上田和明
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県八幡浜市 |
生年月日 | 1962年8月23日(61歳) |
身長 体重 |
181 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト1位 |
初出場 | 1985年5月21日 |
最終出場 | 1993年6月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
金 | 1984 | 野球 |
上田 和明︵うえだ かずあき、1962年8月3日 - ︶は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手︵内野手︶。
経歴
愛媛県立八幡浜高等学校を経て慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、4年時の1984年春季リーグ早慶戦で3試合連続ホームランを放ち注目を集める。同年の日米大学野球選手権大会日本代表となり、さらにロサンゼルス五輪野球日本代表︵このときは公開競技︶に選ばれた。リーグ戦通算105試合に出場し374打数88安打、12本塁打、39打点、打率.235。ベストナイン︵遊撃手︶1回。 1984年のドラフト会議で読売ジャイアンツに1位指名され翌1985年入団。[1]1988年にイースタン・リーグ最高出塁率を記録する。1989年には一軍に定着する。6月8日の大洋ホエールズ戦では、チームの勝ちが無くなる寸前の延長12回2アウトから打席に入り勝ち越しとなるプロ初ホームランを打つ[2]。 しかし、体の線が細く、非力な打撃だったためにレギュラーを獲得することはできず、守備・代走要員としての起用が多かった。内野手登録だったが、この年は外野を守る事もあった。1990年にはレギュラーの川相昌弘がスタメンを外れた試合で代わりに多く起用され、主に二番・遊撃手として26試合に先発出場を果たす。同年は、日本シリーズでも安打を放ったが、その後牽制死となって同年の日本シリーズ4連敗を特徴付けるシーンとして挙げられることがある[3]。また同年は捕手にも挑戦している︵公式戦で捕手として出場したことはない︶。その後は出場機会が減り、1993年現役引退。現役時代放った本塁打5本のうち、プロ1号を除いた残りの4本は神宮球場の対ヤクルト戦で放ったものだった。その後も球団に残り用具係、スカウトなどを経て、2001年から2005年まで内野守備・走塁コーチを務めた。 その後フロント入りし、球団運営部査定室主任や編成調査室課長を歴任。2011年3月に二軍育成コーチに就任し、6年ぶりに現場復帰した[4]。同年オフから二軍内野守備走塁コーチ[5]。2012年オフに二軍内野守備走塁コーチを退任し、現在は同球団の査定室長を務めている。 現役時代は出場機会こそ少なかったもののベンチでは盛り上げ役を買って出るなど、ムードメーカーとして当時の巨人には欠かせない存在だった[要出典]。詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1985 | 巨人 | 13 | 12 | 11 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | .182 | .250 | .182 | .432 |
1987 | 5 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
1988 | 5 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1989 | 52 | 81 | 71 | 13 | 13 | 3 | 0 | 1 | 19 | 3 | 4 | 0 | 4 | 0 | 6 | 0 | 0 | 16 | 0 | .183 | .247 | .268 | .514 | |
1990 | 59 | 130 | 110 | 21 | 23 | 5 | 1 | 2 | 36 | 7 | 4 | 4 | 10 | 0 | 8 | 0 | 2 | 21 | 3 | .209 | .275 | .327 | .602 | |
1991 | 22 | 42 | 39 | 9 | 10 | 0 | 0 | 1 | 13 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .256 | .310 | .333 | .643 | |
1992 | 40 | 79 | 67 | 8 | 12 | 1 | 1 | 1 | 18 | 5 | 1 | 0 | 9 | 0 | 2 | 0 | 1 | 13 | 0 | .179 | .214 | .269 | .483 | |
1993 | 7 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:8年 | 203 | 349 | 302 | 54 | 61 | 9 | 2 | 5 | 89 | 18 | 10 | 5 | 24 | 0 | 20 | 0 | 3 | 57 | 4 | .202 | .258 | .295 | .553 |
記録
- 初出場:1985年5月21日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、7回裏に石渡茂に代わり遊撃手として出場
- 初打席:同上、8回表に梶間健一の前に凡退
- 初安打:1985年5月23日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、9回表に鳥原公二から
- 初先発出場:1985年10月18日、対広島東洋カープ26回戦(後楽園球場)、7番・遊撃手として先発出場
- 初打点:1989年4月25日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、10回表に尾花高夫から勝ち越し適時打
- 初本塁打:1989年6月8日、対横浜大洋ホエールズ10回戦(横浜スタジアム)、12回表に欠端光則から左越決勝ソロ
背番号
- 23 (1985年 - 1993年)
- 70 (2001年 - 2005年、2012年)
- 106 (2011年)
脚注
- ^ 【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった
- ^ この当時大洋はこの試合まで5連敗中、しかも対巨人戦に限っては前年から17連敗中という不名誉な記録を更新中であったことから試合の行方に世間からの注目も集まっており、この本塁打もスポーツニュース等で大きく取り上げられ上田の名前も全国区となった(結局大洋の連敗は伸び、次戦となった6月10日の対阪神タイガース戦、対巨人戦も6月20日の次戦でようやく連敗をそれぞれストップさせた)。
- ^ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36568?page=5
- ^ 上田氏が育成コーチ=プロ野球・巨人 時事通信 2011年3月2日
- ^ G・大道育成コーチ「キムタクの遺志引き継ぐ」サンケイスポーツ 2011年11月5日
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)