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永田が11歳であった[[1895年]]︵明治28年︶8月26日に父の志解理が死去した。同年10月に東京市牛込区[[新宿区立愛日小学校|愛日尋常高等小学校]]に転校。[[1898年]]︵明治31年︶9月に[[東京陸軍幼年学校|東京陸軍地方幼年学校]]に入校した。
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永田が11歳であった[[1895年]]︵明治28年︶8月26日に父の志解理が死去した。同年10月に東京市牛込区[[新宿区立愛日小学校|愛日尋常高等小学校]]に転校。[[1898年]]︵明治31年︶9月に[[東京陸軍幼年学校|東京陸軍地方幼年学校]]に入校した。
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[[1903年]](明治36年)5月に[[士官候補生]]となり[[兵科]]は[[歩兵]]に指定され、[[歩兵第3連隊]] |
[[1903年]](明治36年)5月に[[士官候補生]]となり[[兵科]]は[[歩兵]]に指定され、[[歩兵第3連隊]]附となる。 |
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[[1904年]](明治37年)[[10月24日]]に陸軍士官学校([[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#16%E6%9C%9F|16期]])を首席卒業し、[[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任 |
[[1904年]]︵明治37年︶[[10月24日]]に陸軍士官学校︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#16%E6%9C%9F|16期]]︶を首席卒業し、同年11月1日に[[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。陸士同期の[[岡村寧次]]、[[小畑敏四郎]]共に[[三羽烏#軍事|陸士第十六期三羽烏]]の一人と評されることになった。
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[[1908年]](明治41年)に陸軍大学校([[陸軍大学校卒業生一覧#23期 (明治44年卒)|23期]])入校。 |
[[1908年]](明治41年)に陸軍大学校([[陸軍大学校卒業生一覧#23期 (明治44年卒)|23期]])入校。 |
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[[1910年]]︵明治43年︶11月に陸 |
[[1910年]]︵明治43年︶11月に陸大23期を2位/52名︵首席は[[梅津美治郎]]︿のちに陸軍大将﹀︶で卒業し、[[恩賜の軍刀]]を授与される<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生}}</ref>。陸大23期の同期には、梅津、[[蓮沼蕃]]、[[前田利為]]、[[猪狩亮介]]、[[入江仁六郎]]、[[小川恒三郎]]、小畑敏四郎らがいる。
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=== バーデン・バーデンの密約 === |
=== バーデン・バーデンの密約 === |
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=== 死後 === |
=== 死後 === |
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死亡時は陸軍少将であったが、 |
死亡時は陸軍少将であったが、後に[[陸軍中将]]に昇進。没後追贈で[[正四位]][[勲一等]]に叙され[[瑞宝章]]を授与。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]附属[[立山墓地]]。 |
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永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは |
永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは後に[[二・二六事件]]を起こすに至る。 |
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その後、永田が筆頭であった統制派は、[[東條英機]]が継承した。やがて[[太平洋戦争]]︵[[大東亜戦争]]︶に至る。しかし[[石原莞爾]]らとは対 |
その後、永田が筆頭であった統制派は、[[東條英機]]が継承した。やがて[[日中戦争]]・[[太平洋戦争]]︵[[大東亜戦争]]︶を主導するに至る。しかし[[石原莞爾]]らとは東條は対立し、石原は大戦でその采配を全く振ること無く予備役とされた。
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[[企画院]]総裁だった[[鈴木貞一]]は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた<ref>[[NHKスペシャル]]「[[日本人はなぜ戦争へと向かったのか]]」で放送された証言録音より。</ref>。 |
[[企画院]]総裁だった[[鈴木貞一]]は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた<ref>[[NHKスペシャル]]「[[日本人はなぜ戦争へと向かったのか]]」で放送された証言録音より。</ref>。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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ある日、陸軍大学校時代の教え子が永田局長を訪ねた時、永田は[[五・一五事件]]について教え子に尋ね、その教え子が犯人達を非難すると、永田も同意し、話せば分かると犯人に説いた[[犬養毅]]首相を古今の名将にもまさる床しさを感じると称賛し、[[十月事件]]以降の軍内の一部の不穏な動きを言語道断であると話していたが、その後まもなく、永田も犬養と同じ運命を辿ることとなった<ref>[[上法快男]]編、[[高山信武]]著、﹃続・陸軍大学校﹄芙蓉書房 1978年</ref>。
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* ある日、陸軍大学校時代の教え子が永田局長を訪ねた時、永田は[[五・一五事件]]について教え子に尋ね、その教え子が犯人達を非難すると、永田も同意し、話せば分かると犯人に説いた[[犬養毅]]首相を古今の名将にもまさる床しさを感じると称賛し、[[十月事件]]以降の軍内の一部の不穏な動きを言語道断であると話していたが、その後まもなく、永田も犬養と同じ運命を辿ることとなった<ref>[[上法快男]]編、[[高山信武]]著、﹃続・陸軍大学校﹄芙蓉書房 1978年</ref>。
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陸軍大学校の試験の間際、優秀な永田は一人で悠々と科目外の[[中国語]]をやっており、それを見た同期の小畑が、﹁俺たちが惨めすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれないか﹂と永田に懇願したという<ref>早坂隆著、﹃永田鉄山 昭和維新﹁運命の男﹂﹄文春新書、2015年47頁</ref>。
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* 陸軍大学校の試験の間際、優秀な永田は一人で悠々と科目外の[[中国語]]をやっており、それを見た同期の小畑が、﹁俺たちが惨めすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれないか﹂と永田に懇願したという<ref>早坂隆著、﹃永田鉄山 昭和維新﹁運命の男﹂﹄文春新書、2015年47頁</ref>。
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== 軍歴 == |
== 軍歴 == |
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* [[1904年]](明治37年) |
* [[1904年]](明治37年) |
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** 10月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(16期首席) |
** 10月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(16期首席) |
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** 11月 - [[少尉]]に |
** 11月1日 - [[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官<ref>{{Cite book|和書 |title=陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和9年9月1日調 |year=1934 |publisher=[[偕行社]] |page=23 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1449981/1/26}}</ref>。[[歩兵第3連隊]]補充大隊附
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* [[1906年]](明治39年)1月 - [[歩兵第58連隊]]附 |
* [[1906年]](明治39年)1月 - [[歩兵第58連隊]]附 |
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* [[1907年]](明治40年)12月 - [[中尉]]に |
* [[1907年]](明治40年)12月 - [[中尉|陸軍歩兵中尉]]に進級 |
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* [[1911年]](明治44年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(23期) |
* [[1911年]](明治44年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(23期) |
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* [[1912年]](明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課) |
* [[1912年]](明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課) |
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* [[1913年]](大正2年) |
* [[1913年]](大正2年) |
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** 8月 - [[大尉]]に |
** 8月 - [[大尉|陸軍歩兵大尉]]に進級 |
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** 10月 - [[ドイツ]]駐在([[1914年]]〈大正3年〉8月まで) |
** 10月 - [[ドイツ]]駐在([[1914年]]〈大正3年〉8月まで) |
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* [[1915年]](大正4年) |
* [[1915年]](大正4年) |
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** 11月 - [[スウェーデン]]駐在(1917年〈大正6年〉9月まで) |
** 11月 - [[スウェーデン]]駐在(1917年〈大正6年〉9月まで) |
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* [[1917年]](大正6年)11月 - 臨時軍事調査委員 |
* [[1917年]](大正6年)11月 - 臨時軍事調査委員 |
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* [[1919年]](大正8年)4月 - [[少佐]]に |
* [[1919年]](大正8年)4月 - [[少佐|陸軍歩兵少佐]]に進級 |
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* [[1921年]](大正10年)6月 - [[在スイス日本国大使館|スイス公使館]]附武官 |
* [[1921年]](大正10年)6月 - [[在スイス日本国大使館|スイス公使館]]附武官 |
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* [[1923年]](大正12年) |
* [[1923年]](大正12年) |
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** 2月 - 参謀本部附 |
** 2月 - 参謀本部附 |
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** 3月 - 教育総監課員 |
** 3月 - 教育総監部課員 |
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** 8月 - [[中佐]]に |
** 8月 - [[中佐|陸軍歩兵中佐]]に進級 |
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** 10月 - 陸軍大学校教官(兼任) |
** 10月 - 陸軍大学校教官(兼任) |
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* [[1924年]](大正13年) |
* [[1924年]](大正13年) |
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** [[3月23日]] - [[陸軍兵器本廠]]附(作戦資材整備会議幹事) |
** [[3月23日]] - [[陸軍兵器本廠]]附(作戦資材整備会議幹事) |
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** [[10月1日]] - 整備局動員課長 |
** [[10月1日]] - 整備局動員課長 |
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* [[1927年]](昭和2年)[[3月5日]] - [[大佐]]に |
* [[1927年]](昭和2年)[[3月5日]] - [[大佐|陸軍歩兵大佐]]に進級 |
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* [[1928年]](昭和3年)[[3月8日]] - 歩兵第3連隊長 |
* [[1928年]](昭和3年)[[3月8日]] - [[歩兵第3連隊|歩兵第3連隊長]] |
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* [[1930年]](昭和5年)[[8月1日]] - [[陸軍省]]軍事課長 |
* [[1930年]](昭和5年)[[8月1日]] - [[陸軍省]]軍務局軍事課長 |
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* [[1932年]](昭和7年)[[4月11日]] - [[少将]]に |
* [[1932年]](昭和7年)[[4月11日]] - [[少将|陸軍少将]]に進級。参謀本部第2部長 |
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* [[1933年]](昭和8年)8月1日 - 歩兵第1[[旅団]]長 |
* [[1933年]](昭和8年)8月1日 - 歩兵第1[[旅団]]長 |
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* [[1934年]](昭和9年)3月5日 - 陸軍省軍務局長 |
* [[1934年]](昭和9年)3月5日 - 陸軍省軍務局長 |
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* [[1935年]](昭和10年)[[8月12日]] - 相沢三郎中佐に刺殺される。[[中将]]に |
* [[1935年]](昭和10年)[[8月12日]] - 相沢三郎中佐に刺殺される。殉職により同日付で[[中将]]に進級 |
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== 栄典 == |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書|title=日本陸海軍総合事典|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|edition=第2版|publisher=[[東京大学出版会]]}} |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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;映画 |
;映画 |
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* 『[[叛乱 (映画)|叛乱]]』1954年、演:[[野村清二郎]] |
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* 『[[重臣と青年将校 陸海軍流血史]]』1958年、演:[[山口多賀志]] |
* 『[[重臣と青年将校 陸海軍流血史]]』1958年、演:[[山口多賀志]] |
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* 『[[貴族の階段]]』1959年、演:[[伊東光一]] |
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* 『[[銃殺 (日本映画)|銃殺]]』1964年、演:[[菅沼正]](劇中の永井運務局長のモデル) |
* 『[[銃殺 (日本映画)|銃殺]]』1964年、演:[[菅沼正]](劇中の永井運務局長のモデル) |
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* 『[[戦争と人間]] 第二部 愛と悲しみの山河』1973年、演:[[鴨田喜由]] |
* 『[[戦争と人間]] 第二部 愛と悲しみの山河』1973年、演:[[鴨田喜由]] |
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* 『[[動乱 (映画)|動乱]]』1980年、演:[[天津敏]](劇中の水沼鉄太郎少将のモデル) |
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;テレビドラマ |
;テレビドラマ |
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* 『[[落日燃ゆ]]』2009年、演:[[笹木俊志]] |
* 『[[落日燃ゆ]]』2009年、演:[[笹木俊志]] |
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== 外部リンク == |
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* [https://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/gokoku-suwa.htm 永田鉄山略歴 諏訪護國神社] |
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* [http://www.c20.jp/1935/08aizaw.html 相沢事件 (永田軍務局長斬殺)/クリック20世紀] |
* [http://www.c20.jp/1935/08aizaw.html 相沢事件 (永田軍務局長斬殺)/クリック20世紀] |
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* {{Kotobank}} |
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[[Category:1884年生]] |
[[Category:1884年生]] |
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[[Category:1935年没]] |
[[Category:1935年没]] |
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[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]] |
2024年5月11日 (土) 13:44時点における最新版
生誕 |
1884年1月14日 日本・長野県諏訪郡 |
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死没 |
1935年8月12日(51歳没) 日本・東京府 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1904年 - 1935年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 東京都港区青山霊園附属立山墓地 |