「国鉄C54形蒸気機関車」の版間の差分
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新造時には、[[青森機関区|青森]]・[[仙台車両センター|仙台]]・[[秋田機関区|秋田]]・[[宇都宮機関区|宇都宮]]・[[高崎車両センター|高崎]]・[[水戸機関区|水戸]]と[[東北本線]]・[[奥羽本線]]系統を中心に担当する[[東日本]]の各機関区と、当時[[北陸本線]]を担当していた西日本の[[梅小路蒸気機関車館|梅小路機関区]]に分散配置され、C51形と共に[[優等列車]]を中心とする運用に充当されたが、前述のような経緯から[[1935年]]︵昭和10年︶以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、[[戦後]]まで[[山陰本線]]・[[福知山線]]・[[播但線]]で使用された。
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新造時には、[[青森機関区|青森]]・[[仙台車両センター|仙台]]・[[秋田機関区|秋田]]・[[宇都宮機関区|宇都宮]]・[[高崎車両センター|高崎]]・[[水戸機関区|水戸]]と[[東北本線]]・[[奥羽本線]]系統を中心に担当する[[東日本]]の各機関区と、当時[[北陸本線]]を担当していた西日本の[[梅小路蒸気機関車館|梅小路機関区]]に分散配置され、C51形と共に[[優等列車]]を中心とする運用に充当されたが、前述のような経緯から[[1935年]]︵昭和10年︶以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、[[戦後]]まで[[山陰本線]]・[[福知山線]]・[[播但線]]で使用された。
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もっとも、ここでも少数配置ゆえの保守の困難さや、国鉄制式蒸機では本機のみに採用された米国流の板式缶胴受が走行中の振動で亀裂を生じやすかったこと、あるいは主台枠の強度不足による亀裂が頻発したことといった構造面での問題などによって早期に[[廃車 (鉄道)|廃車]]対象となり、状態不良で長期[[休車]]を経て[[1948年]]︵昭和23年︶1月28日付で除籍された13号機を皮切りに、[[1950年代]]前半の段階で既に9両が車齢25年を待たずして廃車され、それ以外も福知山[[鉄道管理局]]管内で長期休車状態となっていた。
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もっとも、ここでも少数配置ゆえの保守の困難さや、国鉄[[制式名称|制式]]蒸機では本機のみに採用された米国流の板式缶胴受が走行中の振動で亀裂を生じやすかったこと、あるいは主台枠の強度不足による亀裂が頻発したことといった構造面での問題などによって早期に[[廃車 (鉄道)|廃車]]対象となり、状態不良で長期[[休車]]を経て[[1948年]]︵昭和23年︶1月28日付で除籍された13号機を皮切りに、[[1950年代]]前半の段階で既に半数以上の9両が車齢25年を待たずして廃車され、それ以外も福知山[[鉄道管理局]]管内で長期休車状態となっていた。
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しかし、この時期には未だ本線用[[ディーゼル機関車]]は開発されておらず、全国的に[[旅客列車]]牽引用として軽量級パシフィック機の旺盛な需要が存在した。それゆえ、C55形やC57形、そればかりか老朽化したC51形ですら引く手あまた<ref>[[戦中|戦時中]]の酷使により変形、あるいは毀損したスポーク輪芯を新規製作したボックス輪心に交換する工事を行って延命が図られた車両さえ存在した。</ref>で、このクラスの機関車は慢性的に不足状態を呈していた。福知山区では[[1952年]]、 |
しかし、この時期には未だ本線用[[ディーゼル機関車]]は開発されておらず、全国的に[[旅客列車]]牽引用として軽量級パシフィック機の旺盛な需要が存在した。それゆえ、C55形やC57形、そればかりか老朽化したC51形ですら引く手あまた<ref>[[戦中|戦時中]]の酷使により変形、あるいは毀損したスポーク輪芯を新規製作したボックス輪心に交換する工事を行って延命が図られた車両さえ存在した。</ref>で、このクラスの機関車は慢性的に不足状態を呈していた。福知山区では[[1952年]]、本形式の保守難で代機としてC57形の転配を求めたが、要望が通らず、1953年3月から5月にかけて秋田機関区・横手機関区からの転配で、逆に本形式よりも状態の悪いC51形の153・156・260号機を押し付けられて、ますます運用に窮することになった<ref>今村潔﹁C54形機関車﹂︵﹃鉄道ピクトリアル﹄1961年10月号︵123号︶p27︶による。</ref>。
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そこで、[[1954年]]︵昭和29年︶1月に当時国鉄本社の運転局車務課で機関車運用を決定する立場の総括補佐の地位にあった[[西尾源太郎]]が福知山鉄道管理局長で機関車に精通していた今村一郎と協議し、休車中の本形式各車の中から状態良好車を選出、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で再整備・修繕して運用に充当することが決定された。[[1957年]]までに残っていた8両が順次休車から復活して延命、再び山陰本線・福知山線・播但線で運用されることとなった。これに伴い、[[京都駅]]や[[大阪駅]]にも旅客列車牽引で直通している。1957年復活組の5・6・8・12号機は[[宮津線]]に投入して[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]代替が目論まれたが、同線での試走の結果、レール横圧が大きすぎることから運用を断念、福知山区所属のまま山陰本線で1953年転配組の老朽C51廃車目的で運用された<ref>今村、前文献同頁の記述による。</ref>。
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そこで、[[1954年]]︵昭和29年︶1月に当時国鉄本社の運転局車務課で機関車運用を決定する立場の総括補佐の地位にあった[[西尾源太郎]]が福知山鉄道管理局長で機関車に精通していた今村一郎と協議し、休車中の本形式各車の中から状態良好車を選出、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で再整備・修繕して運用に充当することが決定された。[[1957年]]までに残っていた8両が順次休車から復活して延命、再び山陰本線・福知山線・播但線で運用されることとなった。これに伴い、[[京都駅]]や[[大阪駅]]にも旅客列車牽引で直通している。1957年復活組の5・6・8・12号機は[[宮津線]]に投入して[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]代替が目論まれたが、同線での試走の結果、レール横圧が大きすぎることから運用を断念、福知山区所属のまま山陰本線で1953年転配組の老朽C51形廃車目的で運用された<ref>今村、前文献同頁の記述による。</ref>。
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もっとも、これら8両についても[[1959年]](昭和34年)に播但線で起きた[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故|脱線事故]]で5号機が脱線大破して除籍となり、12号機も[[1960年]](昭和35年)11月15日付で除籍された。さらに残った6両は浜田機関区に転出して山陰本線西部地区で使用されたものの、[[動力近代化計画|無煙化]]の進展で余剰となると状態の良いC51形よりも早く淘汰の対象となり<ref>山陰本線で運用されていたC51形は本形式に遅れること2年、[[1965年]](昭和40年)に[[ディーゼル機関車]]あるいはC57形への置き換えが完了している。</ref>、北陸本線の[[鉄道の電化|電化]]工事が[[金沢駅|金沢]]まで到達した[[1963年]](昭和38年)に、同線配置のC57形が余剰となって浜田機関区へ順次転属となったことなどから、これらと代替される形で同年[[10月3日]]に最後まで残った6・8・10・11・15・17が一斉に廃車されて形式消滅となった。 |
もっとも、これら8両についても[[1959年]](昭和34年)に播但線で起きた[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故|脱線事故]]で5号機が脱線大破して除籍となり、12号機も[[1960年]](昭和35年)11月15日付で除籍された。さらに残った6両は浜田機関区に転出して山陰本線西部地区で使用されたものの、[[動力近代化計画|無煙化]]の進展で余剰となると状態の良いC51形よりも早く淘汰の対象となり<ref>山陰本線で運用されていたC51形は本形式に遅れること2年、[[1965年]](昭和40年)に[[ディーゼル機関車]]あるいはC57形への置き換えが完了している。</ref>、北陸本線の[[鉄道の電化|電化]]工事が[[金沢駅|金沢]]まで到達した[[1963年]](昭和38年)に、同線配置のC57形が余剰となって浜田機関区へ順次転属となったことなどから、これらと代替される形で同年[[10月3日]]に最後まで残った6・8・10・11・15・17が一斉に廃車されて形式消滅となった。 |
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全体の製造両数が17両と少なく、性能面でも芳しくなかったこと、また、全車廃車の時期が1963年︵昭和38年︶と比較的早い時期であったことから、廃車後は全て[[解体]]処分されており、[[保存]]機は皆無である。これは日本国鉄で[[第二次世界大戦]]後まで運用された日本製の新造 |
全体の製造両数が17両と少なく、性能面でも芳しくなかったこと、また、全車廃車の時期が1963年︵昭和38年︶と比較的早い時期であったことから、廃車後は全て[[解体]]処分されており、[[保存]]機は皆無である。これは日本国鉄で[[第二次世界大戦]]後まで運用された日本製の新造制式蒸気機関車形式としては唯一で、現役時ばかりか廃車後までも不遇であった。
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== 保存 == |
2017年3月1日 (水) 11:21時点における版
C54形蒸気機関車 | |
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![]() C5413 | |
基本情報 | |
運用者 | 鉄道省→日本国有鉄道 |
製造所 | 汽車製造、川崎車輛 |
製造年 | 1931年 |
製造数 | 17両 |
引退 | 1963年 |
主要諸元 | |
軸配置 | 2C1 |
軌間 | 1,067 mm |
全長 | 20,375 mm |
全高 | 3,945 mm |
機関車重量 | 65.30 t |
総重量 | 114.30 t |
動輪径 | 1,750 mm |
軸重 | 13.42 t |
シリンダ数 | 単式2気筒 |
シリンダ (直径×行程) | 510 mm × 660 mm |
弁装置 | ワルシャート式 |
ボイラー圧力 | 14.0 kg/cm2 |
大煙管 (直径×長さ×数) | 140 mm×5,500 mm×18本 |
小煙管 (直径×長さ×数) | 57 mm×5,500 mm×84本 |
火格子面積 | 2.53 m2 |
全伝熱面積 | 167.8 m2 |
過熱伝熱面積 | 41.4 m2 |
煙管蒸発伝熱面積 | 115.0 m2 |
火室蒸発伝熱面積 | 11.4 m2 |
燃料 | 石炭 |
制動装置 | 自動空気ブレーキ |
出力 | 1,211 PS |
シリンダ引張力 | 11,680 kg |
粘着引張力 | 10,065 kg |