「イニャツィオ・シローネ」の版間の差分
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1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、[[第二次世界大戦]]終了直後にイタリアに帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在した。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[レフ・トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で﹁この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である﹂と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、エッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]﹄︶文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス・ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに雑誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わった。[[フランス]]がナチス軍に占領された後、亡命で離散していたイタリア社会党の再建に一役買って、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れた。
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1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、[[第二次世界大戦]]終了直後にイタリアに帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在した。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[レフ・トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で﹁この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である﹂と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、エッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]﹄︶文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス・ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに雑誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わった。[[フランス]]がナチス軍に占領された後、亡命で離散していたイタリア社会党の再建に一役買って、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れた。
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[[第二次世界大戦]]直後は、イタリア社会党の幹部になり、機関誌﹃[[アヴァンティ!]]﹄の編集長も務めたが、間もなく政党間の駆け引きに失望、1950年代半ばからは文筆活動に専念した。戦後は、亡命先で出版した作品に大幅に加筆、ほぼ新しい作品として上梓するとともに、新たな小説、エッセイを発表 |
[[第二次世界大戦]]直後は、イタリア社会党の幹部になり、機関誌﹃[[アヴァンティ!]]﹄の編集長も務めたが、間もなく政党間の駆け引きに失望、1950年代半ばからは文筆活動に専念した。戦後は、亡命先で出版した作品に大幅に加筆、ほぼ新しい作品として上梓するとともに、新たな小説、エッセイを発表。スイス亡命時代から育んだ世界各国の知識人たちとの親交も生かし、世界的な見地と知己を持つ雑誌﹃テンポ・プレゼンテ︵現代︶﹄において編集長としての手腕も発揮した。イタリア・ペンクラブの会長も務めた。
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[[1969年]]、[[エルサレム賞]]を受賞する。小説の多くは映画やテレビドラマ化されている。 |
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1978年8月22日、スイスの[[ジュネーヴ]]で亡くなる。 |
1978年8月22日、スイスの[[ジュネーヴ]]で亡くなる。 |
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== 作品 == |
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* [[1930年]]、『フォンタマーラ』 |
* [[1930年]]、『フォンタマーラ』(1949〜1953年、戦後改訂版) |
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* [[1934年]]、『ファシズム:その起源と展開』 |
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* [[1956年]]、『ルーカの秘密』 |
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* [[1960年]]、『狐と椿』 |
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* [[1962年]]、『独裁者の学校』改訂版(邦訳、『独裁者になるために』[[齋藤ゆかり]]訳、[[岩波書店]]、[[2002年]] |
* [[1962年]]、『独裁者の学校』改訂版(邦訳、『独裁者になるために』[[齋藤ゆかり]]訳、[[岩波書店]]、[[2002年]]) |
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* [[1965年]]、『非常口』 |
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* [[1968年]]、『一人のつつましきキリスト教徒の物語』 |
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*[http://amici-silone.net Amici Silone] (イタリア語+一部英語) |
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2020年4月22日 (水) 16:44時点における版
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生涯
1900年5月1日、イタリアアブルッツォ州、ペシーナの小土地所有農家に生まれる。1911年に父を亡くし、1915年にはアブルッツォ州で起きた大地震︵アベッツァーノ地震︶で母をも失って、一番末の弟とともに孤児となる。 17歳でアブルッツォ地方の農業労働組合の書記長に抜擢され、大地震後の復興事業を巡る不正を告発。間もなく学業を中断、ローマに移住して、本格的に政治活動を開始。イタリア社会党の青年部総会で週刊の機関誌﹁ラヴァングアルディア﹂の編集長に任命された。1919年に、北イタリアのトリノでアントニオ・グラムシに出会い、1921年1月、イタリア共産党の結成に参加。ソ連をはじめ、欧州各地の国際会議に頻繁に参加するとともに、トリエステで党の機関紙﹃イル・ラヴォラトーレ﹄の編集に携わる。以後も、党の機関誌上で活発な執筆活動を行う。 ムッソリーニのファシズム政権下で、共産党が非合法となると、弾圧を受けながらも、パルミロ・トリアッティらとともにイタリア国内、次いで亡命先の欧州都市で地下活動を続ける。しかし1929年に、顕著になり始めていたスターリニズムを目の当たりにして批判を強め、1931年、ついにイタリア共産党から除名された[注釈 1]。 1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、第二次世界大戦終了直後にイタリアに帰国するまで、主としてチューリッヒに滞在した。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる[注釈 2]。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、エッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃独裁者になるために﹄︶文学作品を発表。その傍ら、ナチス・ドイツから逃れてきたバウハウスの芸術家や文化人とともに雑誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わった。フランスがナチス軍に占領された後、亡命で離散していたイタリア社会党の再建に一役買って、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れた。 第二次世界大戦直後は、イタリア社会党の幹部になり、機関誌﹃アヴァンティ!﹄の編集長も務めたが、間もなく政党間の駆け引きに失望、1950年代半ばからは文筆活動に専念した。戦後は、亡命先で出版した作品に大幅に加筆、ほぼ新しい作品として上梓するとともに、新たな小説、エッセイを発表。スイス亡命時代から育んだ世界各国の知識人たちとの親交も生かし、世界的な見地と知己を持つ雑誌﹃テンポ・プレゼンテ︵現代︶﹄において編集長としての手腕も発揮した。イタリア・ペンクラブの会長も務めた。 1969年、エルサレム賞を受賞する。小説の多くは映画やテレビドラマ化されている。 1978年8月22日、スイスのジュネーヴで亡くなる。作品
●1930年、﹃フォンタマーラ﹄︵1949〜1953年、戦後改訂版︶ ●1934年、﹃ファシズム‥その起源と展開﹄ ●1937年、﹃パンと葡萄酒﹄ ●1938年、﹃独裁者の学校﹄ ●1939年、﹃今に生きるマッツィーニの思想﹄ ●1940年、﹃雪の下の種子﹄ ●1944年、﹃そして、彼は姿をくらました﹄︵戯曲︶ ●1949年、﹃神は躓けり﹄(アンドレ・ジッド、アーサー・ケストラー、ステファン・スペンダーらと共著︶ ●1952年、﹃一握りの桑の実﹄ ●1955年、﹃葡萄酒とパン﹄︵邦訳、白水社、齋藤ゆかり訳 2000年︶ ●1956年、﹃ルーカの秘密﹄ ●1960年、﹃狐と椿﹄ ●1962年、﹃独裁者の学校﹄改訂版︵邦訳、﹃独裁者になるために﹄齋藤ゆかり訳、岩波書店、2002年︶ ●1965年、﹃非常口﹄ ●1968年、﹃一人のつつましきキリスト教徒の物語﹄ ●未完のままで没後出版された作品に﹃セヴェリーナ﹄がある。参考文献
●Silone Romanzi e saggi, a cura di Bruno Falcetto, Mondadori, Milano, 1998 ●Luce d’Eramo, Ignazio Silone, a cura di Yukari Saito, Castelvecchio, Roma, 2014注釈
脚注
関連項目
外部リンク
- Amici Silone (イタリア語+一部英語)