イラン
- イラン・イスラム共和国
- جمهوری اسلامی ایران
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(国旗) (国章) - 国の標語:استقلال، آزادی، جمهوری اسلامی
(ペルシア語: 独立、自由、イスラム共和制)(事実上)
الله أکبر(ペルシア語: 神は偉大なり) - 国歌:جمهوری اسلامی ایران(ペルシア語)
イラン・イスラム共和国国歌 -
公用語 ペルシア語 首都 テヘラン 最大の都市 テヘラン - 政府
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最高指導者[注 1][1] アリー・ハーメネイー 大統領代行[注 2][1] モハンマド・モフベル[注 3] 第一副大統領[注 4] モハンマド・モフベル 国会議長 モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ 司法府長官 ゴラームホセイン・モフセニー・エジェイー - 面積
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総計 1,648,195km2(17位) 水面積率 0.7% - 人口
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総計(2022年) 86,758,304人(17位)[3] 人口密度 52.6人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2019年) 2京9,072兆2,320億[4]イラン・リヤル (IR) - GDP(MER)
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合計(2019年) 5812億5200万[4]ドル(21位) 1人あたり 6980.744[4]ドル - GDP(PPP)
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合計(2019年) 1兆705億9300万[4]ドル(18位) 1人あたり 1万2857.664[4]ドル - 成立
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アケメネス朝(ペルシア帝国)建国 紀元前550年 サファヴィー朝が統一 1501年 イラン・イスラム革命 1979年4月1日
通貨 イラン・リヤル (IR)(IRR) 時間帯 UTC+3:30 (DST:なし) ISO 3166-1 IR / IRN[5] ccTLD .ir 国際電話番号 98
概要[編集]
成立[編集]
前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し、サーサーン朝時代にはゾロアスター教が国教だったが、642年にアラブ人に滅ぼされ、イスラム教が広まった。16世紀初めに成立したサファビー朝がシーア派十二イマーム派を国教とし、イラン人の国民意識を形成した。18世紀のカージャール朝を経て、1925年からパフラヴィー朝になったが、1979年のルーホッラー・ホメイニーによるイラン革命により王政は廃され、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制が樹立された[6]。政治体制[編集]
1979年に制定されたイラン・イスラーム共和国憲法によって規定されており、国の元首である最高指導者の地位は、宗教法学者に賦与されている。憲法第4条では、すべての法律および規制がイスラムの基準に基づくものでなければならないという原則が定められている[7]。憲法では三権分立が規定され、立法権は一院制の国民議会、行政権は大統領にあるが、実質的には最高指導者が三権を掌握しており、大統領の地位はこれに劣る。イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要求される[8]。このような体制から、イラン政府は権威主義的であり、人権と自由に対する重大な制約と侵害をしているとして多くの批判を集めている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは政府が抗議者に対して恣意的な逮捕を行い、治安当局や諜報当局による深刻な虐待が行われていることを報告している[9]。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界154位と下位で﹁独裁政治体制﹂に分類されている︵2022年︶[10]。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも177位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている︵2023年︶[11]。 一方で教育には注力されており、人間開発指数は0.800で高い分類に入る。科学技術力においても、ナノテクノロジーのような材料工学や幹細胞研究で世界トップクラスの位置にいる[12]。外交[編集]
パフラヴィー朝時代にはアメリカ合衆国の強い影響下にあったが、革命により米国との関係が悪化、特にアメリカ大使館人質事件以降、公然たる敵対関係に入った。米国とは互いをテロ組織・テロ支援国家に指定している[13][8]。 他方でイラン革命指導者は反共主義者が多いため、ソビエト連邦とも友好的ではなく、革命後の外交は排外主義的な非同盟中立路線を基本とする[8]。近年は核兵器開発を行っている疑惑から経済制裁を受けている。2015年にオバマ政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたが、トランプ政権が一方的に破棄し制裁が再開されたため、段階的に核合意履行停止を進めている[14]。経済[編集]
パフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、一時は高度経済成長を成し遂げた。その後の低迷によるイラン革命の混乱とイラン・イラク戦争で経済は停滞したが、21世紀に入ると原油価格昂騰により収入を大幅に増やした[15]。世界有数の石油の産出地であり、それが国の主要財源である[6]。しかし近年は長引く米国の制裁と新型コロナウイルスのパンデミックにより経済状態が深刻化している[16]。軍事[編集]
イランは王政時代からの伝統を持つ国軍と別に、革命後に創設されたイスラム革命防衛隊という最高指導者直轄の軍事組織が存在することが特徴である[17][18]。イスラム革命防衛隊は、国外の対外工作にも深くかかわり[19]、アメリカ合衆国のトランプ政権から﹁テロ組織﹂に指定された[20]。男性に2年の兵役を課す徴兵制を採用しており[21]、兵力は61万人ほどである︵2020年時︶[22]。民族と宗教[編集]
2017年の国勢調査によると人口は約8000万人で、世界でも17位であった。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (15%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%がスンニ派を信仰している。極めて少数派としてユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教・バハイ教の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている[8]。言語はペルシア語が公用語で大半を占めているが、他にクルド語やアゼルバイジャン語などがある[6]。国教はシーア派十二イマーム派である。地理[編集]
総面積は1,648,195 km2 (平方キロメートル) で、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、その間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある[8]。同国はユーラシアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最大都市であり、経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。国名[編集]
国旗[編集]
国旗は3色で構成され、緑はイスラムの国であること、白は平和と平和愛好、赤は勇気を表している。中央のモチーフは4本の剣と三日月を用いてアラビア語のアッラー(الله)とチューリップを象徴する。アッラーは、イスラムの唯一神で、チューリップはイスラムと祖国のために戦死した殉教者を表す。
歴史[編集]
古代[編集]
イスラーム化[編集]
サファヴィー朝期[編集]
ガージャール朝期[編集]
パフラヴィー朝期[編集]
イラン・イスラーム共和国[編集]
シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー︵イスラーム法学者︶による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ﹃クルド民族﹄に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー︵ヒズボラ︶、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。 クルド人はイラン革命を支持し、自治権の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部のケルマーンシャー州[58]や西アーザルバーイジャーン州の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された[59]。 革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ協定を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。 国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。 2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。 2021年6月18日に投票が行われたイラン大統領選挙では、エブラーヒーム・ライースィーが当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ、立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり、投票率は著しく低迷した[60]。 2024年5月19日、アゼルバイジャンでの公務から移動中であった大統領のライースィー、外務大臣のホセイン・アミールアブドッラーヒヤーンらを乗せたヘリコプターが東アーザルバーイジャーン州のヴァルザガーンで墜落し、ライースィーを含む搭乗者9名全員が死亡する事故が発生した︵東アーザルバーイジャーン州ヘリコプター墜落事故︶。ライースィーの死亡に伴い、大統領の職務は第一副大統領であるモハンマド・モフベルが代行する事となった[61]。政治[編集]
法学者の統治[編集]
イランの政治制度の特徴は、何といっても﹁法学者の統治﹂である[62]。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも﹁十二イマーム派﹂に属するが、一般にシーア派の教義では﹁イマーム﹂こそが預言者の後継者として、﹁イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者﹂としての役割を担うとされている[63]。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者︵モジュタヒド︶に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、﹁マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)﹂である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。選挙制度[編集]
イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した[64]。 特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2, 3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。 しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2・第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された[65]。 護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査︵選挙資格を満たしているか否か︶を行なっている[64]。最高指導者[編集]
ヴェラーヤテ・ファギーフ︵法学者の統治︶の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は﹁イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う﹂とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政・司法・立法の三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊︵イスラム革命防衛隊、IRGC︶総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者︵または最高指導会議︶は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。大統領[編集]
大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会︵閣議︶が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年の憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。議会[編集]
議会は﹁マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī﹂︵イスラーム議会︶といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある[66]。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語の報道では国会とも表記される。専門家会議[編集]
専門家会議は国民の選挙によって選出される﹁善良で博識な﹂86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。監督者評議会[編集]
監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア︵イスラーム法︶に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。公益判別会議[編集]
公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。司法府[編集]
国際関係[編集]
対外政策の基本[編集]
2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、イスラエルを除く全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである[67]。日本[編集]
ロシア[編集]
北朝鮮[編集]
シリア[編集]
サウジアラビア[編集]
アメリカ合衆国[編集]
核開発問題[編集]
欧米での反イスラーム的行為[編集]
悪魔の詩事件[編集]
元ムスリム︵イスラーム教徒︶のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の﹃悪魔の詩﹄はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本の茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件︵未解決︶は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。国家安全保障[編集]
国軍として、陸軍・海軍・空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。
イランは核拡散防止条約 (NPT) に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。
準軍事組織[編集]
地方行政区分[編集]
イランは31の州(オスターン)からなっている。
主要都市[編集]
イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。
-
テヘラン: 7,160,094人(2006年)
-
マシュハド: 2,837,734人(2006年)
-
エスファハーン: 1,573,378人(2006年)
-
タブリーズ: 1,460,961人(2006年)
-
シーラーズ: 1,279,140人(2006年)
地理[編集]
気候[編集]
平年値 (月単位) |
北西部 | 西部 | 北部 | |||||||||
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タブリーズ | オルーミーイェ | アルダビール (Nowjeh Deh) |
ザンジャーン | ハマダーン | アラーク | ケルマーンシャー | ホッラマーバード | ラシュト | テヘラン | セムナーン | ||
気候区分 | BSk | BSk | BSk | BSk | Dsa | Dsa | Dsa | Csa | Cfa | BSk | BSk | |
平均 気温 (℃) |
最暖月 | 26.0 (7月) |
23.8 (7月) |
25.3 (7月) |
25.2 (7月) |
25.3 (7月) |
27.5 (7月) |
28.2 (7月) |
30.8 (7月) |
26.2 (7月) |
30.8 (7月) |
32.2 (7月) |
最寒月 | -3.2 (1月) |
-3.3 (1月) |
-4.6 (1月) |
-3.0 (1月) |
-4.6 (1月) |
-1.3 (1月) |
0.6 (1月) |
5.0 (1月) |
6.7 (1月) |
2.5 (1月) |
3.6 (1月) | |
降水量 (mm) |
最多月 | 53.6 (4月) |
58. (4月) |
49.8 (4月) |
56.5 (4月) |
49.8 (4月) |
54.7 (1月) |
88.9 (3月) |
86.0 (1月) |
230.2 (9月) |
37.4 (3月) |
22.7 (3月) |
最少月 | 3.2 (7月) |
2.6 (8月) |
0.8 (9月) |
3.4 (7月) |
0.8 (9月) |
0.6 (7月) |
0.3 (7,8月) |
0.1 (7月) |
38.7 (6月) |
0.9 (9月) |
1.4 (9月) | |
平年値 (月単位) |
中部 | 南部 | 東部 | |||||||||
ヤズド | エスファハーン | シーラーズ | アーバーダーン | ザーヘダーン | ケルマーン | バンダレ・アッバース | ビールジャンド | マシュハド | ||||
気候区分 | BWk | BSk | BSk | BWh | BWh | BWk | BWh | BWk | BSk | |||
平均 気温 (℃) |
最暖月 | 32.4 (7月) |
29.4 (7月) |
29.8 (7月) |
36.8 (7月) |
29.3 (7月) |
28.9 (7月) |
34.4 (7月) |
28.8 (7月) |
26.7 (7月) | ||
最寒月 | 5.1 (1月) |
2.7 (1月) |
5.3 (1月) |
12.3 (1月) |
6.4 (1月) |
4.4 (1月) |
18.1 (1月) |
4.0 (1月) |
1.7 (1月) | |||
降水量 (mm) |
最多月 | 12.9 (3月) |
19.6 (9月) |
79.8 (1月) |
34.8 (1月) |
21.1 (2月) |
32.0 (3月) |
47.5 (2月) |
35.1 (3月) |
52.0 (1月) | ||
最少月 | 0.0 (8月) |
0.0 (9月) |
0.0 (9月) |
10.0 (6,7,8月) |
0.2 (9月) |
0.3 (9月) |
0.0 (6月) |
0.0 (9月) |
0.7 (8月) |
- 最寒月-3度未満(=亜寒帯(D)の条件)・・・薄水色、水色
経済[編集]
観光[編集]
2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており、近年観光客数は増加している。
交通[編集]
航空[編集]
鉄道[編集]
国有鉄道であるイラン・イスラーム共和国鉄道が全土を結んでいる。
主要都市では地下鉄として
が設置されている。
道路[編集]
科学技術[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
宇宙開発[編集]
イランにおける宇宙計画は、その軍事的可能性に対する懸念から米国と欧州によって非難されている。
この節の加筆が望まれています。 |
国民・人口統計[編集]
人口[編集]
民族・分布[編集]
イラン人[編集]
イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。 狭義 イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人︵通常イラン人という時のイラン人︶、クルド人、ロル族ならびにバフティヤーリー族、バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー︵アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人︶、トルキャマーン︵トルクメン人︶、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人︵シーア派信徒もいる︶、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒︵アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など︶、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。 広義 ホラズム生まれのビールーニー、ブハラ生まれのブハーリー、その近郊生まれのイブン・スィーナー、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・ガザーリーは、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人︵カリフォルニア州に約半数が集中し、ロサンゼルスは﹁テヘランゼルス﹂と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い︶、バーレーンやドバイに数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる[104]。言語[編集]
婚姻[編集]
通常、婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、夫の姓を後ろに加える女性もいる[106]。宗教[編集]
教育[編集]
教育制度[編集]
イランの教育制度は次の四段階に分けられる[110]。 1. 初等教育︵دبستان; 小学校︶ 学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。 遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。 2. 進路指導教育︵راهنمایی; 中学校︶ ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。 3. 中等教育︵دبیرستان; 高等学校︶ 4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに (a)文化・文学専攻と (b)社会・経済専攻に、また、後者は (c)数学・物理専攻と (d)実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程︵پیش دانشگاهی︶に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学・技術・農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書︵دیپلم︶が与えられる。 4. 大学︵دانشگاه; 単科大学はدانشکده︶ 全国共通試験︵کنکور︶を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。 それ以外の教育機関 (1) パヤーメ・ヌール︵光のメッセージという意味︶は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。 (2) 私学・イスラーム自由大学︵دانشگاه آزاده اسلامی︶は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。 (3) 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ︵مدرسه︶である。外国語学校、コンピュータ学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ︵مؤسسه︶という。 そのほかに幼稚園︵کودکستان︶、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。教育スタイル[編集]
イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。﹁学ぶ・勉強する﹂は、درس خواندن、要するに、﹁声を出して教科書を読む﹂ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである[110]。 森田は、このようなイランの学校教育を﹁声の文化﹂が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている[111]。 1. 小学校での授業方法 現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、﹁教える﹂︵درس دادن︶で、二つ目の段階は﹁読む﹂︵درس خواندن︶であり、三つ目の段階は﹁問う﹂︵درس پرسیدن︶である。まず、﹁教える﹂段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は﹁読む﹂段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。 第三段階の﹁問う﹂段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。 2. 私立男子中学校で行われた科学発表会 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。 3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書 そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。保健[編集]
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医療[編集]
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治安[編集]
イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都のテヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日アメリカによるイラン・イスラム革命防衛隊高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生する恐れを孕んでいる。
またイラン国内において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。
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法執行機関[編集]
国家法執行司令部が主体となっている。
この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊という警察組織を前身としている。
人権問題[編集]
マスコミ[編集]
新聞[編集]
ラジオ[編集]
イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。 イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。 また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。文化[編集]
食文化[編集]
文学[編集]
哲学[編集]
イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナー(ラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。
音楽[編集]
映画[編集]
美術[編集]
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衣服[編集]
イランにおける服飾文化はいくつかの王朝時代や歴史毎に異なる面を持つ。現在のイラン地域で織物が登場した際の正確な年代や日付は2023年現在でもまだ判明されていない状態であるが、紀元前の文明の出現と一致する可能性が高いことが示唆されている。
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建築[編集]
イランの建築は、様々な伝統と歴史から、構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの、近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。
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史跡[編集]
イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。
世界遺産[編集]
2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。
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チョガ・ザンビール (1979年)
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ペルセポリス (1979年)
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イスファハーンのイマーム広場 (1979年)
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タフテ・ソレイマーン (2003年)
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パサルガダエ (2004年)
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バムとその文化的景観 (2004年)
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ソルターニーイェ (2005年)
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ベヒストゥン (2006年)
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イランのアルメニア人修道院建造物群 (2008年)
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シューシュタルの歴史的水利施設 (2009年)
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アルダビールのシャイフ・サフィーアッディーン廟の歴史的建造物 (2010年)
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タブリーズの歴史的バザール施設 (2010年)
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フィン庭園 (2011年)
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ゴンバデ・カーブース (2012年)
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エスファハーンのジャーメ・モスク (2012年)
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ゴレスターン宮殿 (2013年)
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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イスラーム暦 モハッラム月(1月)9日 |
タースーアー | 第3代エマーム・ホセインがウマイヤ朝軍に包囲され負傷した日 | |
イスラーム暦 モハッラム月10日 |
アーシューラー | 「正義が悪に敗れた日」 第3代エマーム・ホセインの殉教を追悼する。 | |
イスラーム暦 サファル月(2月)20日 |
アルバイーン | アーシューラー後40日間の喪が明ける日 | |
イスラーム暦 サファル月28日 |
預言者ムハンマド昇天日 | 最後の預言者ムハンマドの命日 | |
イスラーム暦 サファル月28日 |
エマーム・ハサン・モジタバー殉教記念日 | 第2代エマームの命日 | |
イスラーム暦 サファル月29日 |
エマーム・レザー殉教記念日 | 第8代エマームの命日 | |
イスラーム暦 ラビーヨル・アッヴァル月(3月)17日 |
預言者ムハンマド生誕日 | 最後の預言者ムハンマドの誕生祭 | |
イスラーム暦 ジャマーデヨル・サーニー月(6月)3日 |
ファーテメ・ザフラー殉教追悼記念日 | 預言者ムハンマドの娘、初代エマーム・アリーの妻、第2代ハサン、第3代ホセインの母の命日 (命日には諸説あるがイランではこの日が公式の休日) | |
イスラーム暦 ラジャブ月(7月)13日 |
エマーム・アリー生誕日 | 初代エマームの誕生祭 | |
イスラーム暦 ラジャブ月27日 |
マブアス | ムハンマドがアッラーから預言者に任じられた日 | |
イスラーム暦 シャアバーン月(8月)15日 |
ニーメイェ・シャアバーン | 第12代エマーム・マフディー(隠れエマーム)の誕生祭 | |
イスラーム暦 ラメザーン月(9月)21日 |
エマーム・アリー殉教記念日 | 初代エマームの命日 | |
イスラーム暦 シャッヴァール月(10月)1日 |
エイデ・フェトゥル | 断食明けの祭 | |
イスラーム暦 シャッヴァール月25日 |
エマーム・ジャアファル・サーデグ殉教記念日 | 第6代エマームの命日 | |
イスラーム暦 ズィー・ガアデ月(11月)11日 |
エマーム・レザー生誕日 | 第8代エマームの誕生祭 | |
イスラーム暦 ズィー・ハッジェ月(12月)10日 |
エイデ・ゴルバーン | 犠牲祭。家畜を犠牲にささげアッラーを賛美する。 | |
イスラーム暦 ズィー・ハッジェ月18日 |
エイデ・ガディーレ・ホンム | 初代エマーム・アリーが預言者ムハンマドから後継者に任じられた日 | |
イラン暦 ファルヴァルディーン月(1月)1〜4日 |
ノウルーズ | 新年祭(春分の日、グレゴリオ暦の3月21日ごろ) | |
イラン暦 ファルヴァルディーン月12日 |
イラン・イスラーム共和国記念日 | 1979年イラン・イスラーム共和国建国を記念する。 | |
イラン暦 ファルヴァルディーン月13日 |
スィーズダ・ベ・ダル | 「正月13日」に家にいるのは不吉とされている。 | |
イラン暦 ホルダード月(3月)14日 |
エマーム・ホメイニー師追悼記念日 | イラン・イスラーム革命の指導者の命日 | |
イラン暦 ホルダード月15日 |
ホルダード月15日の流血蜂起記念日 | 1963年、ホメイニー師が皇帝を非難して逮捕されたことに反発した国民の暴動を記念する。 | |
イラン暦 バフマン月(11月)22日 |
イラン・イスラーム革命記念日 | 1979年イスラーム革命によるパフラヴィー朝崩壊を記念する。 | |
イラン暦 エスファンド月(12月)29日 |
石油国有化記念日 | 1951年のイギリス資本アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)の国有化を記念する。 |
イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
オリンピック[編集]
イランが舞台の作品[編集]
著名な出身者[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●シリン・エバディ/竹林卓訳﹃私は逃げない──ある女性弁護士のイスラム革命﹄ランダムハウス講談社、2007年9月。ISBN 978-4270002513。 ●大西円﹃イラン経済を解剖する﹄日本貿易振興会、2000年7月。ISBN 978-4822408909。 ●岡田恵美子、鈴木珠里、北原圭一﹃イランを知るための65章﹄︵初版第二刷︶明石書店、東京、2005年1月30日。ISBN 4-7503-1980-5。 ●桜井啓子﹃現代イラン──神の国の変貌﹄岩波書店︿岩波新書﹀、2001年7月。ISBN 978-4004307426。 ●桜井啓子﹃革命イランの教科書メディア──イスラームとナショナリズムの相剋﹄岩波書店、1999年5月。ISBN 978-4000028349。 ●ハミッド・ダバシ﹃イラン、背反する民の歴史﹄作品社、2008年2月。ISBN 978-4861821813。 ●中西久枝﹃イスラームとモダニティ──現代イランの諸相﹄風媒社、2002年10月。ISBN 978-4833140362。 ●アーザル・ナフィーシー、アッバス・キアロスタミ﹃イラン人は神の国イランをどう考えているか﹄草思社、2007年2月。ISBN 978-4794215642。 ●モハンマド・ハタミ/平野次郎訳﹃文明の対話﹄共同通信社、2001年5月。ISBN 978-4764104822。 ●原隆一、岩崎葉子﹃イラン国民経済のダイナミズム﹄日本貿易振興会、2000年3月。ISBN 978-4258045037。 ●マーク・ボウデン/伏見威蕃訳﹃ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克︵上︶﹄早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088246。 ●マーク・ボウデン/伏見威蕃訳﹃ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克︵下︶﹄早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088253。 ●ケネス・ポラック/佐藤陸雄訳﹃ザ・パージァン・パズル 上﹄小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797412。 ●ケネス・ポラック/佐藤陸雄訳﹃ザ・パージァン・パズル 下﹄小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797429。 ●ズィーバー・ミール・ホセイニー﹃イスラームとジェンダー﹄明石書店、2004年6月。ISBN 978-4750319346。 ●宮田律﹃物語 イランの歴史──誇り高きペルシアの系譜﹄中央公論社︿中公新書﹀、2002年9月。ISBN 4-12-101660-2。 ●吉村慎太郎﹃イラン現代史――従属と抵抗の100年﹄︵初版第一刷︶有志舎、東京、2011年4月30日。ISBN 978-4903426419。OCLC 721839193。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 日本政府
- 日本外務省 - イラン (日本語)
- 在イラン日本国大使館 (日本語)
- 観光
- その他
- JETRO - イラン (日本語)
- JCCME - イラン (日本語)
- "Iran". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
- 『イラン』 - コトバンク
- イラン - Curlie(英語) (英語)
- イランのウィキメディア地図 (英語)
- イランに関連する地理データ - オープンストリートマップ