「ロシア革命」の版間の差分
237行目: | 237行目: | ||
[[マーティン・メイリア]]によれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある[[社会集団]]が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。[[フランス革命]]では、[[貴族]]や[[僧侶]]の地位は没落する一方で、[[中流階級]]や[[農民]]の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった<ref name="m"/>。しかしロシア革命では、「普通の人々」「勤労大衆」より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された<ref name="m"/>。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた<ref name="m"/>。こうしてソビエト・ロシアでは[[市民社会]]が消滅し、画一的な「勤労大衆」だけが残された<ref name="m">[[マーティン・メイリア]]、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻,p232-233.</ref>。 |
[[マーティン・メイリア]]によれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある[[社会集団]]が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。[[フランス革命]]では、[[貴族]]や[[僧侶]]の地位は没落する一方で、[[中流階級]]や[[農民]]の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった<ref name="m"/>。しかしロシア革命では、「普通の人々」「勤労大衆」より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された<ref name="m"/>。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた<ref name="m"/>。こうしてソビエト・ロシアでは[[市民社会]]が消滅し、画一的な「勤労大衆」だけが残された<ref name="m">[[マーティン・メイリア]]、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻,p232-233.</ref>。 |
||
10月革命でのボリシェヴィキの権力掌握は現在も論争の的である。ボリシェヴィキにはレーニンの指導力と大衆による支持があったとする見方がある一方で、ボリシェヴィキの権力奪取は[[クーデター|クーデタ]]であり、これは独裁につながったとする見方がある{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上122}}。 |
|||
歴史学者コンラート・H・ヤーラオシュによれば、十月革命は、「下からの民衆革命を騙った少数派によるクーデタ」だった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。1905年や1917年2月の革命とは異なり、ボリシェヴィキによる権力掌握は、草の根からの自然発生的な蜂起ではなく、急進派が計画して実行した反乱だった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。レーニンたちは民主主義の形式的な手続きを重視せず、自分たちの善を確信しており、人々を自分達の指導に従わせることに躊躇はなかった{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。[[識字|読み書き]]ができない農民と工場労働者はマルクス主義を支持するよう迫られ、ボリシェヴィキ党員は、革命権力を振り回し、革命への覚悟もなく気乗りもしない住民に、力ずくで理論を押し付けた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上111}}。また、ボリシェヴィキは、革命的階級闘争という独裁的手法に訴え、自分たちの政策を批判する機関紙や雑誌の発行を禁止した{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上127}}。12月にはカデットやエスエルとメンシェヴィキを「反革命」として検挙しはじめ、秘密警察チェカーによって警察国家が樹立された。レーニンは著作において議会主義を否定してきたが、憲法制定会議の707議席中、[[社会革命党|エスエル]]が370議席を獲得し、175議席しかとれなかったボリシェヴィキは初日が終わると代議員を閉め出し、ロシアの議会制を終わらせた。その後の内戦は、人々に筆舌に尽くし難いテロルを加えて、独裁体制を加速させた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上127}}。ボリシェヴィキによる暴力はヨーロッパを驚かせたが、十月革命は平和と平等への標識ともみなされた{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上125}}。しかし、ボリシェヴィキによるマルクス主義的近代化は、多大な強制と暴力、そして莫大な人的被害をもたらしたとヤーラオシュは指摘している{{Sfn| ヤーラオシュ | 2022 |p=上110}}。 |
|||
== ギャラリー == |
== ギャラリー == |
||
{{ill2|イワン・ウラジミーロフ|ru|Владимиров, Иван Алексеевич}}による、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。 |
{{ill2|イワン・ウラジミーロフ|ru|Владимиров, Иван Алексеевич}}による、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。 |
2024年5月19日 (日) 15:01時点における版
ロシア革命 | |||||
---|---|---|---|---|---|
|
背景
前史
1905年、血の日曜日事件によって始まったロシア第一革命は、1907年6月にストルイピン首相のクーデタで終息した。労働運動や革命運動は一時的に停滞し、革命家は西ヨーロッパへと逃れた。年次 | ストライキ件数 | 参加労働者数 | ||
---|---|---|---|---|
絶対数 | /全工場数(%) | 絶対数 | /全労働者(%) | |
1905 | 13,995 | 93.2 | 2,863,173 | 163.6 |
1906 | 6,114 | 42.2 | 1,108,406 | 65.6 |
1907 | 3,573 | 23.8 | 740,074 | 41.9 |
1908 | 892 | 5.9 | 176,101 | 9.7 |
1909 | 340 | 2.3 | 64,166 | 3.5 |
1910 | 222 | 1.4 | 46,623 | 2.4 |
1911 | 466 | 2.8 | 105,110 | 5.1 |
1912 | 2,032 | 11.7 | 725,491 | 33⁰⁹⁰ |
1913 | 2,404 | 13.4 | 887,096 | 38.3 |
1914 | 3,534 | 25.2 | 1,337,458 | 68.2 |
1915 | 928 | 7.3 | 539,528 | 28.1 |
1916 | 1,410 | 11.3 | 1,086,364 | 51.9 |
第一次世界大戦
第一次世界大戦においてツァーリの軍は、ハプスブルク軍を破ったものの、ドイツ軍には敗北続きで、ポーランドやバルト諸国からは退却した[2]。全ロシア・ゼムストヴォ連合は武器生産を増やしたものの、市民の資源を使い果たし、行政の無能さを明るみに出した[2]。減耗分を埋め合わせるために急いで召集された新兵は、十分な訓練を受けられず、装備も貧弱で、おびただしい被害を出し、兵士の士気が低いことが伝わると、上層部への怒りが強まった[2]。1915年7月にロシア軍がワルシャワで敗北すると、ニコライ2世は前線に向かって軍を自ら指揮すると決定したが、敗北の責任を皇帝が負うことになったし、皇帝が戦地に赴いたことで、政治的真空状態が生まれたため、これは致命的な誤りとなった。[2]。また、アレクサンドラ皇后は、自堕落な謎の僧侶ラスプーチンとのつきあいをやめなかった[3]。 第一次世界大戦によって愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん脇に押しやられたが、戦争が生活条件の悪化をもたらすと労働運動は復活した。1915年6月にコストロマー、8月にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクで労働者が警官と軍隊に射殺される事件が起き、抗議のストを呼び起こした[4]。 自由主義者は1915年に国会でカデットを中心として﹁進歩ブロック﹂をつくり、戦勝をもたらしうる﹁信任内閣﹂の実現をめざして政府批判を強めた。自由主義陣営内の急進派は労働者代表も含む工業動員のための組織として戦時工業委員会を主要都市に設立した[5]。 1916年6月、政府は従来兵役を免除してきた中央アジア諸民族やザカフカーズの回教徒住民を後方勤務に動員することを発表した。中央アジア、カザフスタンの住民は7月に反乱を起こした。10月にはペトログラードの労働者がストライキを行い、軍隊の一部も加わった[6]。 11月、進歩ブロックのミリュコーフは国会において政府の行為をひとつひとつ挙げて﹁愚行なのか、それとも裏切りなのか﹂と非難する演説を行った。支配層の動揺も激しくなり、12月には皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた僧侶ラスプーチンが皇族や貴族のグループによって暗殺された[7]。 1917年1月、中央戦時工業委員会労働者グループは﹁国の完全な民主化﹂﹁人民に依拠する臨時政府﹂をスローガンとして掲げて国会デモを呼びかけた。政府は労働者グループのメンバーや協力者を逮捕し、中央戦時工業委員会は抗議声明を発表した[8]。二月革命
二月革命の勃発と二重権力の成立
四月危機
臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した[14]。この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に﹁全世界の諸国民へ﹂と題して発表した声明は、﹁われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける﹂﹁ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ﹂とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた[15]。 ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の﹁戦争目的についての声明﹂︵3.27声明︶を発表した[16]。﹁自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう﹂[16]。 ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた[17]。ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した[17]。しかし彼は声明に﹁ミリュコフ覚書﹂を付し、その中で﹁遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである﹂と解説した[17]。 この﹁ミリュコフ覚書﹂は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ︵四月危機︶を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は辞任を余儀なくされた[18]。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった[12]。レーニンの﹁四月テーゼ﹂
ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。 3月12日に中央委員のカーメネフとスターリンが流刑地からペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した[19]。機関紙﹃プラウダ﹄には﹁臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される﹂﹁軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう﹂などといった論説が掲載された[19]。 これに対し、4月3日に亡命地スイスからドイツ政府の用意した﹁封印列車﹂で帰国したレーニンは、﹁現在の革命におけるプロレタリアートの任務について﹂と題したテーゼ︵四月テーゼ︶を発表して政策転換を訴えた。その内容は、臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、﹁祖国防衛﹂を拒否すること、全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった[12]。レーニンは四月テーゼで、臨時政府と袂をわかち、プロレタリアートと貧農の手に権力を渡す第二段階へ前進すること、そして、警察・軍隊・官僚の廃止、土地の国有化、労働者による工業生産管理を約束するボリシェヴィキこそプロレタリアの利益を代表する唯一の党であると宣伝した[20]。 ﹁ミリュコフ覚書﹂が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった[21]。攻勢の失敗と七月蜂起
コルニーロフの反乱
第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、同月24日にケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。この連立内閣は社会革命党とメンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、社会主義者が主導権を握る構成となった[22]。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣とほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、七月蜂起後の弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなった。 7月18日に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフは、二月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し、﹁有害分子﹂を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、両者は対立することになった。 8月24日、コルニーロフはアレクサンドル・クルイモフ将軍に対し、ペトログラードへ進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。 カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。 ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日に逮捕された[23]。 カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは9月14日から22日にかけて﹁民主主義会議﹂を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府は結局はカデットも含むものになった。十月革命
十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立
憲法制定議会の解散
二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった[32]。
レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。
翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。
ブレスト=リトフスク条約
内戦と一党独裁
最初の憲法
1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第5回全ロシア・ソヴィエト大会は最初の1918年ソヴィエト憲法を採択した。憲法の基本的任務は﹁ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること﹂とされた︵第9条︶。また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。 この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。革命下の社会と犯罪
ロシア革命の評価と影響
ロシアの1913年の人口は1億6900万人で、1917年の工業労働者は340万人で人口の2%を占めるほどで、首都ペトログラードの労働者も都市出身者は2割ほどで、あとは農民出身であった[40]。つまり﹁労働者﹂がほとんどいないところで﹁プロレタリア︵労働者︶権力﹂が生まれたのであり、ジノビエフはボルシェビキを﹁存在しない階級の前衛党﹂と称した[40]。下斗米伸夫は﹁ロシア革命が労働者革命というのは神話に等しい﹂と述べる[40]。 ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命ではボリシェヴィキ党の武装組織がケレンスキーら臨時政府の閣僚を逮捕し、権力掌握を強行した[41]。この武力による権力奪取について、革命というよりはむしろクーデターというべきではないかとロシア・マルクス主義の父と称されるプレハノフは批判し、ゴーリキーは民主主義に対する恥ずべき行為だと非難した[41]。ボリシェヴィキ指導部のグリゴリー・ジノヴィエフやルイコフなども力による権力奪取を批判した[41]。 社会革命党の指導者ヴィクトル・チェルノフは、第一次世界大戦と内戦で人々は残忍さになれていったが、政権についたボリシェヴィキはサディストであると評した[38]。 ともあれ十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルンもヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。 マーティン・メイリアによれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある社会集団が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。フランス革命では、貴族や僧侶の地位は没落する一方で、中流階級や農民の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった[42]。しかしロシア革命では、﹁普通の人々﹂﹁勤労大衆﹂より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された[42]。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた[42]。こうしてソビエト・ロシアでは市民社会が消滅し、画一的な﹁勤労大衆﹂だけが残された[42]。 10月革命でのボリシェヴィキの権力掌握は現在も論争の的である。ボリシェヴィキにはレーニンの指導力と大衆による支持があったとする見方がある一方で、ボリシェヴィキの権力奪取はクーデタであり、これは独裁につながったとする見方がある[43]。 歴史学者コンラート・H・ヤーラオシュによれば、十月革命は、﹁下からの民衆革命を騙った少数派によるクーデタ﹂だった[28]。1905年や1917年2月の革命とは異なり、ボリシェヴィキによる権力掌握は、草の根からの自然発生的な蜂起ではなく、急進派が計画して実行した反乱だった[28]。レーニンたちは民主主義の形式的な手続きを重視せず、自分たちの善を確信しており、人々を自分達の指導に従わせることに躊躇はなかった[28]。読み書きができない農民と工場労働者はマルクス主義を支持するよう迫られ、ボリシェヴィキ党員は、革命権力を振り回し、革命への覚悟もなく気乗りもしない住民に、力ずくで理論を押し付けた[44]。また、ボリシェヴィキは、革命的階級闘争という独裁的手法に訴え、自分たちの政策を批判する機関紙や雑誌の発行を禁止した[45]。12月にはカデットやエスエルとメンシェヴィキを﹁反革命﹂として検挙しはじめ、秘密警察チェカーによって警察国家が樹立された。レーニンは著作において議会主義を否定してきたが、憲法制定会議の707議席中、エスエルが370議席を獲得し、175議席しかとれなかったボリシェヴィキは初日が終わると代議員を閉め出し、ロシアの議会制を終わらせた。その後の内戦は、人々に筆舌に尽くし難いテロルを加えて、独裁体制を加速させた[45]。ボリシェヴィキによる暴力はヨーロッパを驚かせたが、十月革命は平和と平等への標識ともみなされた[28]。しかし、ボリシェヴィキによるマルクス主義的近代化は、多大な強制と暴力、そして莫大な人的被害をもたらしたとヤーラオシュは指摘している[20]。ギャラリー
イワン・ウラジミーロフによる、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。-
ボリシェヴィキによる農民からの穀物の徴発。
-
チェーカーの地下室。
-
ボリシェヴィキにより強制労働をさせられる人々。
-
ニコライ2世の肖像の焼却。
-
赤軍による冬宮の破壊。
-
革命派によるワインショップの襲撃。
-
ロシア飢饉 (1921年-1922年)で死んだ馬を食べる人々。
-
ボリシェヴィキによる教会財産の接収(ロシア正教会の歴史#ソ連:無神論政権による弾圧の時代も参照)。
-
革命派によって死刑を宣告される聖職者と地主。
-
ボリシェヴィキの命令で強制労働に従事する聖職者。
文献案内
出典
- ^ 辻 1981, p.89
- ^ a b c d ヤーラオシュ 2022, p. 上116.
- ^ a b c d e f g ヤーラオシュ 2022, p. 上117.
- ^ 和田 1968,p.328
- ^ 和田 1968,pp.329-330
- ^ 長尾 1972,p.49
- ^ 和田 1968,pp.334-335
- ^ 長尾 1972,p.51
- ^ 栗生沢 2010, p. 116.
- ^ a b ヤーラオシュ 2022, p. 上118.
- ^ 栗生沢 2010, p. 117.
- ^ a b c 栗生沢 2010, p. 118.
- ^ a b c ヤーラオシュ 2022, p. 上120.
- ^ 長尾 1973, pp. 10-11.
- ^ 長尾 1973, pp. 15-16.
- ^ a b 長尾 1973, p. 18.
- ^ a b c 長尾 1973, p. 81.
- ^ サーヴィス 2005,p.64
- ^ a b 長尾 1973, pp. 71–73.
- ^ a b ヤーラオシュ 2022, p. 上110.
- ^ 長尾 1973, pp. 132–134.
- ^ サーヴィス 2005,p.71
- ^ 栗生沢 2010, p. 119.
- ^ ヤーラオシュ 2022, p. 上123.
- ^ a b c d ヤーラオシュ 2022, p. 上124.
- ^ a b 長尾 1973, pp. 356–357.
- ^ 長尾 1973, p. 374.
- ^ a b c d e f g ヤーラオシュ 2022, p. 上125.
- ^ 田中他 1997, p. 47.
- ^ a b c d e f g ヤーラオシュ 2022, p. 上126.
- ^ a b c ヤーラオシュ 2022, p. 上126-7.
- ^ 栗生沢 2010, pp. 122–123.
- ^ サーヴィス 2005,p.104
- ^ 栗生沢 2010, p. 124.
- ^ 栗生沢 2010, p. 127.
- ^ a b c d マーティン・メイリア、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻、p212.
- ^ 黒川 2002,p.191
- ^ a b c d e f マーティン・メイリア、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻、p237-239.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 長谷川毅「犯罪,警察,サモスード : ロシア革命下ペトログラードの社会史への一試論」スラヴ研究, 34, 27-55,1987年、北海道大学
- ^ a b c 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ, 2002年)p20
- ^ a b c 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ, 2002年)p22
- ^ a b c d マーティン・メイリア、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻,p232-233.
- ^ ヤーラオシュ 2022, p. 上122.
- ^ ヤーラオシュ 2022, p. 上111.
- ^ a b ヤーラオシュ 2022, p. 上127.
- ^ ケレンスキー 1977.
- ^ シューリギン 1956.
- ^ トロツキー 2000.
- ^ ヴォーリン 1968.
- ^ スタインベルグ 1970.
- ^ 菊地 1971.
- ^ 議事録翻訳委員会 1978.
- ^ 加藤 1975.
- ^ ジョン・リード 1957.
- ^ E.H.カー 1967.
- ^ 和田 1968.
- ^ 長尾 1973.
- ^ 菊地 1976.
- ^ 藤本他 2006.
参考文献
●Abraham Ascher, The Revolution of 1905: a short history. Stanford University Press.2004 ●ロバート・サーヴィス著・中嶋毅訳﹃ロシア革命 1900-1927﹄︵ヨーロッパ史入門︶岩波書店、2005年6月28日。 ●栗生沢猛夫﹃図説 ロシアの歴史﹄河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435。 ●黒川祐次 ﹃物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国﹄中央公論新社︿中公新書; 1655﹀、東京、2002年︵日本語︶ISBN 4-121-01655-6。 ●田中, 陽児、倉持, 俊一、和田, 春樹 編﹃世界歴史体系 ロシア史3﹄山川出版社、1997年。 ●長尾久﹃ロシヤ十月革命﹄亜紀書房︿亜紀・現代史叢書 ; 5﹀、1972年11月20日。NDLJP:12176811。 ●長尾久﹃ロシヤ十月革命の研究﹄社会思想社、1973年3月30日。NDLJP:12185450。 ●辻義昌﹃ロシア革命と労使関係の展開﹄御茶の水書房、1981年。 ●藤本和貴夫、松原広志 編﹃ロシア近現代史 ピョートル大帝から現代まで﹄ミネルヴァ書房、1999年。ISBN 9784623027477。 ●アレクサンドル・ケレンスキー﹃ケレンスキー回顧録﹄恒文社、1977年。ISBN 4770401353。 ●シューリギン﹃革命の日の記録﹄河出書房、1956年。 ●トロツキー﹃ロシア革命史︵全五巻︶﹄岩波書店、2000年。 ●ヴォーリン﹃1917年・裏切られた革命﹄林書店、1968年。 ●スタインベルグ﹃左翼エスエル戦闘史﹄鹿砦社、1970年。 ●議事録翻訳委員会訳﹃ロシヤ社会民主労働党︵ボ︶第七回︵四月︶全ロシヤ協議会議事録﹄十月書房、1978年。 ●加藤一郎編﹃ナロードの革命党史﹄鹿砦社、1975年。 ●菊地昌典編﹃ロシア革命﹄筑摩書房、1971年。 ●ジョン・リード﹃世界をゆるがした十日間︵上・下︶﹄岩波書店、1957年。 ●E.H.カー﹃ボリシェヴィキ革命︵全三巻︶﹄みすず書房、1967-1971。 ●望田幸男・藤本和貴夫・若尾祐司・野村達朗・川北稔・若尾裕司・阿河雄二郎編﹃西洋近現代史研究入門︵第3版︶﹄名古屋大学出版会、2006年。 ●菊地昌典編﹃ソビエト史研究入門﹄東京大学出版会、1976年。 ●和田春樹、1968、﹁二月革命﹂、江口朴郎︵編︶﹃ロシア革命の研究﹄、中央公論社 ●マーティン・メイリア、白須英子訳﹃ソヴィエトの悲劇﹄︵草思社、1997︶上下巻 ●桑野隆監修、若林悠著﹃風刺画とアネクドートが描いたロシア革命﹄現代書館、2017年。ISBN 4768458130 ●ヤーラオシュ, コンラート・H・ 橋本伸也訳 (2022), 灰燼のなかから: 20世紀ヨーロッパ史の試み, 人文書院外部リンク
- 『ロシア革命』 - コトバンク
- 『ロシア革命史(年表)』 - コトバンク