花園天皇
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(花園上皇から転送)
花園天皇 | |
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即位礼 | 1308年11月29日(延慶元年11月16日) |
大嘗祭 | 1308年12月7日(延慶元年11月24日) |
元号 |
延慶 応長 正和 文保 |
時代 | 鎌倉時代 |
先代 | 後二条天皇 |
次代 | 後醍醐天皇 |
誕生 | 1297年8月14日(永仁5年7月25日) |
崩御 |
1348年12月2日(貞和4年11月11日) 萩原殿 |
大喪儀 | 1348年12月4日(貞和4年11月13日) |
陵所 | 十楽院上陵 |
追号 |
花園院 (花園天皇) |
別称 | 遍行(法名)、富小路天皇、萩原法皇 |
元服 | 1311年1月22日(延慶4年1月3日) |
父親 | 伏見天皇 |
母親 | 洞院季子(顕親門院) |
子女 |
寿子内親王 直仁親王 ほか(「后妃・皇子女」節参照) |
皇居 | 二条富小路内裏 |
親署 |
花園天皇︵はなぞのてんのう、旧字体‥花󠄁園天皇、1297年8月14日︿永仁5年7月25日﹀- 1348年12月2日︿貞和4年11月11日﹀︶は、日本の第95代天皇︵在位:1308年9月11日︿延慶元年8月26日﹀- 1318年3月29日︿文保2年2月26日﹀︶。諱は富仁︵とみひと︶。
伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の女、洞院季子︵顕親門院︶。
略歴[編集]
延慶元年︵1308年︶8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年︵1318年︶2月、大覚寺統の尊治親王︵後醍醐天皇︶に譲位。
譲位後は、皇太子となった甥の量仁親王︵光厳天皇︶の養育にあたったが、その一環として、元徳2年︵1330年︶2月、親王を訓戒するために記した﹃誡太子書﹄︵宮内庁書陵部蔵︶は、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて勉学の必要性があることを説いた書として名高い。
南北朝時代 においては北朝側に付き、光厳上皇率いる北朝を支えた。光厳上皇親撰の風雅和歌集では、真名・仮名の両序文を執筆している。
禅宗の信仰に傾倒し、建武2年︵1335年︶11月、円観について出家、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年︵1342年︶1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。
光厳院政の絶頂期であった貞和4年︵1348年︶11月、花園萩原殿で崩御。宝算52。
崩御の一報を聞いた光厳上皇はすぐさま萩原殿に駆けつけ、その後特例で5ヶ月間の心喪に服し、その死を深く悼んだという[1]。
人物[編集]
歌道・学問・書道に優れ、特に和歌では京極派の主要人物の一人で﹃風雅和歌集﹄の監修を行っている。日記﹃花園天皇宸記﹄は宸筆の原本が今日に残る︵宮内庁書陵部蔵︶。信心深く読経や念仏を欠かさなかった。 ﹃誡太子書﹄と同時期に量仁親王のために著したとみられる﹃学道之御記﹄︵宮内庁書陵部蔵︶では、その冒頭部で﹁学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである﹂という意味の一文を掲げているが、そこからも天皇の持っていた学問に対する考え方がよく見て取れる。逆に、博学だけを吹聴したり、風月文章をもって旨とすることを﹁学者之弊﹂として戒める記述が﹃花園天皇日記﹄には散見する。花園天皇と宋学 [編集]
花園天皇は学問を良く修めたが、中でも宋学に深く通じていた。 たとえば、﹃花園院宸記﹄元応3年︵1319年︶閏7月22日条によれば、持明院殿で行われた﹃論語﹄の談義に、日野資朝や菅原公時らの学者官僚に混じって、玄恵らの宋学に通じた僧侶も参加し、花園院は特に玄恵の説くところを﹁誠に道に達するか﹂と讃えている[2]。 同じく﹃花園院宸記﹄によると、元享元年︵1321年︶4月20日には﹃孟子﹄を読み、﹁情感の至り、説き尽くすべからず﹂﹁豈に悦ばざんや﹂と述べている。﹃孟子﹄は程顥や程頤によって顕彰され、急激に評価が高まり、朱熹によって﹃大学﹄、﹃中庸﹄、﹃論語﹄と共に﹁四書﹂の一書とされた[2]。 ﹁誡太子書﹂の中では、紂王の例を持ち出して帝徳の涵養に努めるべきことを説いている[2]。 元享2年︵1322年︶3月27日に、花園院は﹃論語﹄の談義を行ったが、その際に用いられた漢籍の中に﹁精義︵朱熹の﹃論語精義﹄︶﹂や﹁朱氏竹隠注︵竹隠は朱熹の経学を日本に伝えた李用の号︶﹂があった[2]。 日野資朝は、後醍醐天皇が親政を開始する以前は、父の日野俊光と共に花園天皇に仕えていた。﹃花園院宸記﹄元応元年︵1319年︶閏7月4日条では、政道の学問に7、8年間励んだものの、多くの者と談じても得心のいかなかったことが、資朝と談じることで初めて﹁意を知る﹂者に出会えたと述べられている。資朝は後醍醐に仕えた後も持明院殿への出入りを許されている[2]。 後醍醐天皇が内裏で行っていた学問は、﹃周易﹄や﹁四書﹂︵つまり宋学︶を重んじていたが、﹃花園院宸記﹄では﹁︵後醍醐が日野俊基を日野家の家格を考慮せずに五位蔵人、右少弁に抜擢したことについて︶諸人、唇を返す︵悪口を言うこと︶﹂、﹁口伝無きの間、面々に自己の風を立︵てている︶﹂、﹁理学を以て先となし、礼儀に拘らざる﹂と述べ、﹁近日の弊なり﹂と批難している[2]。諡号・追号・異名[編集]
仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ、生前は﹁萩原法皇﹂と呼ばれた。追号である花園院は遺詔による。系譜[編集]
花園天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図[編集]
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88 後嵯峨天皇 |
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宗尊親王 (鎌倉将軍6) |
| 【持明院統】 89 後深草天皇 |
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| 【大覚寺統】 90 亀山天皇 |
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惟康親王 (鎌倉将軍7) |
| 92 伏見天皇 |
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| 久明親王 (鎌倉将軍8) |
| 91 後宇多天皇 |
| 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 93 後伏見天皇 |
| 95 花園天皇 |
| 守邦親王 (鎌倉将軍9) |
| 94 後二条天皇 |
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| 直仁親王 |
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| 邦良親王 |
| 96 後醍醐天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 光厳天皇 北1 |
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| 康仁親王 〔木寺宮家〕 |
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