ミズーリ (戦艦)
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ミズーリ | |
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![]() 1944年夏の就役直後、グアンタナモ湾に停泊するミズーリ。特徴的な三色迷彩が施されている。 | |
基本情報 | |
建造所 | ブルックリン海軍工廠 |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦種 | 戦艦 |
級名 | アイオワ級 |
艦歴 | |
発注 | 1940年6月12日 |
起工 | 1941年1月6日 |
進水 | 1944年1月29日 |
就役 | 1944年6月11日 |
退役 | 1992年3月31日 |
その後 | 記念艦として公開 |
要目 | |
基準排水量 | 45,000 t |
満載排水量 | 58,000 t |
全長 | 887 ft 3 in (270.4 m) |
最大幅 | 108 ft 3 in (33 m) |
吃水 | 38 ft (11.6 m) |
機関 | GE製蒸気タービン×4 |
出力 | 212,000B hp |
最大速力 |
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乗員 |
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兵装 |
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装甲 |
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要目出典:[1] |
ミズーリ︵USS Missouri, BB-63︶は、アメリカ海軍の超弩級戦艦。アイオワ級の3番艦。艦名はアメリカ合衆国24番目の州に因む。この名を持つ艦としては4隻目。愛称は﹁Mighty Mo﹂あるいは﹁Big Mo﹂。
当時の副大統領であるハリー・S・トルーマンの出身のミズーリ州に因んでミズーリが選定された。太平洋戦争での日本の降伏文書調印式場として、甲板上が使用された歴史的な戦艦である[2]。第二次世界大戦終結後は朝鮮戦争に参加した[2]。その後は予備役となったが、﹁600隻艦隊構想﹂に基づき近代化改修が行われて1986年に現役復帰し、イラン・イラク戦争中の船団護衛任務や湾岸戦争に参加した。1992年に退役した後は、1999年からハワイ州パールハーバーで記念艦として保存されている。しばしば映画にも登場し、﹃沈黙の戦艦﹄[注釈 1]、﹃パール・ハーバー﹄[注釈 2]、﹃バトルシップ﹄に登場した有名な米国戦艦である。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d1/USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_Alaska_%28CB-1%29_at_Norfolk%2C_Virginia%2C_1944.jpg/250px-USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_Alaska_%28CB-1%29_at_Norfolk%2C_Virginia%2C_1944.jpg)
1944年8月、ノーフォーク海軍基地におけるミズーリ︵上︶とアラ スカ級大型巡洋艦アラスカ︵下︶
ミズーリは1940年6月12日に建造発注され、ブルックリンのニューヨーク海軍工廠1941年1月6日に起工、1944年1月29日にメアリー・マーガレット・トルーマン︵ミズーリ州選出上院議員ハリー・S・トルーマンの娘︶によって命名、進水した。1944年6月11日にアメリカ海軍最後の戦艦として初代艦長ウィリアム・M・キャラハン大佐の指揮下就役した。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Kamikaze_zero.jpg/250px-Kamikaze_zero.jpg)
ミズーリへの特攻機の突入
4月17日23:05ごろ、艦隊から19kmの水域に敵潜水艦を発見する。その報により空母バターンおよび4隻の駆逐艦による対潜水艦攻撃が行われ、部隊は伊号第五六潜水艦を撃沈した。
5月5日に沖縄沖で空母機動部隊から離れウルシー泊地へ向かった。沖縄戦で5機の敵機を撃墜、6機の破壊を支援し、空母機動部隊に対する敵の12回に及ぶ昼間攻撃と4回の夜間攻撃を撃退した。その主砲による砲撃でいくつかの沿岸砲台、多くの軍事施設、官庁および産業施設を破壊した。5月9日にウルシー泊地に到着し、18日にグアムのアプラ港に到着した。同日午後、第3艦隊司令長官 ウィリアム・ハルゼー海軍大将は提督旗を掲揚しミズーリも艦隊旗艦となった。5月21日に出航し、5月27日には再び沖縄近海で艦砲射撃を行った。ミズーリは第3艦隊を率いて6月2日、3日の両日にわたり九州南部の飛行場に対して攻撃を実施した。6月5日、6日は嵐を避けて出港し、いくつかの固定器具が破損したものの大きな損害は受けなかった。艦隊は6月8日に再び九州を攻撃し、その後レイテ島に向かった。レイテ島のサンペドロ湾には6月13日到着した。
ミズーリは第3艦隊を率いて日本本土に対する攻撃の準備を行った。艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京を攻撃した。その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃した︵室蘭艦砲射撃︶。これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。この砲撃で日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者︵民間人‥439人︶が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。
7月17日、18日には茨城県日立市および勝田町︵現ひたちなか市︶の工業地帯を砲撃した。その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、空母の護衛任務についた。7月末にはもはや燃料が底をついた日本軍に制海権は殆ど無く、アメリカ艦隊を中心とした連合国軍の艦艇は日本近海で自由な活動を行った。
北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開された。翌日の20:54、本艦乗員は非公式ニュースとして﹁天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていた﹂という知らせを聞き、衝撃を覚えていた。8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本のポツダム宣言受諾を発表した。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/70/USS_Missouri_transfers.JPG/250px-USS_Missouri_transfers.JPG)
1945年8月20日、ミズーリ︵左︶とアイオワ︵右︶
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Perry_flag_1945.jpg/220px-Perry_flag_1945.jpg)
左側の31州の星条旗は、使用当時、江戸時代の黒船来航のマシュー・ペ リー提督らが使用していた実物である。
イギリス海軍太平洋艦隊司令官ブルース・フレーザー海軍大将は8月16日に乗艦し、ハルゼーに大英帝国勲章を授与した。8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワに移乗させた。その後8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入った。
艦歴[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d1/USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_Alaska_%28CB-1%29_at_Norfolk%2C_Virginia%2C_1944.jpg/250px-USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_Alaska_%28CB-1%29_at_Norfolk%2C_Virginia%2C_1944.jpg)
第二次世界大戦[編集]
ニューヨーク沖での慣熟訓練及びチェサピーク湾での戦闘訓練の後、ノーフォークを11月11日に出航、パナマ運河を11月18日に通過しサンフランシスコで艦隊旗艦としての最終調整を行った。就役直後は灰色2色に黒を交えた雲形迷彩︵Ms.32/22D︶が施されていた。サンフランシスコを12月14日に出航し、12月24日に真珠湾に到着した。1945年1月2日にハワイを出発し1月13日にウルシー泊地に到着、そこでマーク・ミッチャー海軍中将率いる第58任務部隊臨時司令部に任ぜられた。1月27日にレキシントン任務グループの護衛任務に出発、2月16日に空母部隊は1942年4月18日のドーリットル空襲以来の日本本土空襲を行った。 その後空母部隊と共に硫黄島に向かい、2月19日の上陸作戦に対して支援艦砲射撃を実施した。第58任務部隊は3月5日にウルシー泊地に帰還し、ヨークタウン空母任務グループへ配属された。3月14日にウルシー泊地を出航、部隊は日本本土に向かった。3月18日に開始した瀬戸内海沿岸に対する攻撃で、4機の日本軍機を撃墜した。 瀬戸内海および本州南西部の飛行場、海軍基地に対する攻撃は継続された。日本軍の反撃により3月19日にフランクリンが2発の爆弾を被弾し大きな損害を受け、フランクリンは14ノット︵26km/h︶の速度で重巡洋艦ピッツバーグに曳航された。ミズーリを含む空母機動部隊はフランクリンの護衛を3月22日のウルシー泊地到着まで行った。その後、沖縄攻略前の艦砲射撃のため再び日本に向った。 3月24日、第58任務部隊と共に沖縄南東部海岸に対して砲撃を行った。海兵隊と陸軍部隊が4月1日の朝に上陸を決行すると、再び空母護衛部隊と合流した。空母艦載機部隊は4月7日に戦艦大和を撃沈し、3隻の駆逐艦を大きく破壊、4隻の駆逐艦が長崎の佐世保へ後退した。 4月11日午後、特攻機︵爆装零戦︶1機が低空飛行で右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり、燃料に引火した。表面に軽微な損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在も船体に残っている。突入機の操縦員の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長はこの操縦員を名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日水葬が執り行われた。この操縦員の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹機であったと判明した︵同時に突入した同じく第五建武隊石井兼吉二等兵曹機の可能性もある。突入できなかった機は対空砲火により撃墜された︶。艦上で行われた葬儀はこの1回のみであった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Kamikaze_zero.jpg/250px-Kamikaze_zero.jpg)
降伏文書調印式[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Perry_flag_1945.jpg/220px-Perry_flag_1945.jpg)
「日本の降伏文書」および「日本降伏時、調印式参加艦艇一覧」も参照
大日本帝国政府および大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の降伏文書調印式は、9月2日に東京湾︵中ノ瀬水道中央部千葉県よりの海域︶に停泊中の本艦甲板上で行われ、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダ・ソビエト連邦・オーストラリア・ニュージーランドが調印して、日本の降伏を受け入れた︵対日戦勝記念日︶。
全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦した[注釈 3]。チェスター・ニミッツ海軍元帥は8:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は8:43に乗艦し、日本側全権代表団は8:56に到着した。アメリカ海軍では、乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げると規定されているが、降伏調印式では、マッカーサーの要求で例外的に、海軍元帥の将旗だけでなく、陸軍元帥の将旗も掲げられた。9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中甲板は2枚の星条旗で飾られた。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物︵48州の星が描かれた星条旗︶、もう1枚は1853年の黒船来航で東京湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物︵31州の星が描かれた星条旗︶である。
9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦を戦艦サウスダコタに移し、翌日早朝東京湾を出航した。途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしでハワイの真珠湾に9月20日到着した。9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚した。 調印式の撮影は海兵隊の従軍写真家だったデビッド・ダグラス・ダンカンが行った[4]。
9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦を戦艦サウスダコタに移し、翌日早朝東京湾を出航した。途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしでハワイの真珠湾に9月20日到着した。9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚した。 調印式の撮影は海兵隊の従軍写真家だったデビッド・ダグラス・ダンカンが行った[4]。
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調印するダグラス・マッカーサー陸軍元帥
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調印するチェスター・ニミッツ海軍元帥
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日本側全権代表団
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ミズーリ艦上における降伏文書調印式
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調印する政府全権重光葵
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調印する大本営全権梅津美治郎陸軍大将
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祝賀飛行する米軍機編隊
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退艦する日本側全権代表団
戦後[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Missouri_panama_canal.jpg/250px-Missouri_panama_canal.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/62/Grounded_Missouri.jpg/250px-Grounded_Missouri.jpg)
朝鮮戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/Missouri_North_Korea_Deployment.jpg/250px-Missouri_North_Korea_Deployment.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_New_Jersey_%28BB-62%29_mothballed.jpg/250px-USS_Missouri_%28BB-63%29_and_USS_New_Jersey_%28BB-62%29_mothballed.jpg)
再就役と湾岸戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/AO-146_refuel_CV-63_BB-63_1986.jpeg/250px-AO-146_refuel_CV-63_BB-63_1986.jpeg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d1/USS_Missouri_%28BB-63%29_Tomahawk.jpg/250px-USS_Missouri_%28BB-63%29_Tomahawk.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Missouri_Shoots.jpg/250px-Missouri_Shoots.jpg)
退役[編集]
現役末期活動としてワシントン州シアトル、ブリティッシュコロンビア州バンクーバー、カリフォルニア州サンフランシスコの訪問を行った。その後艦は1991年の感謝祭の翌日、最後の任務に出発した。﹁マイティ・モー﹂の最後の任務は太平洋を横断しハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加することであった。 1991年のソビエト連邦の崩壊に伴いアメリカ合衆国に対する脅威は低下し、国防予算の徹底的な削減が行われることとなった。戦艦を運用する高額なコストは効果のない浪費と考えられた。本艦は1992年3月31日にロングビーチで退役、これにより世界から戦艦という艦種が消滅した。最後の艦長であったアルバート・L・カイス艦長は艦の最終日報に以下のように記した。 ﹁我々の最後の日がやってきた。今日、戦艦ミズーリの歴史の最終章が記されることになる。しばしば言われることだが、乗組員こそが艦を率いるという。これほど真実味のある言葉はない……。この偉大な艦の乗組員たる君たちこそが、この偉大な艦を率いてきたのだから。君たちは飛びきり上等な水兵と海兵であり、私は君たちと任務を果たしてきたことを誇りに思う。この偉大な艦を眠りにつかせる悲しい航海をした君たちに感謝している。ありがとう。これほど厳しい仕事はなかったことだろう。君らがこの艦の一部となっているのと同じくらいにこの艦は君らの一部となったのに、この艦を処分することが、この大航海の嘆かわしい結末なのだ。しかし、こう思って心を慰めて欲しい - 君たちは、この艦の歴史と我々以前に彼女で航海した前任者とともに日々を送ってきた。我々は彼女とともに戦争へ赴き、正々堂々と戦い、彼女の歴史にもう一つの章を書き加えた。そして、伝統ある海軍の先人たちと並ぶ位置に立つことになったのだ。君たち全てに神の御加護があるように﹂[6]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/USNS_Mercy_arrives_at_Pearl_Harbor_for_Pacific_Partnership_2015_150520-N-TQ272-039.jpg/250px-USNS_Mercy_arrives_at_Pearl_Harbor_for_Pacific_Partnership_2015_150520-N-TQ272-039.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/USS_Missouri_plaque.jpg/250px-USS_Missouri_plaque.jpg)
現在の状態[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ Ship Characteristics
(二)^ abcd“歴史的戰艦ミズーリ號 韓國戰で殊勲樹て けさ眞珠灣入港”. Hawaii Times, 1951.04.05. pp. 12. 2024年1月13日閲覧。
(三)^ abNavsource images (USS Whipple, DE 1062)
(四)^ 共同 (2018年6月8日). “訃報‥デビッド・ダンカンさん102歳=米写真家”. 毎日新聞. 2018年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月12日閲覧。
(五)^ “十五日間擱坐の後 今朝漸く離礁す 四萬五千噸の大戰艦ミ號”. Hawaii Times, 1950.02.01. pp. 10. 2024年1月13日閲覧。
(六)^ abU.S. Navy battleships - USS Missouri (BB 63) Archived 2006年12月7日, at the Wayback Machine..
(七)^ Pioneer Short Range︵SR︶UAV.
(八)^ “Final trip for HMS Gloucester after Falklands’ duties and Saxon Warrior exercise”. MercoPress (2011年5月23日). 2012年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月11日閲覧。 “In 1997, Gloucester took part in Ocean Wave 97. A deployment of 8 months which saw her visit countries including Australia, New Zealand, Singapore and the UAE as well as taking part in Exercise Flying Fish as part of the FPDA (Five Powers Defence Agreement) She sailed as part of Task Group 327.01 along with the flagship Illustrious(en) and other ships such as Richmond(en) and support ships. Part of the role of the Task Force was to oversee the peaceful handover of Hong Kong to the Chinese. 11 January 2012”
(九)^ "Tab-H Friendly-fire Incidents: I. Ship-to-Ship Incident". Office of the Special Assistant for Gulf War Illnesses. 13 December 2000.
(十)^ Evans, Mark L. (16 January 2014). "Jarrett (FFG-33)". Dictionary of American Naval Fighting Ships. Navy Department, Naval History and Heritage Command.
参考文献[編集]
- 河原匡喜『マッカーサーが来た日 : 8月15日からの20日間』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年。ISBN 4-7698-2470-X。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Mighty Mo: The Rest Of The Story
- Memorial museum site
- navsource.org: USS Missouri
- hazegray.org: USS Missouri
- nvr.navy.mil: USS Missouri
- navysite.de: USS Missouri
- Timeline of Combat for Operation Desert Storm - ウェイバックマシン(2006年12月5日アーカイブ分)
- Maritimequest USS Missouri BB-63 Photo Gallery
- Video: Inside one of Missouri’s 16" gun room, about 1955. (Windows Media File)
- Picture from Google Maps
- YouTube - JAPANESE SIGN FINAL SURRENDER on USS Missouri (英語字幕) - アメリカ国立公文書記録管理局