アイーダ
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﹃アイーダ﹄ (伊: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトとエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での﹁凱旋行進曲﹂の旋律は単独でも有名である。
この作品はしばしば﹁スエズ運河の開通︵1869年︶を記念して作曲された﹂あるいは﹁スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウスの杮落し公演用に作曲された﹂といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの﹃魔笛﹄以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである﹃魔笛﹄にくらべ、国家の攻防がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。
注意‥以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。
基本データ
●原語曲名‥Aida/Aïda ●原案‥オギュスト・マリエット ●原台本‥カミーユ・デュ・ロクル ●台本‥アントニオ・ギスランツォーニ ●作曲時期‥1870年に作曲に着手 ●初演‥1871年12月24日、カイロのカイロ劇場にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニの指揮による作曲の経緯
﹃ドン・カルロ﹄の初演︵1867年︶、﹃運命の力﹄の改訂初演︵1869年︶の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家であり、オペラ座やオペラ=コミック座の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。 そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、ウジェーヌ・スクリーブの﹃アドリエンヌ・ルクヴルール﹄(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作﹃タルチュフ﹄(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。後ニ者が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲したオペラ・ブッファは、第2作﹃一日だけの王様﹄︵1840年初演︶1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品﹃ファルスタッフ﹄︵1893年初演︶でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。カイロからの委嘱
このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督イスマーイール・パシャである。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャはカイロにオペラ劇場︵﹁イタリア劇場﹂とも︶を開場したが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは﹁自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません﹂といって断っている。 結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ﹃リゴレット﹄がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる﹁原案﹂であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、﹁ベイ﹂︵1858年︶、更には﹁パシャ﹂︵1879年︶の尊称を与えられた人物だった︵このためその名はしばしば﹁マリエット=ベイ﹂あるいは﹁マリエット=パシャ﹂と表記される︶。 依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、﹃アイーダ﹄がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。 イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに﹁ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーやワーグナーに変更してもいい。﹂という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。﹁ワーグナー﹂の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。 1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は ●ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する︵これは彼の最近作﹃ドン・カルロ﹄の4倍という法外なものであった︶ ●台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること ●台本はイタリア語であるべきこと ●1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと ●ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと ●仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること ●初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること という、彼にとって有利なものであったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。台本に関与した人々
マリエットの﹁原案﹂から﹃アイーダ﹄の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。 (一)エジプト総督イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに﹃アイーダ﹄のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の﹁箔付け﹂の可能性が高い。 (二)エジプト考古学者オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に﹃アイーダ﹄(Aïda) のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。 (三)パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの﹁原案﹂をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による﹁原台本﹂を著した。﹁原台本﹂はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ︵ヴィッラノーヴァ・スッラルダ︶の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット﹁原案﹂第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。 (四)ヴェルディ自身。マリエット﹁原案﹂前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。 (五)ヴェルディの妻ジュゼッピーナ。マリエット﹁原案﹂後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。 (六)イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。 1871年、カイロにおける世界初演時には、﹁台本はギスランツォーニによる﹂と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している︵例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている︶。 またこれとはまったく別個に、1756年にメタスタージオによって著され、ニコロ・コンフォルティ︵1756年初演︶、ニコロ・ピッチンニ︵1757年初演︶、ヨハン・アドルフ・ハッセ︵1758年初演︶など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本﹃ニチェッティ﹄(Nitteti) こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに﹃アイーダ﹄の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。 なお、マリエットの﹁原案﹂で "Aïda" にトレマ記号﹁¨﹂があるのは、そうでなければ﹁アイーダ﹂と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では "Aida" と綴れば﹁アイーダ﹂と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。作曲の進展
ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが︵少なくとも作曲時の19世紀においては︶考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて﹁ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます﹂という返信をしている。こうして無事に︵?︶巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。 1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができるオーケストレーションまでを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月︵台本の初回受領からは4か月︶で総譜まで完成というのは、﹃アイーダ﹄のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。普仏戦争による遅延、そして初演
上述のように﹃アイーダ﹄カイロ初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、パリで製作されていたが、プロイセン軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった︵ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、気球に載せて送出した郵便で知った︶。 このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していたミラノ・スカラ座でのイタリア初演も1年の延期とした。 1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の﹁国策﹂として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、より正念場と考えられたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。構成
4幕7場 ●第1幕 ●第1場 メンフィスの王宮 ●第2場 メンフィスのウルカヌス︵≒プタハ︶神殿 ●第2幕 ●第1場 テーベの宮殿、アムネリス王女の居室 ●第2場 テーベの凱旋門 ●第3幕 ナイル川の岸辺 ●第4幕 ●第1場 メンフィス王宮の広間 ●第2場 メンフィスのウルカヌス︵≒プタハ︶神殿と地下牢編成
登場人物
以下の各人物描写は1873年にリコルディ社より出版された舞台指示書 (disposizione scenica) に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出が必ずしもそれに従っているわけではないのは無論のことである。 ●エジプト国王︵ファラオ︶︵バス︶‥約45歳。威厳に満ち、堂々とした態度。 ●アムネリス︵メゾソプラノ︶‥エジプト王女。20歳。とても活発。性格は激情的で、感受性に富む。 ●アイーダ︵ソプラノ︶‥エチオピア王女で女奴隷。肌は暗く赤みがかったオリーブ色。20歳。愛情、従順さ、優しさ――これらがこの人物の主要な特質をなす。 ●ラダメス︵テノール︶‥軍隊の指揮官。24歳。情熱的な性格。 ●ラムフィス︵バス︶‥祭司長。50歳。確固とした性格。専制的で残忍。態度は威厳に満ちている。 ●アモナズロ︵バリトン︶‥エチオピア王であり、アイーダの父。肌は暗く赤味がかったオリーブ色。40歳。御しがたい戦士で、祖国愛にあふれている。性格は衝動的で暴力的。 ●使者︵テノール︶ ●巫女の長︵ソプラノ︶ ●合唱 ●バレエ管弦楽
●フルート3︵ピッコロ持替え1︶、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2 ●ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、バストロンボーン ●ティンパニ1対、トライアングル、大太鼓、シンバル、銅鑼 ●ハープ2 ●弦五部 ●ヴァイオリン2パート、ヴィオラ1パート、チェロ1パート、コントラバス1パート ︵ウィーン国立歌劇場の室内でせいぜい14型、ヴェローナなどの野外では倍管で16型以上を当てる︶ バンダ ●舞台上 ●エジプト風トランペット︵アイーダ・トランペットとも呼ばれるファンファーレ・トランペット︶6、軍楽隊︵金管楽器︶、ハープ ●地下 ●トランペット4、トロンボーン4、大太鼓上演時間
約2時間20分︵各40分、40分、30分、30分︶あらすじ
第1幕
第1場
エチオピア軍がエジプトに迫るとの噂が伝わっている。祭司長ラムフィスは司令官を誰にすべきかの神託を得、若きラダメスにそれとなく暗示する。ラダメスは王女アムネリスに仕える奴隷アイーダ︵実はエチオピアの王女だが、その素性は誰も知らない︶と相思相愛であり、司令官となった暁には勝利を彼女に捧げたいと願う。アムネリスもまた彼に心を寄せており、直感的にアイーダが恋敵であると悟り、激しく嫉妬する。国王が一同を従え登場、使者の報告を聞いた後ラダメスを司令官に任命する。一同はラダメスに﹁勝利者として帰還せよ﹂と叫び退場する。アイーダは舞台に一人残り、父であるエチオピア王と恋人・ラダメスが戦わなければならない運命を嘆き、自らの死を神に願う。第2場
神殿では勝利を祈願する儀式が行われ、ラダメスとラムフィス、祭司たちの敬虔な歌声に巫女の声が唱和する。第2幕
第1場
エジプト軍勝利の一報が入り、アムネリスは豪華に着飾って祝宴の準備をしている。祖国が敗れ沈痛な面持ちのアイーダに向かってアムネリスは﹁エジプト軍は勝ったが、ラダメスは戦死した﹂と虚偽を述べて動揺させ、自分もラダメスを想っていること、王女と奴隷という身分の相違から、自分こそがラダメスを得るであろうことを宣言する。第2場
最も有名な場面である。―ラダメスは軍勢を率いて凱旋する。彼はエチオピア人捕虜の釈放を国王に願う。捕虜の中には身分を隠したアモナズロもいたので、アイーダはつい﹁お父さん﹂と言ってしまうが、アモナズロは﹁国王は戦死し、いまや我々は無力﹂と偽りを述べ、彼の身分は発覚せずにすむ。ラムフィスはアモナズロを人質として残すことを条件に捕虜釈放に同意、国王はラダメスに娘アムネリスを与え、次代国王にも指名する。勝ち誇るアムネリス、絶望に沈むアイーダ、復讐戦を画策するアモナズロなどの歌が、エジプトの栄光を讃える大合唱と共に展開する。第3幕
次のエジプト軍の動きを探ろうとするアモナズロは、司令官ラダメスからそれを聞き出すようにアイーダに命じる。アイーダは迷いつつもラダメスにともにエジプトを離れることを望み、ラダメスも応じる。だが、アイーダが逃げ道を聞くので、ラダメスは最高機密であるエジプト軍の行軍経路を口にしてしまう。アモナズロは欣喜雀躍して登場、一緒にエチオピアに逃げようと勧めるが、愕然とするラダメスは自らの軽率を悔いる。そこにアムネリスとラムフィス、祭司たちが登場、アモナズロとアイーダ父娘は逃亡するが、ラダメスは自らの意思でそこに留まり、捕縛される。
第4幕
第1場
アムネリスは裁判を待つラダメスに面会する。彼女は、エチオピア軍の再起は鎮圧され、アモナズロは戦死したがアイーダは行方不明のままであると彼に告げ、ラダメスがアイーダを諦め自分の愛を受け容れてくれるなら、自分も助命に奔走しよう、とまで言うが、ラダメスはその提案を拒絶し審判の場へ向かう。アムネリスは裁判を司る祭司たちに必死に減刑を乞うが聞き入れられない。アムネリスが苦しみ悶える中、ラダメスは一切の弁明を行わず黙秘、地下牢に生き埋めの刑と決定する。第2場
舞台は上下2層に分かれ、下層は地下牢、上層は神殿。ラダメスが地下牢に入れられると、そこにはアイーダが待っている。彼女は判決を予想してここに潜んでいたのだと言う。2人は現世の苦しみに別れを告げ、平穏に死んで行く。地上の神殿ではアムネリスがラダメスの冥福を静かに祈って、幕。主要曲
- 清きアイーダ Celeste Aida(第1幕第1場):ラダメスのロマンツァ
- 勝ちて帰れ Ritorna vincitor(第1幕第1場):アイーダのシェーナとロマンツァ
- 凱旋の場(第2幕第2場)
- おおわが故郷 O patria mia(第3幕):アイーダのロマンツァ
凱旋行進曲
第2幕第2場で演奏される﹁凱旋行進曲﹂は、本作を代表する曲の中でも独立して聞かれることが多いものである。演奏においても劇的効果を挙げるため、この部分のトランペットは﹁アイーダトランペット︵ファンファーレ・トランペット︶﹂という独自のトランペットで舞台上で演奏される。
この曲はトランペットのファンファーレと弦楽の掛け合いで始まり、それに混声合唱が加わり、曲調は一つのピークを迎える。その後、女声、男声の合唱がたたみかけるように歌われ、主題の導入を迎える。主題1はトランペットの演奏で淡々と行われ主題2が来るが、その後2度上に移調した上に伴奏が一層派手につき、豪華になる。