] - [[従六位]]<ref>[{{NDLDC|2953895/4}} 『官報』1918年07月11日 叙任及辞令] </ref>

* [[1923年]](大正12年)[[8月6日]] - [[正六位]]<ref>[{{NDLDC|2955430/2}} 『官報』1923年08月08日 叙任及辞令] </ref>

* [[1923年]](大正12年)[[8月6日]] - [[正六位]]<ref>[{{NDLDC|2955430/2}} 『官報』1923年08月08日 叙任及辞令] </ref>

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== 家族・親族 ==

== 家族・親族 ==

* 父・'''[[永田志解理|志解理]]'''

* 父・'''[[永田志解理|志解理]]'''


*: [[|]]34西441880134[[]]1886197000<ref name="mori_yasuo"/>

*: [[|]]34西441880134[[]]1886197000<ref name="mori_yasuo" />


== 伝記 ==

== 伝記 ==

* 志道保亮『鉄山永田中将』川流堂小林又七本店 [[昭和]]13年

* 志道保亮『鉄山永田中将』川流堂小林又七本店 [[昭和]]13年

* 永田鉄山刊行会編『秘録 永田鉄山』芙蓉書房 [[昭和47年]]

* 永田鉄山刊行会編『秘録 永田鉄山』芙蓉書房 昭和47年

* [[川田稔]]『浜口雄幸と永田鉄山』[[講談社]]選書メチエ [[平成]]21年

* [[川田稔]]『浜口雄幸と永田鉄山』[[講談社]]選書メチエ [[平成]]21年

* [[森靖夫]]『永田鉄山 - 平和維持は軍人の最大責務なり』[[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉[[平成23年]]

* [[森靖夫]]『永田鉄山 - 平和維持は軍人の最大責務なり』[[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉 平成23年

* [[川田稔]]『昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐』[[中公新書]] [[平成23年]]

* 川田稔『昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐』[[中公新書]] 平成23年

* [[早坂隆]]『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』[[文春新書]] [[平成27年]]

* [[早坂隆]]『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』[[文春新書]] 平成27年

* [[川田稔]]『永田鉄山軍事戦略論集』[[講談社]]選書メチエ [[平成29年]]

* 川田稔『永田鉄山軍事戦略論集』講談社選書メチエ 平成29年

* [[岩井秀一郎]]『永田鉄山と昭和陸軍』[[祥伝社新書]] [[令和]]元年

* [[岩井秀一郎]]『永田鉄山と昭和陸軍』[[祥伝社新書]] [[令和]]元年



== 脚注 ==

== 脚注 ==

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== 参考文献 ==


* {{Citation|和書|title=日本陸海軍総合事典|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|edition=第2版|publisher=[[東京大学出版会]]}}


== 関連作品 ==

;映画

* 『[[叛乱 (映画)|叛乱]]』1954年、演:[[野村清二郎]]

* 『[[重臣と青年将校 陸海軍流血史]]』1958年、演:[[山口多賀志]]

* 『[[貴族の階段]]』1959年、演:[[伊東光一]]

* 『[[銃殺 (日本映画)|銃殺]]』1964年、演:[[菅沼正]](劇中の永井運務局長のモデル)

* 『[[戦争と人間]] 第二部 愛と悲しみの山河』1973年、演:[[鴨田喜由]]

* 『[[動乱 (映画)|動乱]]』1980年、演:[[天津敏]](劇中の水沼鉄太郎少将のモデル)

;テレビドラマ

* 『[[落日燃ゆ]]』2009年、演:[[笹木俊志]]

;マンガ

* [[本宮ひろ志]]『[[国が燃える]]』2002-2005年

* [[三田紀房]]『[[アルキメデスの大戦]]』2015年-



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[相沢事件]]

* [[相沢事件]]

* [[満事変]]

* [[満事変]]

* [[統制派]]

* [[統制派]]



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* [http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/gokoku-suwa.htm 永田鉄山略歴 諏訪護國神社]

* [https://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/gokoku-suwa.htm 永田鉄山略歴 諏訪護國神社]

* [http://www.c20.jp/1935/08aizaw.html 相沢事件 (永田軍務局長斬殺)/クリック20世紀]

* [http://www.c20.jp/1935/08aizaw.html 相沢事件 (永田軍務局長斬殺)/クリック20世紀]

* {{Kotobank}}



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[[Category:永田鉄山|*]]

[[Category:大日本帝国陸軍中将]]

[[Category:大日本帝国陸軍中将]]

[[Category:暗殺された]]

[[Category:20世紀の軍人]]

[[Category:統制派]]

[[Category:統制派]]

[[Category:三月事件の人物]]

[[Category:三月事件の人物]]

[[Category:十月事件の人物]]

[[Category:十月事件の人物]]

[[Category:暗殺された人物]]

[[Category:陸軍大学校の教員]]

[[Category:陸軍大学校出身の人物]]

[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]]

[[Category:長野県出身の人物]]

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[[Category:1884年生]]

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[[Category:1935年没]]

[[Category:1935年没]]

[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]


2024年5月11日 (土) 13:44時点における最新版

永田ながた 鉄山てつざん
生誕 1884年1月14日
日本の旗 日本長野県諏訪郡
死没 (1935-08-12) 1935年8月12日(51歳没)
日本の旗 日本東京府
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1904年 - 1935年
最終階級 陸軍中将
墓所 東京都港区青山霊園附属立山墓地
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(二)^  2005, pp. 545611, 3 -I -1.

(三)^ ab3112

(四)^ ab2[]

(五)^ 

(六)^ 49

(七)^ 43

(八)^ 10813.5 10-11p1   1994

(九)^ NHK

(十)^ abcd ︿23

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(12)^ 稿7

(13)^ p.187-189 55

(14)^ ab41

(15)^     p.211-212

(16)^  1978

(17)^  201547

(18)^ 簿 991調193423https://dl.ndl.go.jp/pid/1449981/1/26 

(19)^ 644119041217

(20)^ 19180711  

(21)^ 19230808  

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