リヴォニア戦争
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リヴォニア戦争 | |||||||
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ロシア軍のナルヴァ包囲戦(1558) ボリス・チョリコフ画(1836年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ポーランド・リトアニア共和国 |
ロシア・ツァーリ国 リヴォニア王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ステファン・バートリ ゴットハルト・ケトラー フレゼリク2世 エリク14世 |
イヴァン4世 マグヌス |
リヴォニア戦争︵リヴォニアせんそう、英語: Livonian War︶とは、主にモスクワ国家︵モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国︶、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にして戦った戦争。1557年に、︵リヴォニア帯剣騎士団が加盟していた︶リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合︵のちのポーランド・リトアニア共和国︶が相互安全保障条約を結んだことを、イヴァン雷帝がリヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、ロシアがリヴォニア帯剣騎士団領に侵攻したことから始まった。戦争は1558年から1583年まで続いた。この期間の1561年、リヴォニア帯剣騎士団は解散・世俗化し、テッラ・マリアナがリヴォニア公国とエストニア公国となり、ポーランド・リトアニア連合の構成国であるリトアニア大公国に加盟した。また1569年、ポーランド王国とリトアニア大公国はルブリン合同を結び、﹁ポーランド・リトアニア共和国﹂が成立した。長期化したリヴォニア戦争は、ロシアの国力を消耗させ、ポーランド・スウェーデン同盟の挟撃によってバルト海地域への拡大を阻止された上に1584年のツァーリの死によって弱体化した。代ってポーランド・リトアニア共和国がこの地域において影響力を増大化させることとなった。ポーランド・リトアニア共和国君主を継承したヴァーサ家の本家であるポーランド・ヴァーサ家のジグムント3世王は、共和国議会や元老院の反対を無視して北東ヨーロッパ共通の王朝創設を目指して暴走することとなり、ロシアや、︵カールがジグムント3世からスウェーデン王位を簒奪しカール9世王として統治していた︶スウェーデンといった周辺国との摩擦、抗争を引き起こすこととなった。
概要
詳細は「モスクワ・リトアニア戦争」を参照
西欧との通商を求めてバルト海への進出を試みるモスクワのツァーリ・イヴァン4世は、リヴォニア騎士団へ宣戦布告したことでリヴォニア戦争は開戦した。
なお、ほぼ同時期、エストニア︵エストラント︶を巡ってデンマークとスウェーデンとが北方七年戦争︵1563年 - 1570年︶を起こしているが、直接リヴォニア戦争と関連している訳ではない。デンマーク、スウェーデンが主な戦場としたのは、エストニアやスカンディナヴィア半島であり、ポーランド、ロシアとは直接、戦端を開いていない。
この戦争の最中、ポーランド・ヤギェウォ家とスウェーデン・ヴァーサ家は婚姻関係を結び、同時に対ロシア同盟を組んだ。この同盟により、ロシアはポーランド・スウェーデンから挟撃されることとなった︵当時のフィンランド公ヨハンとポーランド王女カタジナの結婚は、当時のスウェーデン国王からは容認されなかったが、フィンランド公ヨハンが1568年にクーデターを起こしスウェーデン王ヨハン3世として即位して以降、共闘関係が成立した。カタジナはヨハン3世との間に3子を生み、長男シギスムンドはカトリック教徒として教育を受け、戦争終結後の1587年にポーランド王兼リトアニア大公として即位する︶。
侵略の危機に晒されたリヴォニア騎士団は、まずリトアニア大公国と同盟し、さらにポーランド王の従属国化を承認したものの、ロシア軍の侵攻により、滅亡は避けられない状況となった。これに目を付けたリトアニア大公国軍とスウェーデン王国軍がリヴォニアに侵攻したため、リヴォニア騎士団領は解体される事となった。デンマークは、スウェーデンのバルト海進出を阻む為に別個の戦端を開いた。
この状態を見たリヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーは、ポーランド王国に臣従し、残った領地をもってポーランドの後ろ盾でクールラント公国を建国した︵1561年︶。その後リトアニア大公国軍は、ロシア軍と交戦し有利に立つものの、国力を浪費し、長期戦に耐えることが不可能となり、同君連合を取るポーランド王国軍の参戦を求めた。ここにポーランドは直接参戦に踏み切ることになった。またリトアニア大公国の支配階層の多数を占めたルーシ人の住む広大な地域︵現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアのスモレンスク地方に相当︶はポーランド王国のいくつかの県として再編された。ポーランドとリトアニアは1569年にルブリン合同を結び、両国は共通する議会を持つ一体の政治機構となった。以降のポーランド・リトアニア連合を、﹁共和国﹂と呼ぶようになる。
ポーランド・リトアニア共和国の国力は強大となり、リトアニア大公国がウクライナ地方を持っていたときに交わした隣接するクリミア・ハン国との同盟を利用し、オスマン帝国とクリミア・ハン国の共同作戦︵露土戦争、1568年 - 1570年︶を引き出した。1570年にその講和条約がオスマン帝国とロシアの間で締結されたが、1571年にはクリミア・ハン国が単独でモスクワに侵攻し︵ロシア・クリミア戦争︶、モスクワを焼き払った︵モスクワ大火 (1571年)︶。スウェーデンもエリク14世から王位を簒奪したヨハン3世の元で北方七年戦争を終結させ、再攻撃を開始した。ヨハン3世は前国王エリク14世を幽閉、1577年にこれを毒殺し、前王妃・王太子を追放してヴァーサ家の本家としてスウェーデン=フィンランドに君臨した︵ヨハン3世の親カトリックと息子シギスムンドのポーランド王即位によるポーランド・スウェーデン同君連合国家の設立は、スウェーデン上層部の間に不満を高めさせる結果となった︶。ポーランドは1572年にヤギェウォ朝が断絶。翌1573年に選挙王政となった。この隙をついてロシアが反撃を始めたものの、ポーランドの政治体制はもともと王権の弱い議会制であり、首相に相当するカンツェシュ︵チャンセラー=大法官、多くは大元帥に相当する王冠領大ヘトマンを兼任︶を事実上の長とする国王評議会︵内閣︶が軍事・外交を含めた行政のすべてを運営していたため、これはロシアの誤算であった。ロシア軍による侵攻は一時的にはリヴォニアの領有を果たすことに成功したものの、ほどなく北からのスウェーデン、南からのポーランドの同盟軍の反撃に遭い、ロシアの国力を大きく疲弊させられることとなった。余勢を駆ったポーランド軍はさらにステファン・バートリ王の元で逆にロシアに侵攻したが、ポーランドも選挙王政に入り国会による審議や会計監査が厳格化されたことで、政府は出費のかさむ長期戦を余儀なくされることを避けることを決定、和平を結ぶ事に同意した。イヴァン4世も自国の主要都市が包囲されたことで防衛のために和平交渉を開始し、1582年に両国はローマ教皇の仲介で、戦前の状態に戻すことで、休戦条約が結ばれた︵ヤム・ザポルスキの和約︶。
1583年スウェーデンとプリューサ条約︵露: Плюсское перемирие、スウェーデン語: Stilleståndsfördrag vid Narva å och Plusa︶を締結して休戦し、スウェーデンはリヴォニアから撤退し、ロシアはエストニア︵エストニア公国︶とナルヴァとラドガ湖西岸をスウェーデンに割譲した。この結果、ロシアのバルト海進出は絶望的となった︵1590年代のロシア・スウェーデン戦争の敗北により、スウェーデンはフィンランド湾深奥部を一時的に喪失したが、1595年のロシアとの講和条約によってエストニア公国のスウェーデン領有が確定する︶。