意味がなければスイングはない
表示
﹃意味がなければスイングはない﹄︵いみがなければすいんぐはない︶は、村上春樹の音楽評論集。
2005年11月、文藝春秋より刊行された。季刊オーディオ専門誌﹃Stereo Sound﹄︵株式会社ステレオサウンド︶に連載された評論をまとめたものである。表紙の絵は、﹁The Back Guild﹂シリーズのイラスト︵SHERIDAN SQUARE RECORD社︶。2008年12月、文春文庫として文庫化された。
タイトルは、デューク・エリントンの作品﹁スイングがなければ意味はない︵It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing︶﹂に由来する。あとがきで村上は﹁ただの言葉遊びでこのタイトルをつけたわけではない﹂﹁この場合の﹃スイング﹄とは、どんな音楽にも通じるグルーヴ、あるいはうねりのようなものと考えていただいていい﹂と述べている。
内容
シダー・ウォルトン――強靱な文体を持ったマイナー・ポエト ﹃Stereo Sound﹄2003年春号に掲載。 ブライアン・ウィルソン――南カリフォルニア神話の喪失と再生 ﹃Stereo Sound﹄2003年夏号に掲載。ザ・ビーチ・ボーイズが1970年代はじめに発表した2枚のアルバム﹃サンフラワー﹄と﹃サーフズ・アップ﹄に、多くのページが割かれている[注 1]。 シューベルト﹁ピアノソナタ第十七番二長調﹂D850――ソフトな混沌の今日性 ﹃Stereo Sound﹄2003年秋号に掲載。﹁シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第十七番二長調D850である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見当たらない﹂と村上は述べている[注 2]。 スタン・ゲッツの闇の時代 1953-54 ﹃Stereo Sound﹄2003年冬号に掲載。ジョン・コルトレーンがあるときスタン・ゲッツの演奏を聴いて言ったという言葉が紹介されている。﹁もし我々が彼のように吹けるものなら、一人残らず彼のように吹いているだろうな﹂とコルトレーンは言ったという[2]。 ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ ﹃Stereo Sound﹄2004年春号に掲載。 ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト ﹃Stereo Sound﹄2004年夏号に掲載。 ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ︵どのように︶退屈なのか? ﹃Stereo Sound﹄2004年秋号に掲載。﹁僕はキース・ジャレットの音楽の胡散臭さ[注 3]よりは、ウィントン・マルサリスの音楽の退屈さの方を、ずっと好ましく思っている。そして同じ退屈さでも、チック・コリアの音楽の退屈さよりは、こちらの方がよほど筋がいいと感じている﹂と村上は述べている[4]。 スガシカオの柔らかなカオス ﹃Stereo Sound﹄2004年冬号に掲載。 日曜日の朝のフランシス・プーランク ﹃Stereo Sound﹄2005年春号に掲載。 国民詩人としてのウディー・ガスリー ﹃Stereo Sound﹄2005年夏号に掲載。脚注
注釈
(一)^ 村上は﹃村上ソングズ﹄︵中央公論新社、2007年12月︶において、﹃サーフズ・アップ﹄に収録されたブルース・ジョンストン作の "Disney Girls (1957)" の歌詞を訳している。
(二)^ ﹃海辺のカフカ﹄の登場人物の一人はこの曲をかけながらこう話す。﹁シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ﹂[1]
(三)^ 村上はエッセイ集﹃やがて哀しき外国語﹄の中でこう述べている。﹁キース・ジャレットたち六〇年代の世代にとっては、音楽というのは戦い取るものだった。︵中略︶ 僕は正直に言って、キース・ジャレットという演奏家の﹃創造性﹄をあまり高くは評価しない人間だけれど、それでもそこに﹃創造性﹄への希求があったことを認めるのにやぶさかではない﹂[3]