エチオピア
- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
(アムハラ語)
Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno
(アファル語)
Rippabliikii Federaalawaa Dimookraatawaa Itiyoophiyaa(オロモ語)
Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya(ソマリ語)
ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
(ティグリニャ語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:ወደፊት ገስግሺ ውድ እናት ኢትዮጵያ(アムハラ語)
前進せよ、親愛なる母エチオピア -
公用語 アムハラ語
アファル語
オロモ語
ソマリ語
ティグリニャ語[1]首都 アディスアベバ[2] 最大の都市 アディスアベバ - 政府
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大統領 サーレワーク・ゼウデ 首相 アビィ・アハメド - 面積
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総計 1,129,300.4km2(26位)[3] 水面積率 0.7% - 人口
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総計(2022年) 113,656,596人(12位)[4] 人口密度 100.6人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 3兆3743億4900万[5]ブル - GDP(MER)
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合計(2020年) 966億1100万[5]ドル(62位) 1人あたり 994.197(推計)[5]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 2825億6900万[5]ドル(70位) 1人あたり 2907.85(推計)[5]ドル - 建国
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ダモト王国 紀元前980年ごろ アクスム王国 100年ごろ エチオピア帝国 1137年 / 1270年 イタリアの併合 1936年5月9日 -
1941年11月28日エチオピア・エリトリア連邦 1952年9月15日 エチオピア革命 1974年9月12日
通貨 ブル(ETB) 時間帯 UTC(+3) (DST:なし) ISO 3166-1 ET / ETH ccTLD .et 国際電話番号 251
国名[編集]
各公用語による正式名称は、 ●アムハラ語: የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ︵ラテン文字転写:Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik︶。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya 聞く)。 ●アファル語: Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno。通称、Itiyobbiya。 ●オロモ語: Rippabliikii Federaalawaa Dimookraatawaa Itiyoophiyaa。通称、Itoophiyaa。 ●ソマリ語: Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya。通称、Itoobiya。 ●ティグリニャ語: ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ︵ラテン文字転写:Nay-Ítiyop'iya Fēdēralawī Dēmokirasīyawī Rīpebilīki︶。 公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia︵イースィオゥピア︶。 日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国[2]。通称、エチオピア。他にエティオピアとも表記される。 アイトスオプシア︵ギリシア語で陽に焼けた人の国︶がもとで、のちにエチオピアとなった[10]。 ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきた︵1936年からの5年間、イタリア領東アフリカに編入された時期を除く︶。1974年のクーデター後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年の憲法改正によりエチオピアとなったが、同年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。歴史[編集]
古代・中世[編集]
エチオピア帝国[編集]
ザグウェ朝[編集]
ザグウェ朝エチオピア帝国︵1137年–1270年︶は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ︵現ラリベラ︶には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。ソロモン朝[編集]
イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝エチオピア帝国︵1262年-1974年︶と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。諸公侯時代[編集]
しかし、16世紀以降ムダイト朝オーッサ・スルタン国︵1734年–1936年︶が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年ごろまで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった︵諸公侯時代︶。ソロモン朝の中興[編集]
イタリア領東アフリカ[編集]
イギリス軍政とソロモン朝復古独立[編集]
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発。1940年6月10日、ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは枢軸国側で参戦し、イギリスなど連合国と戦いを繰り広げた。 エチオピアを占領していたイタリアは、イギリスとの間で東アフリカ戦線を戦ったが、アフリカ大陸におけるイタリアの勢力は退潮気味となった。 間隙を縫うようにイギリス軍がエチオピアに侵攻。1941年4月6日には先遣部隊がアジスアベバに到達した[16]。 その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した[17]。英軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として参戦した。エチオピア・エリトリア連邦[編集]
帝政廃止[編集]
1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中、1973年に東部のオガデン地方でソマリ人が起こした反政府闘争、および旱魃による10万人の餓死者という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱を起こした。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月に軍のクーデターによって逮捕・廃位させられた。ここに紀元前より続いたエチオピアの君主制は終焉した。 軍はアマン・アンドム中将を議長とするエチオピア暫定軍事政権︵PMGS︶を設置して1975年12月に社会主義国家建設を宣言、ソ連の半衛星国となった。 1976年に入ると年率50%に近いインフレーション、エリトリア解放戦線との戦闘、労働者の賃上要求ストライキが続発するなど国内は疲弊した。同年2月と6月には、旧支配部族層によるクーデターも発生したが軍事政権に鎮圧された[19]。 1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任するが、彼が執った恐怖政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる︵エチオピア内戦︶。1987年の国民投票でPMACを廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘︵エリトリア独立戦争、オガデン戦争︶の結果、メンギスツは1991年5月にジンバブエへ亡命した。エリトリアの独立・メレス政権[編集]
1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線︵EPLF︶ は、ティグレ人民解放戦線︵TPLF︶などと共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線︵EPRDF︶によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。オガデンの反乱[編集]
エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]
東アフリカ大旱魃[編集]
ハイレマリアム政権[編集]
アビィ・アハメド政権[編集]
ティグレ紛争[編集]
政治[編集]
政治体制[編集]
政治体制は、連邦共和制。現行憲法はエチオピア1995年憲法である。
国家元首たる大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領サヘレウォルクは2018年10月に就任した。
行政[編集]
行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。
立法[編集]
議会は、二院制。上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。
政党[編集]
国際関係[編集]
エリトリアとの関係[編集]
ソマリアとの関係[編集]
日本国との関係[編集]
中華人民共和国との関係[編集]
国家安全保障[編集]
予算[編集]
陸軍[編集]
エチオピア陸軍は、1990年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。空軍[編集]
エチオピア空軍は、兵員約2,500人で旧ソ連製の軍用機が中心であり、アフリカ諸国の中では充実した装備である。2002年の国防予算は4億8,100万米ドルと総予算の中で非常に高率を占め、国家予算を著しく圧迫している。海軍[編集]
エチオピア海軍は、1990年代にエリトリアと連邦を解消するまでは僅かながら存在していたが、連邦の解消後は内陸国となり廃止された。この際に残存艦艇は売却されている。地理[編集]
気候[編集]
北回帰線以南の熱帯に位置する。気候は標高によって違い、標高1500メートルまでは平均気温27℃から50℃と極めて暑いが、標高1500メートルから2400メートルは移行区間となり、平均気温は16℃から30℃ほどである。標高2,400メートル以上は冷涼な気候となり、平均気温は16℃である[58]。 エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1,200ミリメートルを超す。この豊富な降雨量がエチオピア高原に豊かな植生をもたらし、また農耕も行なわれ、アフリカ第2位の人口を支えている。エチオピア高原の豊富な雨量は、高原北部のタナ湖を水源とし西部へ流れるアバイ川︵青ナイル川︶、高原中央部から南へ流れトゥルカナ湖へと流れ込むオモ川、同じく高原中央部から東部へと流れ下り、ジブチ国境近くのダナキル砂漠へと流れこむアワッシュ川、高原南部から南東部へと流れ、やがてソマリアへと流れ込むジュバ川とシェベリ川など、多くの河川となって四方へと流れ下り、周囲の乾燥地域を潤している。 通常、雨季は6月半ばから9月半ばまでである。アフリカ大地溝帯によって隔てられた東部高原は乾燥しており、その東に広がりソマリアへ続くオガデン地方はさらに暑く乾燥している。地方行政区分[編集]
多民族国家のエチオピアは、民族ごとに構成される12つの州と2つの自治区からなる連邦制をとっている。この州区分は1995年に導入され、2020年6月と2021年11月と2023年8月に新たな州が追加された。
- アディスアベバ(自治区)
- アファール州
- アムハラ州
- ベニシャングル・グムズ州
- 中部エチオピア州(2023年8月創設)
- ディレ・ダワ(自治区)
- ガンベラ州
- ハラリ州
- オロミア州
- シダマ州(2020年6月創設)
- ソマリ州
- 南エチオピア州(2023年8月創設)
- 南西エチオピア諸民族州(2021年11月創設)
- ティグレ州
主要都市[編集]
主要な都市はアディスアベバ(首都)、ディレ・ダワがある。大半の都市が高原に位置している。
経済[編集]
農業および畜産業[編集]
鉱工業[編集]
情報通信[編集]
通信は国営のエチオテレコム1社が独占しているが、2006年からZTEやファーウェイといった中国企業がエチオピア全土の通信網整備を担ってきた[61]。
通貨[編集]
交通[編集]
道路[編集]
高低差が激しく崖の多い地形や、国内の政情不安が続き交通インフラストラクチュアを整備する資金がなかったため、国内の道路網はあまり発達していない。
鉄道[編集]
航空[編集]
国営のフラッグキャリアであるエチオピア航空が、アディスアベバのボレ国際空港を拠点にエチオピア国内やアフリカ各地、欧州、中東、北米、南米、東南アジアや東アジアに路線を展開しており、2015年4月には日本の成田国際空港にも就航している。
国民[編集]
民族[編集]
言語[編集]
宗教[編集]
婚姻[編集]
婚姻してもほとんどの女性は改姓しない︵夫婦別姓︶[65]。教育[編集]
各言語を尊重するために、1年次~8年次にあたる初等部では一部を除くと、他のサブサハラアフリカ諸国に見られるような欧州の言語ではなく各民族語で教育が行われる。9年次~12年次の中等部・高等部や大学などでは英語が教授言語となっている。多くの国民は、初等部のみで教育を終え、中等部以降の教育を受ける国民は非常に少なくなっている。アムハラ語という全土で通用する共通語があるにも関わらず、高等教育での教授言語の英語使用は教師、生徒共に低い英語レベルや英語が苦手な非エリート層の進学率を阻害するなどの弊害を生んでいる。著名な大学にはアディスアベバ大学がある。
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保健[編集]
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医療[編集]
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治安[編集]
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人権[編集]
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マスコミ[編集]
内戦の終結以来、民間企業の新聞や雑誌が国内に登場し始めている。メディア市場のこのセクターは政府による厳しい規制や同国経済の浮き沈みにも拘らず、現在も成長を続けている。
また、エチオピアでは教育番組が独立した状態になっており、番組自体は同国教育省により制作および放送がされている。
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インターネット[編集]
文化[編集]
エチオピアは、グレゴリオ暦とは異なる独自のエチオピア暦を使用している。エチオピアの1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日に当たる。下の祝祭日表の年月日はグレゴリオ暦である。またグレゴリオ暦からは約7年遅れであるが(エチオピアの2000年1月1日は、グレゴリオ暦の2007年9月11日)、その理由はイエス・キリストの誕生年についての見解が違うためであると言われている[66]。
食文化[編集]
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インジェラとワット
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インジェラとトゥプス
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タッジとトゥプス
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ブンナ・セレモニー
文学[編集]
現代の著名な作家としては、『扇動者たち』(1979年)のサーハレ・セラシェの名が挙げられる。
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音楽[編集]
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映画[編集]
エチオピアの映画産業は成長を見せている面があるものの、映画の普及においては多くの問題に直面している点が目立つ[71]。
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世界遺産[編集]
エチオピア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件存在する。
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シミエン国立公園 - (1978年、自然遺産)
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ラリベラの岩窟教会群 (ザグウェ朝)- (1978年、文化遺産)
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アワッシュ川下流域 - (1980年、文化遺産)
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ティヤ - (1980年、文化遺産)
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アクスム- (1980年、文化遺産)
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オモ川下流域 - (1980年、文化遺産)
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歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル -(2006年、文化遺産)
- 紀年法および暦法
エチオピア暦では1年が13か月からなる。1月から12月は各30日で、年の残りの5日(閏年は6日)が13月になる。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月7日[72] | エチオピア正教会のクリスマス | Ledet | |
1月19日[72] | 神現祭 | Timket | |
2月2日[72] | イード・アル=アドハー | Eid-ul-Adha | |
3月2日 | アドワの戦い記念日 | ||
移動祭日 | エチオピア正教会の聖金曜日 | ||
移動祭日 | エチオピア正教会の復活大祭 | Fasika | |
5月2日 | Mulud | ||
5月5日 | 愛国の日 | ||
5月28日 | 軍政終結記念日 | ||
9月11日[72] | エチオピアの元日 | ||
9月27日[72] | 十字架挙栄祭(マスカル) | ||
11月14日[72] | ラマダンの終わり | Eid-al-Fitr |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
エチオピアでも他のアフリカ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツであり、1944年にサッカーリーグのエチオピアン・プレミアリーグが創設されている。エチオピアサッカー連盟によって構成されるサッカーエチオピア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには11度出場しており、自国開催となった1962年大会では初優勝に輝いている。
オリンピック[編集]
陸上競技[編集]
エチオピアは人口稠密区域が標高2,000メートル以上の高原であり、首都・アディスアベバも標高2,400メートルの地点にある。そのため心肺機能が鍛えられ、これが長距離走にとって有利であると考えられている。また、同国ではこれまでアベベ・ビキラを筆頭に、デラルツ・ツル、ファツマ・ロバ、マモ・ウォルデ、メセレト・デファー、ハイレ・ゲブレセラシェ、ケネニサ・ベケレ、シレシ・シヒネ、タリク・ベケレなど、多数の陸上の名選手を輩出してきた。著名な出身者[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●岡倉登志﹃エチオピアの歴史﹄︵初版第一刷発行︶明石書店、東京、1999年10月20日。ISBN 4-7503-1206-1。 ●岡倉登志編著﹃エチオピアを知るための50章﹄︵初版第1刷︶明石書店、東京︿エリア・スタディーズ68﹀、2007年12月25日。ISBN 978-4-7503-2682-5。関連項目[編集]
●エチオピア関係記事の一覧 ●エチオピア饅頭 ●ヒレジロマンザイウオ︵スズキ目シマガツオ科の魚、関東地方では俗に﹁エチオピア﹂と呼ぶ︶ ●エチオピア (小惑星)︵エチオピアにちなんで命名された小惑星︶ ●シマガツオ#俗称﹁エチオピア﹂の由来外部リンク[編集]
- スリ族:裸族:世界一お洒落な民族と言われるスリ族,又はスルマ族
- オモ川流域のオモ渓谷に住むハマー族,又はハマル族
- ラリベラの岩窟教会群,ゴンダール,シミエン国立公園のゲラダヒヒ猿,青ナイル川など:エチオピアの世界遺産
- 政府
- エチオピア在日大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - エチオピア (日本語)
- 観光
- エチオピア文化観光省 (英語)
- その他
- エチオピア大改革:アビー新首相は救世主となれるか - Global News View(GNV)(日本語)
- "Ethiopia". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
- エチオピア - Curlie(英語) (英語)
- エチオピアのウィキメディア地図 (英語)
- エチオピアに関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 地図 - Google マップ
- 『エチオピア』 - コトバンク