「ロシア革命」の版間の差分

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[[マーティン・メイリア]]によれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある[[社会集団]]が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。[[フランス革命]]では、[[貴族]]や[[僧侶]]の地位は没落する一方で、[[中流階級]]や[[農民]]の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった<ref name="m"/>。しかしロシア革命では、「普通の人々」「勤労大衆」より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された<ref name="m"/>。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた<ref name="m"/>。こうしてソビエト・ロシアでは[[市民社会]]が消滅し、画一的な「勤労大衆」だけが残された<ref name="m">[[マーティン・メイリア]]、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻,p232-233.</ref>。

[[マーティン・メイリア]]によれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある[[社会集団]]が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。[[フランス革命]]では、[[貴族]]や[[僧侶]]の地位は没落する一方で、[[中流階級]]や[[農民]]の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった<ref name="m"/>。しかしロシア革命では、「普通の人々」「勤労大衆」より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された<ref name="m"/>。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた<ref name="m"/>。こうしてソビエト・ロシアでは[[市民社会]]が消滅し、画一的な「勤労大衆」だけが残された<ref name="m">[[マーティン・メイリア]]、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻,p232-233.</ref>。


10月革命でのボリシェヴィキの権力掌握は現在も論争の的である。ボリシェヴィキにはレーニンの指導力と大衆による支持があったとする見方がある一方で、ボリシェヴィキの権力奪取は[[クーデター|クーデタ]]であり、これは独裁につながったとする見方がある{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上122}}。


歴史学者コンラート・H・ヤーラオシュによれば、十月革命は、「下からの民衆革命を騙った少数派によるクーデタ」だった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。1905年や1917年2月の革命とは異なり、ボリシェヴィキによる権力掌握は、草の根からの自然発生的な蜂起ではなく、急進派が計画して実行した反乱だった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。レーニンたちは民主主義の形式的な手続きを重視せず、自分たちの善を確信しており、人々を自分達の指導に従わせることに躊躇はなかった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。[[識字|読み書き]]ができない農民と工場労働者はマルクス主義を支持するよう迫られ、ボリシェヴィキ党員は、革命権力を振り回し、革命への覚悟もなく気乗りもしない住民に、力ずくで理論を押し付けた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上111}}。また、ボリシェヴィキは、革命的階級闘争という独裁的手法に訴え、自分たちの政策を批判する機関紙や雑誌の発行を禁止した{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上127}}。12月にはカデットやエスエルとメンシェヴィキを「反革命」として検挙しはじめ、秘密警察チェカーによって警察国家が樹立された。レーニンは著作において議会主義を否定してきたが、憲法制定会議の707議席中、[[社会革命党|エスエル]]が370議席を獲得し、175議席しかとれなかったボリシェヴィキは初日が終わると代議員を閉め出し、ロシアの議会制を終わらせた。その後の内戦は、人々に筆舌に尽くし難いテロルを加えて、独裁体制を加速させた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上127}}。ボリシェヴィキによる暴力はヨーロッパを驚かせたが、十月革命は平和と平等への標識ともみなされた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。しかし、ボリシェヴィキによるマルクス主義的近代化は、多大な強制と暴力、そして莫大な人的被害をもたらしたとヤーラオシュは指摘している{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上110}}。


== ギャラリー ==

== ギャラリー ==

{{ill2|イワン・ウラジミーロフ|ru|Владимиров, Иван Алексеевич}}による、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。

{{ill2|イワン・ウラジミーロフ|ru|Владимиров, Иван Алексеевич}}による、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。


2024年5月19日 (日) 15:01時点における版

ロシア革命
場所ロシア
結果

ボリシェヴィキの勝利。ソビエト連邦の成立


: Российская революция : Russian Revolution19172()1905

使191821413


190519076西
ストライキ件数[1]
年次 ストライキ件数 参加労働者数
絶対数 /全工場数(%) 絶対数 /全労働者(%)
1905 13,995 93.2 2,863,173 163.6
1906 6,114 42.2 1,108,406 65.6
1907 3,573 23.8 740,074 41.9
1908 892 5.9 176,101 9.7
1909 340 2.3 64,166 3.5
1910 222 1.4 46,623 2.4
1911 466 2.8 105,110 5.1
1912 2,032 11.7 725,491 33⁰⁹⁰
1913 2,404 13.4 887,096 38.3
1914 3,534 25.2 1,337,458 68.2
1915 928 7.3 539,528 28.1
1916 1,410 11.3 1,086,364 51.9

191241914


退[2]使[2][2]191572[2][3]

191568[4]

1915[5]

19166710[6]

1112[7]

19171[8]

二月革命

二月革命の勃発と二重権力の成立

1917年2月、抗議デモ
1917年のペトログラード・ソヴィエト会議

1917[3]

223[3][9]

22415[3][3]

2[3][10][3]

227[11]

31姿

32[10]退2333152退[12]

[13][13][13]



36姿[14]314姿[15]

3283.27[16][16]

[17]418[17][17]

3.27[18]554[12]


姿

312[19][19]

43[12][20]

42429[21]

(1917)74

618

73



74

姿

78


78244[22]

718

824

828姿

91[23]

91591422925

十月革命

十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立

防護巡洋艦アヴローラ
十月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献したとされる。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈または鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクネヴァ川に保存されている。

19176285248105259[24]

89[25]10101016[25]

1012[26][26]48144

1024便[25][25]

1025[27][28]26[29]

退

1026[30][30]

1027[30]

10271029

1025261027112113

118739338[28][28]

118[31][31][31]

11129

憲法制定議会の解散

二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった[32]

レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。

翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。

ブレスト=リトフスク条約


1026

1119[30]127191828[30][30]

33調退[33]

11[30]19171261918119182162241118

内戦と一党独裁


19185[34]沿Комуч

192120%31[35]

1918[36]退使[36]

退21918717830[36]1917姿[36]

192011[37]1500[38]150[38]

19213211922退

1918111500019213576000775000[38][38]192141%28.2%30.8%便[38]


191874710519189

76使19224

革命下の社会と犯罪


[39][39]

[39][39]

7238800130108001360[39]19153191731087[39]45K.K.[39]6720[39][39][39]

312317[39][39][39]

[39] (ultima ratio) [39] [39]


19131690019173402%2[40][40][40]

[41][41][41]

[38]

191932

[42][42][42][42]

10[43]

H[28]190519172[28][28][44][45]12707370175[45][28][20]



文献案内


[46][47][48]1917[49][50]

[51][52][53]

[54]

E.H.[55]西[56][57][58]西[59]

出典

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 2010ISBN 9784309761435 

  : ︿; 16552002ISBN 4-121-01655-6

, , ,   31997 

︿ ; 519721120NDLJP:12176811 

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使1981 

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1977ISBN 4770401353 

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2000 

19171968 

鹿1970 

1978 

鹿1975 

1971 

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E.H.1967-1971 

西32006 

1976 

1968

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2017ISBN 4768458130

, H (2022), : 20,