七支刀
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Chiljido.jpg/250px-Chiljido.jpg)
七支刀︵ななつさやのたち、しちしとう︶は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾︵ろくさのほこ︶として伝えられてきた鉄剣。全長74.8cm。製造地は中国とされている。
概要
七支刀は、中国で製造され神功皇后の時代に日本に渡った祭具であり、奈良県天理市石上神宮︵いそのかみじんぐう︶に保存されていた。千年以上もその存在が忘れられていたが、明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した[1]。
以来その銘文の解釈・判読を巡って研究が続いている。
七支刀︵しちしとう︶の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている[2]。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。
﹃日本書紀﹄には七枝刀との記述があり、4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされ、関連を指摘されている。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。当時の中国との関係を記す現存の文字史料の一つであり、好太王碑とともに4世紀の倭に関する貴重な資料である。
1953年︵昭和28年︶、国宝指定された。所蔵は石上神宮︵石神神社︶。基本的に非公開であるが、稀に公開されることがある。近年では2014年10月18日から12月14日までの日程で開催される奈良県立美術館﹁大古事記展﹂に展示される予定[3]。
銘文
〔表〕
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作 |
また
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 |
〔裏〕
先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世 |
また
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世 |
解釈
銘文についてはこれまで様々な研究がなされてきた。銘文の判読はもちろん、彫られた場所についても﹁表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれた﹂などの説もある。しかし内容は﹁百済王が倭王に贈った﹂との解釈が定説とされ、当時の背景として、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、贈られたとされている。
また、日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀献上に関しては、日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ﹁七子鏡﹂一枚とともに﹁七枝刀﹂一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている(後述)。
年紀の解釈
銘文の冒頭には﹁泰■四年﹂の文字が確認できる。年紀の解釈に関して﹁太和︵泰和︶四年﹂として369年とする説︵福山敏男、浜田耕策ら︶があり、この場合、東晋の太和4年︵369年︶とされる[4]。﹁泰﹂は﹁太﹂と音通するため[4]。
また、﹁泰始四年﹂として判読する説︵管政友、宮崎市定︶がある。この場合は、中国の年号として、西晋の﹁泰始4(268)年﹂または南宋の﹁泰始4(468)年﹂とされる[4]。
ほか、変わった説としては、﹁泰和﹂を百済独自の年号とする判読法もある。1963年、金錫亨は﹁分国論﹂を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで﹁泰和﹂を百済独自の年号とした[5]。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され[6]、また延敏沫は別の文字﹁奉■﹂と判読し、おなじく百済独自の年号とした[4]。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真[7]による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された[4]。﹁泰和﹂を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし[4][8]、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に﹁泰△元年﹂を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない[4]。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない[4]。
太和(泰和)四年での解釈
浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された[4]。
〔表面〕
泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥 <判読> 太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。 |
〔裏面〕
先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世 <判読> 先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。 |
山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じている[9]ことから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったとの解釈を行っている[10][4]。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする[11][4][12]。
浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[4]。
泰始四年での解釈
宮崎市定は「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した[13]。
〔表面〕
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥 <解読> 泰始四年(468年)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16目、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。 |
〔裏面〕
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世 <解読> 先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。 |
『日本書紀』の記述
﹃日本書紀﹄によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王︵しょうこおう、生年未詳 - 214年︶が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王︵ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年︶も日本書記の中に出てくる。
五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啟曰 臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝 乃謂孫枕流王曰 今我所通東海貴國 是天所啟 是以垂天恩 割海西而賜我 由是國基永固 汝當善脩和好 聚斂土物 奉貢不絕 雖死何恨 自是後 每年相續朝貢焉[14]
神功皇后52年は252年とも計算されが、紀年論[15]では干支二巡分︵120年︶年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和︵泰和︶四年︵369年︶と符合する[16][4]。
千熊︵ちくま︶長彦は︵﹃百済記﹄では﹁職麻那那加比跪﹂と表記[16]︶、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦が新羅を責めたとある。
またその二年後の神功皇后49年︵369年[17]︶春3月に、荒田別︵あらたわけ︶や鹿我別︵かがわけ︶ら軍勢を派遣して卓淳国に至り、新羅を討った[18]。さらに百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪︵ささなこ︶らが荒田別らに協力し新羅軍をやぶり、倭・百済連合軍は、比自火本、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある[16][19]。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、久氐らを派遣した[20]。
その後、頻繁に神功皇后52︵372[21]︶年 秋九月丁卯朔丙子︵9月10日︶条に、百済の使である久氐︵くてい︶らが、千熊長彦の引率で来倭し[22]、七枝刀︵ななつさやのたち︶、七子鏡︵ななつこのかがみ︶、および種々の重宝を倭国へ奉った。そして﹃臣︵百済︶の西に河があり、水源は谷那︵こくな︶の鉄山︵かねのむれ︶から出ています。遠く、七日間でも到着できなません。この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝︵ひじりのみかど︶に奉ります﹄と言った[23]。
浜田耕策はこの百済の外交は、倭国と百済が水平的な関係にあったとしたうえで、百済による刀献上外交によって、中国南朝と百済と加耶諸国と倭王の南方外交ラインが形成され、6世紀初頭までこのラインが存続したとしている[4]。
七子鏡とボストン美術館所蔵銅鏡
なお、この時七支刀と同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説がある[24]。この鏡は、丸い突起が同心円上に七つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、1875年︵明治8年︶大雨で崩れた大仙陵古墳︵仁徳天皇陵︶から発掘されたもので、ボストン美術館には銅鏡や環頭大刀などが収蔵された。これらの品は、1908年︵明治41年︶には既に博物館に所蔵された。
●鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。
●刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把︵にぎり、柄︶と環頭︵柄尻︶が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅や任那の古墳から出土している。
宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉天心により、1906年︵明治39年︶に京都で購入された可能性が高く、また、実年代は﹁6世紀の第1四半期を中心とした時期﹂であり、古墳の築造時期とずれがあるとも指摘されている[25]。大仙陵古墳が仁徳天皇の稜である場合、仁徳天皇が没したとされる399年以降に、これらの銅鏡が収蔵されたことになる。
『古事記』中歌謡との関連
なお、吉野裕子は[26]、仁徳天皇と石上神宮との関係について、﹃古事記﹄中巻歌謡48を、皇子時代の仁徳天皇が七支刀を佩用していた様を吉野の国主達が歌ったものと推測している。
本牟多能 比能美古
意富佐邪岐 意富佐邪岐
波加勢流多知 母登都流藝
須惠布由 布由紀能須
加良賀志多紀能 佐夜佐夜[27]
品陀︵ほむた︶の日︵ひ︶の御子︵みこ︶ 大雀︵おおさざき︶ 大雀︵おおさざき︶
佩︵は︶かせる大刀︵たち︶ 本︵もと︶つるぎ 末︵すえ︶ふゆ
ふゆ木︵き︶のすからが下樹︵したき︶のさやさや
なお、石上神宮は、朝廷の武器庫であり、多くの武器を宝蔵したともされる。七支刀もその一つ。
復元制作
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館と奈良県東吉野村の刀匠河内國平の手によって七支刀が復元制作されている。1980年(昭和55年)と2005年(平成17年)の2回製作法を変えて行なわれた。2005年のものは鋳造し890℃の炉、6時間処理したものである。
脚注
(一)^ [1]菅政友(1824年 - 1897年)によって見出され、金象嵌の文字が研ぎ出された。
(二)^ 表に34字、裏に27字、表裏併せて61字あり、読めるもの49字、全く読めないもの4字、後の8字はわずかに残る線画によって推測。
(三)^ “語り継ぐココロとコトバ 大古事記展 五感で味わう、愛と創造の物語”. 奈良県. 2014年10月6日閲覧。
(四)^ abcdefghijklmn浜田耕策﹁4世紀の日韓関係﹂第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年1月閲覧)。釈文については第1章第2節を参照。付録としてpp.58-63.に︿日本における﹁七支刀﹂研究文献目録﹀を掲載。また 九州大学21世紀COEプログラム︵人文科学︶﹁東アジアと日本‥交流と変容﹂HP#第3回﹁東アジア諸国家とその形成過程の比較研究﹂領域横断ゼミ・研究会︵2005/03/29︶#浜田耕策﹁七支刀銘文の語るもの﹂
(五)^ 金錫亨著 朝鮮史研究会編﹃大和政権と任那﹄勁草書房、1969
(六)^ 李丙燾﹃韓国古代史研究―古代史上の諸問題﹄学生社,1980年
(七)^ 村山正雄編﹃石上神宮七支刀銘文図録﹄吉川弘文館、1996年
(八)^ 同14頁
(九)^ ﹁聖音︵又は晋︶や﹁旨﹂の文字を銘記
(十)^ ﹃古代の日朝関係﹄︵塙選書︶1989年
(11)^ ﹃古代の日朝関係﹄︵塙選書︶1989年
(12)^ ほか、福永光司﹃道教と古代日本﹄昭和62年、人文書院。佐伯有清﹃古代史演習 七支刀と広開土王碑﹄1977、吉川弘文館
(13)^ 宮崎市定﹃謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本﹄ 中公文庫 1992年1月。
(14)^ ﹃日本書紀﹄神功皇后摂政五十二年九月の条
(15)^ 倉西裕子 ﹃日本書紀の真実 紀年論を解く﹄ 講談社︿講談社選書メチエ270﹀、2003年5月。
(16)^ abc﹃日本史総合年表﹄第二版、吉川弘文館、2005年
(17)^ 日本書紀紀年論では249年。干支二運さげると369年。岩波文庫﹁日本書紀﹂︵二︶,179頁注釈
(18)^ ﹁以荒田別。鹿我別為将軍。則与久〓︵氏+一︶等共勒兵而度之。至卓淳国。将襲新羅。﹂
(19)^ ﹁因以平定比自〓︵火+本︶。南加羅。喙国。安羅。多羅。卓淳。加羅七国。﹂
(20)^ この出来事を、七支刀にあらわれる東晋の泰和四年︵369年︶に比定する解釈がある。﹁古代天皇はなぜ殺されたのか﹂ 八木荘司 角川書店 ISBN 978-4043828081
(21)^ 日本書紀紀年論では252年。干支二運さげると372年。岩波文庫﹁日本書紀﹂︵二︶,185頁注釈によれば、この箇所は﹁百済記﹂によるとする。
(22)^ 岩波文庫﹁日本書紀﹂︵二︶,184頁訓読
(23)^ ﹁五十二年秋九月 丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啟曰 臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝﹂
(24)^ 徳田誠司﹁米国ボストン美術館所蔵 所謂﹁伝仁徳天皇陵出土品﹂の調査﹂︵﹃書陵部紀要﹄第62号︹陵墓編︺、宮内庁書陵部、2011︶
(25)^ 徳田誠司﹁米国ボストン美術館所蔵 所謂﹁伝仁徳天皇陵出土品﹂の調査﹂︵﹃書陵部紀要﹄第62号︹陵墓編︺、宮内庁書陵部、2011︶
(26)^ ﹃陰陽五行と日本の天皇﹄人文書院、1998年。
(27)^ ﹃古事記﹄http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/kojiki2.html
参考文献
●宮崎市定 ﹃謎の七支刀﹄ 中公新書703、1983年。 ISBN 9784121007032
●吉田晶 ﹃七支刀の謎を解く 四世紀後半の百済と倭﹄ 新日本出版社、2001年。 ISBN 9784406028257
●鈴木勉、河内國平 ﹃復元七支刀-古代東アジアの鉄・象嵌・文字﹄ 雄山閣、2006年。
●浜田耕策﹁4世紀の日韓関係﹂第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年1月閲覧)。
関連項目
フィクション等における七支刀
七支刀は、架空の武器・道具としてフィクション等において登場する。
●PHANTASY STAR ONLINE Blue Burst - クエストで手に入るアギト系の武器として登場
●Sa・Ga2 秘宝伝説 - 埴輪を倒すと稀に落とす武器として登場
●アンバークォーツ - 登場キャラの一人、時國弥夜子が使用する武器として登場
●逆転裁判3 - 倉院の里の秘宝の一つで、証拠品として登場
●神羅万象チョコ - 聖龍王サイガの愛用武器として使用している。以降のシリーズ作品にも度々登場。
●戦国伝承 - 最終ステージのみ登場。闇の君主を封滅するため、女神パミュラが七支刀変身しプレイヤーに力を与える。
●天誅 (ゲーム) - 冥王が封印されるときに手放した、冥府の鍵として登場
●ファイナルファンタジーXI - 特定コンテンツの敵を倒すと稀に落とす両手刀として登場
●風魔の小次郎 - よく似た﹁雷光剣﹂が登場する
●不動明王伝 - 主人公が武器として使用している
●龍が如く 見参! - 武器の一種として登場
●電光超特急ヒカリアン - 登場人物の一人、ライトニング・バスターセブンの武器として登場
●ZIPANG - 1990年制作の日本映画﹃ZIPANG﹄︵じぱんぐ︶に登場。主人公で盗賊の地獄極楽丸が、とある古墳に忍び込み、地面に突き刺してあった黄金剣の七支刀を引き抜いて盗み出す事から物語が展開していく