「北澤楽天」の版間の差分
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→経歴: 1915年 漫画祭に参加 |
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[[1899年]]、楽天は[[今泉一瓢]]の後を継いで[[時事新報]]の漫画記者となり、『支那の粟餅』で初めて時事新報の紙面を飾った。1902年1月からは、同紙の日曜版漫画欄である「'''[[時事漫画]]'''」も手掛けるようになった。時事新報時代の楽天が手掛けた漫画としては、『田吾作と杢兵衛』『灰殻木戸郎の失敗』『茶目と凸坊』などが挙げられる。これらの作品は[[ルドルフ・ダークス|ダークス]]や[[リチャード・F・アウトコールト|アウトコールト]]、[[フレデリック・バー・オッパー|オッパー]]などのアメリカの[[コミックストリップ]]作家の影響を強く受けていた。 |
[[1899年]]、楽天は[[今泉一瓢]]の後を継いで[[時事新報]]の漫画記者となり、『支那の粟餅』で初めて時事新報の紙面を飾った。1902年1月からは、同紙の日曜版漫画欄である「'''[[時事漫画]]'''」も手掛けるようになった。時事新報時代の楽天が手掛けた漫画としては、『田吾作と杢兵衛』『灰殻木戸郎の失敗』『茶目と凸坊』などが挙げられる。これらの作品は[[ルドルフ・ダークス|ダークス]]や[[リチャード・F・アウトコールト|アウトコールト]]、[[フレデリック・バー・オッパー|オッパー]]などのアメリカの[[コミックストリップ]]作家の影響を強く受けていた。 |
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[[ファイル:Tokyo-puck.jpg|thumb|right|alt=北沢楽天による[[東京パック]]の表紙画。|北沢楽天による[[東京パック]]創刊号の表紙画。作中に登場する楽天の代表的な作品の一つ。]] |
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[[1905年]]に、楽天はB4 |
[[1905年]]に、楽天はB4判サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『'''[[東京パック]]'''』(誌名はアメリカの漫画雑誌『[[パック (雑誌)|パック]]』([[w:Puck (magazine)|Puck]])にちなむ。恩師であるナンキベルが編集長をしていた)を創刊した。『東京パック』の漫画キャプションには、日本語の他に英語および中国語が併記されており、日本国内のみならず、[[朝鮮半島]]や[[中国大陸]]、[[台湾]]などのアジア各地でも販売された。同年、楽天は鈴木いのと結婚した。 |
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1912年に楽天は、﹃東京パック﹄を出版する﹁[[便利堂#有楽社|有楽社]]﹂の社主・[[中村弥二郎]]︵中村有楽︶が経営に失敗し版権を手放したことを機に、﹃東京パック﹄を退く。退社後の楽天は、同年に新たな出版社﹁楽天社﹂を創設して﹃楽天パック﹄﹃家庭パック﹄を創刊するが、この雑誌はわずか1年3ヶ月で廃刊を迎え、﹁楽天社﹂も解散した。
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1912年に楽天は、﹃東京パック﹄を出版する﹁[[便利堂#有楽社|有楽社]]﹂の社主・[[中村弥二郎]]︵中村有楽︶が経営に失敗し版権を手放したことを機に、﹃東京パック﹄を退く。退社後の楽天は、同年に新たな出版社﹁楽天社﹂を創設して﹃楽天パック﹄﹃家庭パック﹄を創刊するが、この雑誌はわずか1年3ヶ月で廃刊を迎え、﹁楽天社﹂も解散した。
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『楽天パック』終刊後、楽天は再び『時事新報』を自分の漫画活動の中心に据えるようになった。 |
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1915年5月14日には、新聞漫画家10人で行った第1回漫画祭に参加した<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868-1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=403 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
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⚫ | 1921年、時事新報から『時事漫画』が日本最初の新聞日曜漫画版として独立し、楽天は同紙のカラー漫画欄を手掛けるようになった。『時事漫画』で、楽天は「丁野抜作」「物尾雄蔵」「腰野弁三」「欲野深三」などの様々な風刺的な登場人物が登場する漫画を連載していたが、これらの内で最も特筆すべきキャラクターは、1928年11月4日号から連載された『[[とんだはね子嬢]]』である。この作品は、日本で最初の少女を主人公とした連載漫画であり、現代の少女漫画の原型であるとも考えられている。また、[[クロスワードパズル]]を「十字語判断」の名で紙面に掲載させて一大ブームとなった。しかしながら、この頃から楽天の人気には翳りが見え始めた。[[読売新聞]]が『読売サンデー漫画』、[[東京日日新聞]]が『東日マガジン』、[[報知新聞]]が『日曜報知』を刊行するなど他紙が日曜漫画版に相次ぎ参入したことで『時事漫画』は読者を奪われ始め、1931年7月に『漫画と読物』、1932年5月に『漫画と写真』と改題して誌面の刷新を試みるものの、10月に時事新報の日曜漫画版は終刊となった。そして、その年の末に楽天も時事新報を退社<ref>これまで、「1932年7月に時事新報を退社した」とされてきたが、2021年にさいたま市立漫画会館による経歴の再調査で修正されることになった。</ref>し、事実上第一線から退いた。 |
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楽天は、時事新報退社間際に芝白金の自宅に「楽天漫画スタジオ」を開き、スケッチ教室を通じて後進の育成に乗り出した。退社後の1934年には弟子やスタジオに集った後進のためにスタジオを開放して「[[漫画集団|三光漫画スタジオ]]」と改名されたが、彼らの要請で引き続き指導した。 |
楽天は、時事新報退社間際に芝白金の自宅に「楽天漫画スタジオ」を開き、スケッチ教室を通じて後進の育成に乗り出した。退社後の1934年には弟子やスタジオに集った後進のためにスタジオを開放して「[[漫画集団|三光漫画スタジオ]]」と改名されたが、彼らの要請で引き続き指導した。 |
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[[1929年]]、楽天は[[フランス]]大使の斡旋により、[[パリ]]で個展を開催する。その際、[[教育功労章]]を受章した。楽天はその知名度と漫画界への影響力を買われて、太平洋戦争中には[[日本漫画奉公会]]の会長も務めている。戦況の悪化に伴い、楽天は[[1945年]]に[[宮城県]][[遠田郡]][[田尻町 (宮城県)|田尻町]]︵現・[[宮城県]][[大崎市]]︶に疎開した。
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[[1929年]]、楽天は[[フランス]]大使の斡旋により、[[パリ]]で個展を開催する。その際、[[教育功労章]]︵等級は3等。いわゆる﹁シュヴァリエ﹂となる︶を受章した。楽天はその知名度と漫画界への影響力を買われて、太平洋戦争中には[[日本漫画奉公会]]の会長も務めている。戦況の悪化に伴い、楽天は[[1945年]]に[[宮城県]][[遠田郡]][[田尻町 (宮城県)|田尻町]]︵現・[[宮城県]][[大崎市]]︶に疎開した。
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[[1948年]]、楽天は[[大宮市]]盆栽町に居を構え、新しい自宅を「楽天居」と称した。楽天はここで日本画を描く日々を送った。 |
[[1948年]]、楽天は[[大宮市]]盆栽町に居を構え、新しい自宅を「楽天居」と称した。楽天はここで日本画を描く日々を送った。 |
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[[1955年]]、楽天は[[脳溢血]]のため、自宅で死亡した。その翌年、大宮市の[[名誉市民]]に推挙され、同市の名誉市民第1号となる。彼を記念して、彼の旧宅跡に[[1966年]]、大宮市立漫画会館(現・[[さいたま市立漫画会館]])が設立された。 |
[[1955年]]、楽天は[[脳溢血]]のため、自宅で死亡した。墓所はさいたま市東光寺。その翌年、大宮市の[[名誉市民]]に推挙され、同市の名誉市民第1号となる。彼を記念して、彼の旧宅跡に[[1966年]]、大宮市立漫画会館︵現・[[さいたま市立漫画会館]]︶が設立された。
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== 主要作品 == |
== 主要作品 == |
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* [[紫藤南天]] |
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*[[保積稲天]] |
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*[[益子かつみ]] |
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*[http://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/ さいたま市立漫画会館] |
*[http://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/ さいたま市立漫画会館] |
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*{{マンガ図書館Z作家|524}} |
*{{マンガ図書館Z作家|524}} |
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*[https://www.sankei.com/ |
*[https://www.sankei.com/article/20181126-SFFWYSY5LJKQ5GODRRFYYKVOUE/ 【明治の50冊】(37)北沢楽天『東京パック』 日本の大衆漫画雑誌の原点(産経新聞2018年11月26日記事)] |
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*[https://www.mangatanjo.com/ 映画:「漫画誕生 THE MANGA MASTER」] - 北澤樂天の伝記映画(2019年11月30日公開) |
*[https://www.mangatanjo.com/ 映画:「漫画誕生 THE MANGA MASTER」] - 北澤樂天の伝記映画(2019年11月30日公開) |
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*[https://www.youtube.com/watch?v=L_4muNaguns 映画「漫画誕生」の予告編] |
*[https://www.youtube.com/watch?v=L_4muNaguns 映画「漫画誕生」の予告編] |
2024年3月26日 (火) 10:36時点における最新版
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北澤 楽天 | |
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本名 | 北澤 保次 |
生誕 |
1876年7月20日![]() (現・千代田区駿河台) |
死没 | 1955年8月25日(79歳没) |
国籍 |
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職業 | 漫画家、日本画家 |
活動期間 | 1895年 - 1933年 |
ジャンル | 主に風刺漫画 |
受賞 |
教育功労章 大宮市(現・さいたま市)名誉市民 |
経歴[編集]
1876年︵明治9年︶、楽天は東京市神田区駿河台︵現千代田区駿河台︶に生まれる。北澤家は代々、埼玉の大宮宿で問屋名主、御伝馬役、紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役を務めた名家である。 楽天は洋画を洋画研究所大幸館[3]にて堀江正章から、日本画を父親の保定からそれぞれ学んだ[4]が、楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベル︵Frank Arthur Nankivell︶であった。1895年、横浜の週刊英字新聞﹁ボックス・オブ・キュリオス﹂社に入社した楽天は、同紙の漫画欄を担当していたナンキベルから欧米漫画の技術を学び、ナンキベルが日本を去った後にはその後継者として同紙の漫画を担当するようになった。 1899年、楽天は今泉一瓢の後を継いで時事新報の漫画記者となり、﹃支那の粟餅﹄で初めて時事新報の紙面を飾った。1902年1月からは、同紙の日曜版漫画欄である﹁時事漫画﹂も手掛けるようになった。時事新報時代の楽天が手掛けた漫画としては、﹃田吾作と杢兵衛﹄﹃灰殻木戸郎の失敗﹄﹃茶目と凸坊﹄などが挙げられる。これらの作品はダークスやアウトコールト、オッパーなどのアメリカのコミックストリップ作家の影響を強く受けていた。![北沢楽天による東京パックの表紙画。](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/Tokyo-puck.jpg/220px-Tokyo-puck.jpg)
主要作品[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/94/Tagosaku_to_Mokube_no_Tokyo_Kenbutsu.jpg/200px-Tagosaku_to_Mokube_no_Tokyo_Kenbutsu.jpg)