蘆田慶治
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蘆田 慶治︵あしだ けいじ、1867年11月18日︵慶応3年10月23日︶ - 1936年︵昭和11年︶8月18日︶[1]は、戦前日本のキリスト教神学者。
経歴[編集]
丹波国氷上郡鴨内村︵現在の兵庫県丹波市氷上町鴨内︶生まれ。幼時に家事の都合で京都に移り、京都府立中学校を卒業する[1]。 1888年︵明治21年︶に大阪の南美以教会でJ.W.ランバスから洗礼を受け[2]、翌年関西学院神学部に入学する。卒業後の1898年︵明治31年︶にアメリカへ渡り、ヴァンダービルト大学とイェール大学で学ぶ[3]。1902年︵明治35年︶に帰国して関西学院神学部で教鞭をとったが、1909年︵明治42年︶に同志社神学校に移る[4]。間もなく同志社から再び渡米してハーバード大学で研究を重ねる。翌年同志社に復帰して新約聖書神学、のちに組織神学を講じた[3]。大学令によって同志社大学が設立された1920年︵大正9年︶に文学部長並神学科主任となり[5]、1923年︵大正12年︶には大塚節治らとともに学術雑誌﹃基督教研究﹄を創刊する[6]。 神学的には1931-32年頃までは自由主義の立場に立脚していたが、晩年に至ってバルト主義に転じ[7]、﹁バルトが出るまでは、神学というものは真実ではなかった﹂と語った[3]。 1936年︵昭和11年︶に京都市下鴨の自宅で死去[8]。著書[編集]
- 『羅馬書講義』(警醒社、1908年)