「嶋田哲也」の版間の差分
表示
2021年9月13日 (月) 11:57まで戻す タグ: 手動差し戻し |
m 「嶋田哲也」を保護しました: IP利用者による問題投稿の繰り返し ([編集=自動承認された利用者のみ許可] (2021年9月14日 (火) 12:03(UTC)で自動的に解除) [移動=自動承認された利用者のみ許可] (2021年9月14日 (火) 12:03(UTC)で自動的に解除)) |
(相違点なし)
|
2021年9月13日 (月) 12:03時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 |
![]() |
出身地 | 山口県山陽小野田市 |
生年月日 | 1967年5月13日(57歳) |
身長 体重 |
183 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト5位 |
初出場 | 1991年8月10日 |
最終出場 | 1996年8月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
来歴・人物
選手時代
中学から野球を始める。柳井商業高から社会人野球の王子製紙米子に進むが、都市対抗野球も未経験であった。
1990年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団。
プロ1年目の1991年から一軍初登板を果たし、1993年にはプロ初勝利を挙げるが、これが最初で最後の勝利であった。同年6月27日、この年優勝したヤクルトを相手に先発すると、新人の伊藤智仁と投げ合って8回1失点と好投するが降板し結局延長15回引き分けとなった。1996年には中継ぎとして自身最多の22試合に登板するが、以降は一軍登板がなく、1998年に自由契約になり現役を引退。
自身の現役引退時の激励会的なパーティーで、招待客の一人で同郷、熱狂的なタイガースファンでもある松村邦洋がスピーチで﹁名球会まであと199勝と迫った中での引退は誠に残念であり……﹂というコメントを述べ、場内は爆笑の渦だったそうである。︵松村とは同じ学年で、松村の中学時代の級友が嶋田と高校でバッテリーを組んでいたという︶
審判時代
引退の翌年1999年にセントラル・リーグの関西審判部に入局。プロ野球審判員となる。審判員袖番号は24︵入局以来、24は1988年初採用から1997年退職まで福井宏がつけていた袖番号である︶。
2008年のクライマックスシリーズ第2ステージに出場し、ポストシーズン初出場を果たした。また、2009年にはオールスターゲームに初出場している。
2014年には、同期入局の深谷篤と共に日本シリーズ︵阪神対ソフトバンク戦︶初出場を果たし、10月28日の第3戦︵ヤフオクドーム︶で球審を務めた[1]。
2017年4月16日、ナゴヤドームで行われた中日対巨人6回戦で二塁塁審を務め、史上126人目の通算1000試合出場を達成した[2]。
2019年4月21日の阪神対巨人6回戦では控え審判として試合に臨んだ。4回表、無死一塁で打者岡本和真がショートゴロを放ち、ショートの木浪聖也は併殺を狙った。しかし、二塁はセーフとなりセカンドの糸原健斗から一塁への送球は反れてボールデッドの箇所に入った。このプレーに対し審判団は走者二三塁で再開しようとしたが控え審判であった嶋田が、﹁規則上一塁走者は得点で打者走者は二塁である﹂と、勇気あるアドバイスをした。この判定が2019年のファインジャッジ賞に選定された[3]。しかし、クリスチャン・ビヤヌエバがセーフをアピールした際に両手を横に広げ、糸原の送球を妨げたとして、ネット上では疑問に思う声が多かった。
2021年シーズンより、サブクルーチーフに昇格。
選手としての特徴
スリークォーターからの力強いストレートを武器としたが、制球に苦しむタイプであった。一例として、1996年6月29日のヤクルトスワローズ戦で古田敦也に対して死球すれすれの胸元を抉るビーンボールを4球続けたために古田が激怒、山田勝彦捕手とのもみ合いから両チームの選手が入り乱れての大乱闘騒ぎに発展したことがある。また乱闘の際ヤクルトのコーチ八重樫幸雄と掴み合いになってしまうなどエキサイトしていた(退場にはなっていない)。この試合では、後に嶋田の上司となる田中俊幸三塁塁審(責任審判)が、場内説明で「スワローズ」と言うべきところを「アトムズ」と言ってしまい、当時の川島廣守セ・リーグ会長までが処分を受けた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 阪神 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 4.0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.75 |
1993 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 172 | 39.0 | 37 | 6 | 19 | 2 | 2 | 28 | 1 | 0 | 21 | 20 | 4.62 | 1.44 | |
1996 | 22 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 138 | 29.1 | 35 | 1 | 7 | 0 | 4 | 15 | 0 | 0 | 18 | 12 | 3.68 | 1.43 | |
通算:3年 | 37 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 324 | 72.1 | 74 | 7 | 27 | 2 | 6 | 45 | 1 | 0 | 39 | 32 | 3.98 | 1.40 |
記録
- 初登板:1991年8月10日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、8回裏に4番手で登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:1991年9月3日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)
- 初先発登板:1993年6月19日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、4回2/3、1失点で勝敗つかず
- 初勝利:1993年7月29日、対広島東洋カープ16回戦(甲子園球場)、5回1失点
背番号
- 45 (1991年 - 1998年)
審判出場記録
●初出場‥2002年4月29日、阪神対中日4回戦︵甲子園球場︶、一塁塁審。
●出場試合数‥1363試合︵セ・リーグ772、パ・リーグ351、交流戦180、日本シリーズ13、オールスター4、クライマックスシリーズ38、アジアシリーズ5︶
●オールスター出場‥2回︵2009年、2016年︶
●日本シリーズ出場‥3回︵2014年、2016年、2020年︶
︵記録は2020年シーズン終了時︶[4]
表彰
- ウエスタン・リーグ優秀審判員:1回 (2003年)
- セントラル・リーグ審判員奨励賞:1回(2010年)
- ファインジャッジ賞:1回 (2019年)
脚注
- ^ 2014年度 SMBC日本シリーズ 試合結果(第3戦) - 日本野球機構公式サイト(2014年10月29日閲覧)
- ^ 嶋田哲也審判員 1000試合出場達成のお知らせ - NPBニュース(日本野球機構公式サイト)、2017年4月16日
- ^ ファインジャッジ賞 受賞について 日本野球機構オフィシャルサイト(2020年06月09日閲覧)
- ^ 2019年度 審判員・記録員 嶋田哲也
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 嶋田哲也 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- NPB審判員 嶋田哲也 - NPB.jp 日本野球機構