「神谷太刀宮神社」の版間の差分
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|名称 = 神谷太刀宮神社 |
|名称 = 神谷太刀宮神社 |
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|画像 = [[File:Kamitani shrine, Kumihama, Kyotango 2019-08-12(1) sa.jpg||280px]]<br />神谷神社境内 |
|画像 = [[File:Kamitani shrine, Kumihama, Kyotango 2019-08-12(1) sa.jpg||280px]]<br />神谷神社境内 |
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|所在地 = [[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]小谷<ref name="京都の社寺建築212p" |
|所在地 = [[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]小谷<ref name="京都の社寺建築212p"/> |
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|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|14|N|134|53|31|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=神社}} |
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|祭神 = [[八千矛神]](神谷神社)<br />[[丹波道主命]](太刀宮) |
|祭神 = [[八千矛神]](神谷神社)<br />[[丹波道主命]](太刀宮) |
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'''神谷太刀宮神社'''(かみたにたちのみやじんじゃ)は、[[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]の南西部にある[[神社]]。 |
'''神谷太刀宮神社'''(かみたにたちのみやじんじゃ)は、[[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]の南西部にある[[神社]]。 |
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もともとは別の由来をもつ'''神谷神社'''と'''太刀宮神社'''が合祀された2社一体の神社で、江戸時代までは﹁太刀宮︵たちのみや︶﹂と呼ばれ、明治期には久美浜地域の郷社として崇敬を集めた<ref name="京都の社寺建築212p"/>。久美浜一区の氏神であり、21世紀においても﹁太刀宮﹂の通称で親しまれる<ref name="京丹後市F58"/>。秋の例祭は丹後地方を代表する祭礼のひとつに数えられる<ref name="熊野郡誌231p">{{ |
もともとは別の由来をもつ'''神谷神社'''と'''太刀宮神社'''が合祀された2社一体の神社で、江戸時代までは﹁太刀宮︵たちのみや︶﹂と呼ばれ、明治期には久美浜地域の郷社として崇敬を集めた<ref name="京都の社寺建築212p">{{Harvnb|京都の社寺建築|1984|p=212}}</ref>。久美浜一区の氏神であり、21世紀においても﹁太刀宮﹂の通称で親しまれる<ref name="京丹後市F58"/>。秋の例祭は丹後地方を代表する祭礼のひとつに数えられる<ref name="熊野郡誌231p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=231}}</ref>。
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神谷神社は、[[熊野郡]]に11座あった[[式内社]]のひとつ﹁神谷神社︵かみたにのじんじゃ︶﹂とされるが、この式内社が神谷太刀宮神社として太刀宮をも含むのか、神谷神社のみを対象としたのかは定かではない<ref>{{ |
神谷神社は、[[熊野郡]]に11座あった[[式内社]]のひとつ﹁神谷神社︵かみたにのじんじゃ︶﹂とされるが、この式内社が神谷太刀宮神社として太刀宮をも含むのか、神谷神社のみを対象としたのかは定かではない<ref>{{Harvnb|久美浜町誌|1975|p=69}}</ref><ref name="京丹後デジタル,神谷本殿">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3404.html |title=神谷︵かみたに︶神社本殿︵府指定文化財︶ |publisher =京丹後市 |accessdate=2020-12-08}}</ref>。太刀宮は、全国で唯一[[丹波道主命]]を主祭神とし<ref>{{Harvnb|くみはま WAN ONE ガイド|2019|p=9}}</ref>、御神体として祀る丹波道主命の佩刀﹁国見の剣︵くにみのつるぎ︶﹂は諸説ある﹁[[久美浜]]﹂の地名由来のひとつである<ref name=":0">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|pp=298-299}}</ref>。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[File:Kamitani-tachinomiya 磐座.jpg|thumb|left|『鬼滅の刃』の主人公を真似て磐座でポーズをとる観光客(2020年12月)]] |
[[File:Kamitani-tachinomiya 磐座.jpg|thumb|left|『鬼滅の刃』の主人公を真似て磐座でポーズをとる観光客(2020年12月)]] |
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丹後地方の古代史に深く関係する[[丹波道主命]]縁の神社である。[[丹波道主命]]の佩刀﹁国見の剣﹂を御神体とすることから、刀にまつわる伝承や寄進が多く残り、2020年︵令和2年︶に﹃[[鬼滅の刃]]﹄が大ヒットした折には、境内の磐座が﹃鬼滅の刃﹄主人公の炭治郎が修行で斬っていた岩に似ているとして、そのシーンを真似る観光客の急増を受け<ref name="読売20201206">{{Cite news |title=まるで﹁鬼滅﹂炭治郎が切った岩…﹁なりきれる﹂全国からファン |
丹後地方の古代史に深く関係する[[丹波道主命]]縁の神社である。[[丹波道主命]]の佩刀﹁国見の剣﹂を御神体とすることから、刀にまつわる伝承や寄進が多く残り、2020年︵令和2年︶に﹃[[鬼滅の刃]]﹄が大ヒットした折には、境内の磐座が﹃鬼滅の刃﹄主人公の炭治郎が修行で斬っていた岩に似ているとして、そのシーンを真似る観光客の急増を受け<ref name="読売20201206">{{Cite news|和書 |title=まるで﹁鬼滅﹂炭治郎が切った岩…﹁なりきれる﹂全国からファン |newspaper=[[読売新聞]] |date=2020-12-6 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20201206-OYT1T50091/ |accessdate=2020-12-7}}</ref><ref name="京都新聞202012002">{{Cite news|和書 |title=﹁鬼滅の刃﹂のあの岩にそっくり! 京都の北部にもあった、宝剣祭る神社に |newspaper=[[まいどなニュース]] |date=2020-12-2 |url=https://maidonanews.jp/article/13979296/ |accessdate=2023-2-28 |last=天草 |first=愛理}}</ref><ref name="産経20201203">{{Cite news|和書 |title=﹁鬼滅の刃﹂の岩が話題に 京丹後市の神谷神社 |newspaper=[[産経WEST]] |date=2020-12-3 |author=田中幸美 |url=https://www.sankei.com/article/20201203-GL5W4YKD7VKDPBYZ3V7TX763ZA/ |accessdate=2023-2-28}}</ref>、磐座保存会が結成された<ref>{{Cite news|和書 |title=﹁鬼滅の刃﹂の岩、京丹後に? 聖地化目指して保存会 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2020-12-9 |author=横山健彦 |url=https://www.asahi.com/articles/ASND874S8ND8PLZB007.html |accessdate=2020-12-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://note.com/naninunenucky/n/ncce848c72bc4 |title=神谷太刀宮の磐座(いわくら)を守るための協力者募集 |publisher =久美浜一区自治会 |accessdate=2020-12-07}}</ref>。
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もともとは太刀宮と神谷神社は別にあったが、久美浜町神谷(かんだに)の山林にあった神谷神社の倒壊に伴い、市中にあった太刀宮に合祀された<ref name="熊野郡誌231p"/>。式内社としては「神谷神社」の名で記録されるが、江戸時代まで呼称及び様々な古文書における通称は「太刀宮」であり、21世紀においても地元では「太刀宮」の愛称で親しまれる。久美浜一区の氏神であり、[[喧嘩祭り]]の流れを汲む秋の例祭は、京丹後市を代表する祭りの1つに数えられる。 |
もともとは太刀宮と神谷神社は別にあったが、久美浜町神谷(かんだに)の山林にあった神谷神社の倒壊に伴い、市中にあった太刀宮に合祀された<ref name="熊野郡誌231p"/>。式内社としては「神谷神社」の名で記録されるが、江戸時代まで呼称及び様々な古文書における通称は「太刀宮」であり、21世紀においても地元では「太刀宮」の愛称で親しまれる。久美浜一区の氏神であり、[[喧嘩祭り]]の流れを汲む秋の例祭は、京丹後市を代表する祭りの1つに数えられる。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[File:Kamitani-tachinomiya 参道.jpg|thumb|江戸時代から変わらない道筋の参道。正面に八幡神社および磐座、鳥居手前の右に神谷神社が位置する。]]
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[[File:Kamitani-tachinomiya 参道.jpg|thumb|江戸時代から変わらない道筋の参道。正面に八幡神社および磐座、鳥居手前の右に神谷神社が位置する。]]
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﹁神谷神社﹂の創建は伝承に拠れば第10代[[崇神天皇]]の時代に遡る。地方平定を命ぜられた[[丹波道主命]]が[[山陰道]]を巡察した際に、前途洋々たることを祈願して[[出雲国]]から八千矛神︵[[大国主命]]︶を招き祀ったのが始まりとされる<ref name="熊野郡誌231p"/>。当初の遷座地は久美浜町小字神谷︵かんだに︶の山林の中に開けた平坦地であった<ref name="熊野郡誌231p"/>。この古地は﹁神谷明神谷﹂と呼ばれ、この地に残る﹁旗指神社︵はたさしじんじゃ︶﹂は、太刀宮の旗持ちであったという<ref name="京都府大事典府域編150p">{{ |
﹁神谷神社﹂の創建は伝承に拠れば第10代[[崇神天皇]]の時代に遡る。地方平定を命ぜられた[[丹波道主命]]が[[山陰道]]を巡察した際に、前途洋々たることを祈願して[[出雲国]]から八千矛神︵[[大国主命]]︶を招き祀ったのが始まりとされる<ref name="熊野郡誌231p"/>。当初の遷座地は久美浜町小字神谷︵かんだに︶の山林の中に開けた平坦地であった<ref name="熊野郡誌231p"/>。この古地は﹁神谷明神谷﹂と呼ばれ、この地に残る﹁旗指神社︵はたさしじんじゃ︶﹂は、太刀宮の旗持ちであったという<ref name="京都府大事典府域編150p">{{Harvnb|京都大事典|1994|p=150}}</ref>。神谷神社は後に現在地、久美浜町小字小谷の太刀宮に合祀したことによって場所を移したが、毎年の例祭では神谷地区から大幟を立てる風習が残る<ref name="熊野郡誌231p"/>。
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山陰道巡察を終えた丹波道主命は、その後、久美浜町小字川上の須田に屋敷跡が残る豪族の娘、[[丹後七姫|京丹後七姫]]のひとりにも数えられる[[川上摩須郎女]]を妻とし、その娘[[日葉酢媛命|日葉酢比売]]ら5人を[[垂仁天皇]]に嫁がせて権勢をふるった、久美浜に縁の深い人物である<ref>{{ |
山陰道巡察を終えた丹波道主命は、その後、久美浜町小字川上の須田に屋敷跡が残る豪族の娘、[[丹後七姫|京丹後七姫]]のひとりにも数えられる[[川上摩須郎女]]を妻とし、その娘[[日葉酢媛命|日葉酢比売]]ら5人を[[垂仁天皇]]に嫁がせて権勢をふるった、久美浜に縁の深い人物である<ref>{{Harvnb|久美浜町誌|1975|p=55}}</ref>。丹波道主命は垂仁天皇の代に死去したが、追慕する人々が久美の地に神社を創建して祀り、丹波道主命の佩刀であった﹁国見の剣﹂を神霊とみなした。この神社を﹁太刀宮﹂という<ref name="熊野郡誌298p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=298}}</ref>。[[久美浜]]の地名の由来は諸説あるが、一説に久美の字は古来は国見とも表記し、この丹波道主命の佩刀﹁国見の剣﹂に由来するという論がある<ref name=":0" />。
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このとおり、神谷神社と太刀宮神社は元々まったく別々の神社であったところ、後に︵﹃熊野郡誌﹄によれば1千年後に︶神谷神社が歳月で大破したことを受けて、太刀宮に合祀された。以来、神社は﹁神谷太刀宮神社﹂となり、神社の扁額や祭器には﹁神谷太刀宮﹂と記されている<ref name="熊野郡誌299p"/>。合祀に際し﹁神谷﹂の名を先とし﹁太刀宮﹂を後 |
このとおり、神谷神社と太刀宮神社は元々まったく別々の神社であったところ、後に︵﹃熊野郡誌﹄によれば1千年後に︶神谷神社が歳月で大破したことを受けて、太刀宮に合祀された。以来、神社は﹁神谷太刀宮神社﹂となり、神社の扁額や祭器には﹁神谷太刀宮﹂と記されている<ref name="熊野郡誌299p"/>。合祀に際し﹁神谷﹂の名を先とし﹁太刀宮﹂を後とした理由は、丹波道主命の勧請によって[[八千矛神]]が祀られた経緯を尊重し、丹波道主命を祀った﹁太刀宮﹂を別号としたものだが、一般には﹁神谷太刀宮﹂あるいは単に﹁太刀宮﹂と呼ぶ風習が引き継がれている<ref name="熊野郡伝説史33p" />。古文書類においても﹁太刀宮﹂と記されるのが通例であるが<ref name="熊野郡誌299p" />、[[延喜式神名帳]]には﹁神谷神社(かむたにのじんじゃ)﹂と記載される<ref name="熊野郡誌300p" />。合祀の時期はこれより以前であるため<ref name="熊野郡誌299p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=299}}</ref>、太刀宮は記載されなかったと考えられている<ref>{{Harvnb|熊野郡伝説史|2000|p=30}}</ref>。
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神谷太刀宮神社に関連する記録は『神祇志』『神祇志料』はじめ10以上の古文書に残り、年月日の明らかなものでは1596年(文禄5年)9月7日の佐渡守康之(城主の[[松井康之]])から田地を寄進されたことに関する文書<ref name="京丹後デジタル,神谷本殿"/>、1603年(慶長8年)8月20日の内匠助正重による太刀宮社領に関する文書などが残る。 |
神谷太刀宮神社に関連する記録は『神祇志』『神祇志料』はじめ10以上の古文書に残り、年月日の明らかなものでは1596年(文禄5年)9月7日の佐渡守康之(城主の[[松井康之]])から田地を寄進されたことに関する文書<ref name="京丹後デジタル,神谷本殿"/>、1603年(慶長8年)8月20日の内匠助正重による太刀宮社領に関する文書などが残る。 |
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古来から人々の崇敬を集め、﹃熊野郡誌﹄には正四位伊豫守加茂直兄︵松田直兄︶の﹁''千早ふる 神代なからの 神谷は うへこそくしく あやしかりけり''﹂や﹁''山なせる いはほの上に 五百枝さし そひえて雲を 凌く眞賢木''﹂など、神谷太刀宮神社を詠んだ7編の和歌が記録されている<ref name="熊野郡誌303p">{{ |
古来から人々の崇敬を集め、﹃熊野郡誌﹄には正四位伊豫守加茂直兄︵松田直兄︶の﹁''千早ふる 神代なからの 神谷は うへこそくしく あやしかりけり''﹂や﹁''山なせる いはほの上に 五百枝さし そひえて雲を 凌く眞賢木''﹂など、神谷太刀宮神社を詠んだ7編の和歌が記録されている<ref name="熊野郡誌303p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=303}}</ref>。
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1781年(天明元年)に本殿を再建したが、その折には1770年(明和7年)から久美浜町中の人々から毎月1銭を積み立て、神主宅に集まった氏子らの立ち合い評議のもと神宮のおみくじで「見附一丈一尺向作唐破風」の宮作とすることを決定した<ref name="京都の社寺建築212p"/>。 |
1781年(天明元年)に本殿を再建したが、その折には1770年(明和7年)から久美浜町中の人々から毎月1銭を積み立て、神主宅に集まった氏子らの立ち合い評議のもと神宮のおみくじで「見附一丈一尺向作唐破風」の宮作とすることを決定した<ref name="京都の社寺建築212p"/>。 |
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1873年︵明治6年︶、郷社に列せられる<ref name="熊野郡誌300p">{{ |
1873年︵明治6年︶、郷社に列せられる<ref name="熊野郡誌300p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=300}}</ref>。1902年︵明治35年︶10月には、境内の八幡山麓に神谷神社碑が建設された<ref name="熊野郡誌304-305p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|pp=304-305}}</ref>。
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== 祭神 == |
== 祭神 == |
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=== 社殿 === |
=== 社殿 === |
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[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (5).jpg|thumb|神谷神社本殿(府指定文化財)]] |
[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (5).jpg|thumb|神谷神社本殿(府指定文化財)]] |
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* 神谷神社本殿 - (本項「文化財」節で詳説) |
* 神谷神社本殿 - (本項「[[#文化財|文化財]]」節で詳説) |
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*: 現存する本殿は、1781年︵天明元年︶に再建された<ref name="熊野郡誌300p"/>。建坪9坪3合但6尺5寸計<ref name="熊野郡誌304p">{{ |
*: 現存する本殿は、1781年(天明元年)に再建された<ref name="熊野郡誌300p"/>。建坪9坪3合但6尺5寸計<ref name="熊野郡誌304p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=304}}</ref>。 |
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* 祝詞殿 - 切妻造[[ヒノキ|檜]]材向欄付、檜皮葺。建坪は6[[坪]]1号9[[勺]] |
* 祝詞殿 - 切妻造[[ヒノキ|檜]]材向欄付、檜皮葺。建坪は6[[坪]]1号9[[勺]]<ref name="熊野郡誌304p"/>。 |
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* 中門兼拝殿 - 切妻造[[ケヤキ|欅]]材、檜皮葺。建坪は2坪5号8勺 |
* 中門兼拝殿 - 切妻造[[ケヤキ|欅]]材、檜皮葺。建坪は2坪5号8勺<ref name="熊野郡誌304p"/>。 |
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* 舞殿 - 梁行2間、桁行6間 |
* 舞殿 - 梁行2間、桁行6間<ref name="熊野郡誌304p"/>。 |
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* 假殿 - 梁行1間、桁行1間半 |
* 假殿 - 梁行1間、桁行1間半<ref name="熊野郡誌304p"/>。 |
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* 神庫 - 梁行1間半、桁行2間 |
* 神庫 - 梁行1間半、桁行2間<ref name="熊野郡誌304p"/>。 |
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=== 境内社 === |
=== 境内社 === |
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大正時代末期の文献と、2020年(令和2年)現在の現地案内板とで、境内社の名称にはいくつかの差異がみられるため、併記する。 |
大正時代末期の文献と、2020年(令和2年)現在の現地案内板とで、境内社の名称にはいくつかの差異がみられるため、併記する。 |
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; 1.『京都府熊野郡誌(全)』(大正12年刊行)の記録に残る境内社。 |
; 1.『京都府熊野郡誌(全)』(大正12年刊行)の記録に残る境内社。 |
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* 寒川神社 - 古くは久美浜の氏神とされた。祭神は[[応神天皇]] |
* 寒川神社 - 古くは久美浜の氏神とされた。祭神は[[応神天皇]]<ref name="熊野郡誌305p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=305}}</ref>。 |
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* 川裾神社 - この神社そのものの由緒は不明だが、1886年(明治19年︶に無格の3社を合祀した。祭神は[[瀬織津姫命]] |
* 川裾神社 - この神社そのものの由緒は不明だが、1886年(明治19年︶に無格の3社を合祀した。祭神は[[瀬織津姫命]]<ref name="熊野郡誌306p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=306}}</ref>。
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* 蛭見神社 - 祭神は[[事代主命]]と[[大巳貴命]]。境内にあった有名な松の古木の近くにあったが、1885年(明治18年)に暴風によって松が倒れ、以後は松の古株の上に安置する。倒木が社殿を避けるように一切損傷しなかった奇蹟を後世に伝えるべく残る<ref name="熊野郡誌306p"/>。 |
* 蛭見神社 - 祭神は[[事代主命]]と[[大巳貴命]]。境内にあった有名な松の古木の近くにあったが、1885年(明治18年)に暴風によって松が倒れ、以後は松の古株の上に安置する。倒木が社殿を避けるように一切損傷しなかった奇蹟を後世に伝えるべく残る<ref name="熊野郡誌306p"/>。 |
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* 稲荷神社 - 祭神は[[保食大神]]。もともとは別の場所にあったが、明治維新後に移転し、神谷神社境内の一端に祀られていた猿田彦神社とともに安置された |
* 稲荷神社 - 祭神は[[保食大神]]。もともとは別の場所にあったが、明治維新後に移転し、神谷神社境内の一端に祀られていた猿田彦神社とともに安置された<ref name="熊野郡誌306p"/>。 |
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;2. 2020年時点で現地に建てられている案内図に記された境内社。 |
;2. 2020年時点で現地に建てられている案内図に記された境内社。 |
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* 神谷神社側(市道より東)の境内 |
* 神谷神社側(市道より東)の境内 |
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* 八幡山側(市道より西)の境内 |
* 八幡山側(市道より西)の境内 |
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** 八幡神社(八幡宮)本殿 |
** 八幡神社(八幡宮)本殿 |
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**: 祭神は[[応神天皇]]・[[神功皇后]]。[[久美浜代官所]]代官にとくに崇敬され、祭礼では代官所にも神輿が渡御した<ref name="熊野郡誌313p">{{ |
**: 祭神は[[応神天皇]]・[[神功皇后]]。[[久美浜代官所]]代官にとくに崇敬され、祭礼では代官所にも神輿が渡御した<ref name="熊野郡誌313p">{{Harvnb|熊野郡誌|1923|p=313}}</ref>。府登録文化財︵本項﹁[[#文化財|文化財]]﹂節で詳説︶。
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** 厳島神社・弁天神社 |
** 厳島神社・弁天神社 |
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** 秋葉神社 |
** 秋葉神社 |
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=== 参考館 === |
=== 参考館 === |
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[[File:Kumihama Kamitani jinja Sankokan 2019-05 ac.jpg|thumb|参考館(京都府指定文化財)]] |
[[File:Kumihama Kamitani jinja Sankokan 2019-05 ac.jpg|thumb|参考館(京都府指定文化財)]] |
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参考館は、1870年(明治3年)に建造された旧[[久美浜県]]の県庁舎の一部分、具体的には玄関棟にあたる部分を、1923年(大正12年)に譲り受け、神谷神社境内に移築したものである<ref name="京丹後デジタル,参考館">{{Cite web |
参考館は、1870年(明治3年)に建造された旧[[久美浜県]]の県庁舎の一部分、具体的には玄関棟にあたる部分を、1923年(大正12年)に譲り受け、神谷神社境内に移築したものである<ref name="京丹後デジタル,参考館">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3415.html |title=参考館 (旧久美浜県庁舎御玄関棟) |publisher =京丹後市 |accessdate=2020-12-08}}</ref>。神谷太刀宮神社の神職である佐治氏は、現存する最古の記録で706年(慶雲3年)には神職として神谷太刀宮神社に代々奉務し、『京都府熊野郡誌(全)』の編纂主任にも名を連ねる<ref name="熊野郡誌306p"/>。当初は「太刀宮考古館」と呼ばれた「参考館」の建造は、郷土にまつわる古文書や古器物など歴史的な史料を蒐集し、郷土研究に役立てることを目的とされた<ref name="熊野郡誌304p"/>。後に、社務所、祈祷所と位置付けられるが、2020年(令和2年)現在は老朽化により立ち入りは制限されている。 |
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京都府指定文化財となっている。(本項「文化財」節で詳述) |
京都府指定文化財となっている。(本項「文化財」節で詳述) |
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参道の正面、大正期以前に敷設された市道によって境内が分断された神谷神社本殿の左方の八幡山山麓に、末社の八幡神社の本殿があり、その左方に複数の巨岩が地中から生えるようにむきだしになった磐座がある<ref name="京丹後市F58"/>。八幡神社側の境内坪数は大正時代末期の時点で983坪である<ref name="熊野郡誌313p"/>。 |
参道の正面、大正期以前に敷設された市道によって境内が分断された神谷神社本殿の左方の八幡山山麓に、末社の八幡神社の本殿があり、その左方に複数の巨岩が地中から生えるようにむきだしになった磐座がある<ref name="京丹後市F58"/>。八幡神社側の境内坪数は大正時代末期の時点で983坪である<ref name="熊野郡誌313p"/>。 |
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この山麓一帯は、シイやカシ等の常緑広葉樹林で構成され、なかでもシイの自然林は貴重なものとして﹁神谷神社文化財環境保全地区﹂に指定された<ref name="京丹後市F58"/>。1985年︵昭60年︶5月15日に﹁京都府文化財環境保全地区﹂となっている<ref name="京丹後市F58">{{Cite web |
この山麓一帯は、シイやカシ等の常緑広葉樹林で構成され、なかでもシイの自然林は貴重なものとして﹁神谷神社文化財環境保全地区﹂に指定された<ref name="京丹後市F58"/>。1985年︵昭60年︶5月15日に﹁京都府文化財環境保全地区﹂となっている<ref name="京丹後市F58">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3456.html |title=デジタルミュージアムF58神谷神社環境保全地区 |publisher =京丹後市 |accessdate=2020-12-08}}</ref><ref name="京都府大事典府域編150p" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/sd/sd027.html |title=京都府内の文化財環境保全地区 |publisher =京都府 |accessdate=2020-12-08}}</ref>。
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=== 磐座 === |
=== 磐座 === |
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{{Double image aside|right|Kumihama Kamitani jinja Iwakura 2019-05 ac (1).jpg|200|Kamitani-tachinomiya磐座.jpg|180|神谷磐座の巨岩|巨岩の南北の透き間}} |
{{Double image aside|right|Kumihama Kamitani jinja Iwakura 2019-05 ac (1).jpg|200|Kamitani-tachinomiya磐座.jpg|180|神谷磐座の巨岩|巨岩の南北の透き間}} |
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'''神谷磐座'''︵かみたにいわくら︶は、神谷神社本殿に近接する八幡山麓にあるいくつかの巨岩の集まりである。もっとも大きい岩が、高さ約5メートル、周径10メートル以上あり、古来より清浄の地として[[注連縄]]をかけて祀る<ref name="熊野郡伝説史33p">{{ |
'''神谷磐座'''︵かみたにいわくら︶は、神谷神社本殿に近接する八幡山麓にあるいくつかの巨岩の集まりである。もっとも大きい岩が、高さ約5メートル、周径10メートル以上あり、古来より清浄の地として[[注連縄]]をかけて祀る<ref name="熊野郡伝説史33p">{{Harvnb|熊野郡伝説史|2000|p=31}}</ref>。この中央部には縦にざっくりと割いたような隙間が南北方向にあり、2020年︵令和2年︶には﹃[[鬼滅の刃]]﹄の主人公が斬った岩に似ているとして注目を集めた<ref name="読売20201206"/><ref name="京都新聞202012002"/>。もとは1つであった岩が割れたものなのか、2つの岩が合わさってこのような形状をしているのかは明らかでない<ref name="産経20201203"/>。北を向いた割れ目の先には[[北極星]]があることから、郷土史家の間では社殿が創建されるより以前の自然崇拝、巨岩信仰の名残りであると考えられている<ref name="久美浜大事典14p">{{Harvnb|久美浜大事典|2015|p=14}}</ref>。
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巨岩と巨岩の間、東西に開けた場所では、縄文時代には夏至に朝陽が差し込んだ角度と冬至に太陽が沈んだと角度とみられる位置に割れ目があり、差し込む陽光を受けるヒールストーンのような役割をする石を備えることから、これらによって農作業の適期を測ることが可能であったと推測して古代太陽祭祀の跡とみる説がある<ref>{{Cite web |
巨岩と巨岩の間、東西に開けた場所では、縄文時代には夏至に朝陽が差し込んだ角度と冬至に太陽が沈んだと角度とみられる位置に割れ目があり、差し込む陽光を受けるヒールストーンのような役割をする石を備えることから、これらによって農作業の適期を測ることが可能であったと推測して古代太陽祭祀の跡とみる説がある<ref name="久美浜大事典14p" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyotango.gr.jp/sightseeing/699/ |title=神谷神社︵神谷太刀宮︶ |publisher =京丹後ナビ |accessdate=2020-12-08}}</ref><ref>{{Harvnb|くみはま WAN ONE ガイド|2019|p=8}}</ref>。
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=== 剣岩 === |
=== 剣岩 === |
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参道の横、神谷神社社殿域と祓所の間にある平たい巨石である。 |
参道の横、神谷神社社殿域と祓所の間にある平たい巨石である。 |
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神谷神社の創建の折、[[丹波道主命]]は臣下に |
神谷神社の創建の折、[[丹波道主命]]は臣下に命じて八千矛神を勧請するのに良い場所を探させたが、地相を観た臣下は後に自分が住むために適地を隠し、良地は無いと報告した。このため神谷神社は山中の神谷に創られた。後に嘘が露見し、怒った丹波道主命に追われた臣下は大岩の陰に隠れ、丹波道主命が振り下ろした刀は誤って大岩を真っ二つにした。臣下は和睦を申し出、大根を捧げて宴をひらいたという<ref name="熊野郡伝説史33p"/>。 |
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神谷太刀宮神社の例祭で久美浜町小字奥馬地から大根を奉じるのは、この剣岩の伝説に由来する風習である<ref name="熊野郡誌299p"/><ref name="熊野郡伝説史33p"/>。 |
神谷太刀宮神社の例祭で久美浜町小字奥馬地から大根を奉じるのは、この剣岩の伝説に由来する風習である<ref name="熊野郡誌299p"/><ref name="熊野郡伝説史33p"/>。 |
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== 文化財 == |
== 文化財 == |
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[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (3).jpg|thumb|府登録文化財の神門]] |
{{Anchors|文化財}}[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (3).jpg|thumb|府登録文化財の神門]] |
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神谷神社の本殿と境内にある参考館が京都府の指定文化財に、神谷神社の神門と鳥居、末社の八幡神社本殿が京都府の登録文化財に登録されている。いずれも所在地は久美浜町新町として<ref group="注">神谷太刀宮神社の所在地(住所)は、久美浜町小谷である。</ref>、1985年(昭和60年)5月15日に府の文化財指定および登録を受けた。 |
神谷神社の本殿と境内にある参考館が京都府の指定文化財に、神谷神社の神門と鳥居、末社の八幡神社本殿が京都府の登録文化財に登録されている。いずれも所在地は久美浜町新町として<ref group="注">神谷太刀宮神社の所在地(住所)は、久美浜町小谷である。</ref>、1985年(昭和60年)5月15日に府の文化財指定および登録を受けた。 |
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=== 府指定 === |
=== 府指定 === |
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=== 府登録 === |
=== 府登録 === |
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* 神谷神社神門 |
* 神谷神社神門 |
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*: 虹梁絵様に波形を用いた装飾の流行年代から、本殿よりやや新しく、江戸時代後期建造とみられる四脚門である<ref name="京都の社寺建築212p"/>。本殿の正面に位置し、内装は格天井である<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか">{{Cite web |
*: 虹梁絵様に波形を用いた装飾の流行年代から、本殿よりやや新しく、江戸時代後期建造とみられる四脚門である<ref name="京都の社寺建築212p"/>。本殿の正面に位置し、内装は格天井である<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3299.html |title=神谷(かみたに)神社神門・境内社八幡神社本殿・鳥居(府登録文化財) |publisher =京丹後市 |accessdate=2020-12-08}}</ref>。 |
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* 神谷神社境内社八幡神社本殿 |
* 神谷神社境内社八幡神社本殿 |
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*: 神門よりさらに少し後年の建造で、江戸時代末期の作とみられる<ref name="京都の社寺建築212p"/>。社殿は、梁行3尺で桁行3尺5寸<ref name="熊野郡誌313p"/>。上屋は梁行1間半で桁行2間<ref name="熊野郡誌313p"/>。小規模なこけら葺一間社流造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。軒唐破風が正面に付いており、全体的に軽快ながら華麗な印象をはなつ独創性に富んだ意匠の社となっている<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか |
*: 神門よりさらに少し後年の建造で、江戸時代末期の作とみられる<ref name="京都の社寺建築212p"/>。社殿は、梁行3尺で桁行3尺5寸<ref name="熊野郡誌313p"/>。上屋は梁行1間半で桁行2間<ref name="熊野郡誌313p"/>。小規模なこけら葺一間社流造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。軒唐破風が正面に付いており、全体的に軽快ながら華麗な印象をはなつ独創性に富んだ意匠の社となっている<ref name="京都の社寺建築212p" /><ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。 |
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* 神谷神社鳥居 |
* 神谷神社鳥居 |
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*: 1707年(宝永4年)建造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/> |
*: 1707年(宝永4年)建造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。 |
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=== 社宝 === |
=== 社宝 === |
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代表的な祭礼行事に、「神谷太刀宮祭り」または「久美浜一区の秋祭り」と称する秋の氏神祭がある。江戸時代以前には2日間にわたって2台の神輿が出て、神輿のほかには太鼓台と囃子屋台が出て屋台狂言を演じた<ref name="久美浜大事典11p"/>。 |
代表的な祭礼行事に、「神谷太刀宮祭り」または「久美浜一区の秋祭り」と称する秋の氏神祭がある。江戸時代以前には2日間にわたって2台の神輿が出て、神輿のほかには太鼓台と囃子屋台が出て屋台狂言を演じた<ref name="久美浜大事典11p"/>。 |
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明治時代になると、久美浜の全町が車輪付きの太鼓台を出すようになり、次第に太鼓台同士を激しくぶつけ合い、勝負がつくまで激しく太鼓を打ち合う喧嘩祭の様相を呈した。1912年(明治45年)、ついに見物客から死傷者が出る事故があり、太鼓台は10年間の出動停止処分を受けた<ref name="久美浜大事典11p"/>。この処分は、町民らの嘆願によって1920年(大正9年)に解かれ、翌1921年(大正10年)以降は氏神例祭である10月17日を本祭とし<ref name="京都府大事典府域編150p"/>、新調された太鼓台からは車輪が省かれ、神輿のように担ぐものとなった<ref name="久美浜大事典11p"/>。祭礼再開のために新調された太鼓台は、「神楽山」「美城山」などの5基であり<ref name="久美浜大事典11p"/>、太鼓台のほかに神輿も町内を巡行する<ref name="京都新聞20111010"/>。神輿や各太鼓台は青年団によって町内を巡行するほか、神谷太刀宮神社境内で「先高(さきだか)<ref group="注">太鼓台の前方を高く持ち上げる技。</ref>」や「空のせ<ref group="注">太鼓台の底を高く持ち上げて見せる技。</ref>」などの技を披露し、奉納とする<ref name="京都新聞20111010">{{Cite news |title=「空のせ」技決まった |newspaper=京都新聞 |date=2011-10-10 |author=片村有宏 |
明治時代になると、久美浜の全町が車輪付きの太鼓台を出すようになり、次第に太鼓台同士を激しくぶつけ合い、勝負がつくまで激しく太鼓を打ち合う喧嘩祭の様相を呈した。1912年︵明治45年︶、ついに見物客から死傷者が出る事故があり、太鼓台は10年間の出動停止処分を受けた<ref name="久美浜大事典11p"/>。この処分は、町民らの嘆願によって1920年︵大正9年︶に解かれ、翌1921年︵大正10年︶以降は氏神例祭である10月17日を本祭とし<ref name="京都府大事典府域編150p"/>、新調された太鼓台からは車輪が省かれ、神輿のように担ぐものとなった<ref name="久美浜大事典11p"/>。祭礼再開のために新調された太鼓台は、﹁神楽山﹂﹁美城山﹂などの5基であり<ref name="久美浜大事典11p"/>、太鼓台のほかに神輿も町内を巡行する<ref name="京都新聞20111010"/>。神輿や各太鼓台は青年団によって町内を巡行するほか、神谷太刀宮神社境内で﹁先高︵さきだか︶<ref group="注">太鼓台の前方を高く持ち上げる技。</ref>﹂や﹁空のせ<ref group="注">太鼓台の底を高く持ち上げて見せる技。</ref>﹂などの技を披露し、奉納とする<ref name="京都新聞20111010">{{Cite news|和書 |title=﹁空のせ﹂技決まった |newspaper=[[京都新聞]] |date=2011-10-10 |author=片村有宏}}</ref>。
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本祭の前夜には、太陽に見立てた赤い提灯をつけた日和神楽(ひよりかぐら)が、子どもらを先頭に町内を練り歩く<ref name="久美浜大事典11p"/>。 |
本祭の前夜には、太陽に見立てた赤い提灯をつけた日和神楽(ひよりかぐら)が、子どもらを先頭に町内を練り歩く<ref name="久美浜大事典11p"/>。 |
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この祭日は、2000年︵平成12年︶以降は10月の第2日曜日に移行した<ref name="久美浜大事典11p">{{ |
この祭日は、2000年(平成12年)以降は10月の第2日曜日に移行した<ref name="久美浜大事典11p">{{Harvnb|久美浜大事典|2015|p=11}}</ref>。 |
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== 現地情報 == |
== 現地情報 == |
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'''交通アクセス''' |
'''交通アクセス''' |
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* 鉄道 - 京都丹後鉄道「[[久美浜駅]]」下車 徒歩約6分 |
* 鉄道 - 京都丹後鉄道「[[久美浜駅]]」下車 徒歩約6分 |
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* 車 - 神谷神社社務所(参考館)前に駐車場あり<ref>{{Cite web |
* 車 - 神谷神社社務所(参考館)前に駐車場あり<ref>{{Cite web|和書|url=https://hotokami.jp/area/kyoto/Hmptg/Hmptgtr/Drsmz/148237/map/ |title=神谷神社アクセス |publisher =ホトカミ |accessdate=2020-12-09}}</ref> |
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'''周辺''' |
'''周辺''' |
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* [[豪商 稲葉本家]] |
* [[豪商 稲葉本家]] |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |title=京都府熊野郡誌 |year=1923 |publisher=熊野郡 |doi=10.11501/925932 |ref={{SfnRef|熊野郡誌|1923}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=久美浜町合併45周年記念出版 |title=熊野郡伝説史 |publisher=久美浜町教育委員会 |year=2000 |ref={{SfnRef|熊野郡伝説史|2000}}}} |
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* |
* {{Cite book|和書 |title=京都の社寺建築 与謝・丹後編 |year=1984 |publisher=京都府文化財保護基金 |ncid=BN0087673X |ref={{SfnRef|京都の社寺建築|1984}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=久美浜町誌 |year=1975 |publisher=久美浜町 |doi=10.11501/9573090 |ref={{SfnRef|久美浜町誌|1975}} |editor=久美浜町誌編纂委員会}} |
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* 『久美浜町誌』久美浜町役場、1975年 |
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* |
* {{Cite book|和書 |title=京都大事典 府域編 |year=1994 |publisher=[[淡交社]] |ncid=BN00796674 |isbn=4473013278 |editor=佐和隆研 ほか |ref={{SfnRef|京都大事典|1994}}}} |
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* |
* {{Cite book|和書 |title=久美浜大事典 |year=2015 |publisher=わくわくする久美浜をつくる会 |ref={{SfnRef|久美浜大事典|2015}}}} |
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* |
* {{Cite book|和書 |title=くみはま WAN ONE ガイド |year=2019 |publisher=「海の京都」京丹後市実践会議 |ref={{SfnRef|くみはま WAN ONE ガイド|2019}}}} |
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== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
2024年4月2日 (火) 08:17時点における最新版
神谷太刀宮神社 | |
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![]() 神谷神社境内 | |
所在地 | 京都府京丹後市久美浜町小谷[1] |
位置 | 北緯35度36分14秒 東経134度53分31秒 / 北緯35.60389度 東経134.89194度座標: 北緯35度36分14秒 東経134度53分31秒 / 北緯35.60389度 東経134.89194度 |
主祭神 |
八千矛神(神谷神社) 丹波道主命(太刀宮) |
神体 | 国見の剣 |
社格等 | 式内社,旧郷社 |
創建 | 古代 |
本殿の様式 | 二間社入母屋造妻入向唐破風向拝付檜皮葺 |
例祭 | 10月17日(2000年以降は10月第2日曜日) |
主な神事 | 神谷太刀宮祭り |
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/Kamitani-tachinomiya_%E7%A3%90%E5%BA%A7.jpg/220px-Kamitani-tachinomiya_%E7%A3%90%E5%BA%A7.jpg)
歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Kamitani-tachinomiya_%E5%8F%82%E9%81%93.jpg/220px-Kamitani-tachinomiya_%E5%8F%82%E9%81%93.jpg)
祭神[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/%E9%81%93%E4%B8%BB%E5%91%BD_Michinushi_no_mikoto_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%B0%86%E4%BC%9D.jpg/200px-%E9%81%93%E4%B8%BB%E5%91%BD_Michinushi_no_mikoto_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%B0%86%E4%BC%9D.jpg)
建造物[編集]
社殿[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Kumihama_Kamitani_jinja_2019-05_ac_%285%29.jpg/220px-Kumihama_Kamitani_jinja_2019-05_ac_%285%29.jpg)
境内社[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kamitani-tachinomiya_%E5%A2%83%E5%86%85%E7%A4%BE_%E5%85%AB%E5%B9%A1.jpg/220px-Kamitani-tachinomiya_%E5%A2%83%E5%86%85%E7%A4%BE_%E5%85%AB%E5%B9%A1.jpg)
参考館[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Kumihama_Kamitani_jinja_Sankokan_2019-05_ac.jpg/220px-Kumihama_Kamitani_jinja_Sankokan_2019-05_ac.jpg)
境内[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/98/Kamitani-tachinomiya_%E7%A3%90%E5%BA%A7%EF%BC%92.jpg/220px-Kamitani-tachinomiya_%E7%A3%90%E5%BA%A7%EF%BC%92.jpg)
-
境内から東にみる参道。左端に「剣岩」が映る。
-
鳥居
-
手水
磐座[編集]
剣岩[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Kamitani-tachinomiya_%E5%A2%83%E5%86%85.jpg/220px-Kamitani-tachinomiya_%E5%A2%83%E5%86%85.jpg)
文化財[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Kumihama_Kamitani_jinja_2019-05_ac_%283%29.jpg/220px-Kumihama_Kamitani_jinja_2019-05_ac_%283%29.jpg)
府指定[編集]
●神谷神社本殿 1781年︵天明元年︶建造。入母屋造で妻入、桁行2間、梁行2間、向拝1間、正面軒唐破風付、檜皮葺。四周に縁を設ける。入母屋造で妻入という構造は、出雲地方に多い大社造の系統とみられ、四周に縁をまわすのも大社造の特徴である[13]。丹後半島では極めて珍しく、他例がまったくない建築の社殿である[5]。軒は尾垂木付の三手先組物で華やぎをもたせ、連三斗を3段に組んで桁を受ける向拝柱上には丹後地方に特有の手法が用いられている[13]。大工は久美浜町本町の谷口長兵衛ら8人、彫物師と金物師は京都の職人が担った[1]。 ●神谷神社参考館︵旧久美浜県庁舎御玄関棟︶ 切妻造で、一部が入母屋造、桟瓦葺。1870年︵明治3年︶、21世紀現在は京丹後市立久美浜小学校となっている旧久美浜代官所跡地に建造された[26]。大工棟梁は丹後国与佐郡大原村︵現岩滝町︶の高岡豊助義為[26]。久美浜県解体後、一旦移築されて豊岡県庁として使用され、1923年︵大正12年︶に再びの移築で神谷神社境内に移され現在に至る[26]。玄関周囲と左側3室続きの部分は、旧県庁舎の﹁御玄関棟﹂の外周部を一部除去したものとほぼ合致するが、内部の間仕切り位置は全面的に変更されている[26]。府登録[編集]
●神谷神社神門 虹梁絵様に波形を用いた装飾の流行年代から、本殿よりやや新しく、江戸時代後期建造とみられる四脚門である[1]。本殿の正面に位置し、内装は格天井である[31]。 ●神谷神社境内社八幡神社本殿 神門よりさらに少し後年の建造で、江戸時代末期の作とみられる[1]。社殿は、梁行3尺で桁行3尺5寸[25]。上屋は梁行1間半で桁行2間[25]。小規模なこけら葺一間社流造[31]。軒唐破風が正面に付いており、全体的に軽快ながら華麗な印象をはなつ独創性に富んだ意匠の社となっている[1][31]。 ●神谷神社鳥居 1707年︵宝永4年︶建造[31]。社宝[編集]
神霊と祀った﹁国見の剣﹂は現存していないが、この宝剣が損なわれていることを嘆いた京極氏から、江戸時代に贈られた宗近新身の太刀が残る。また、代々の久美浜代官らも刀剣や燈籠などを数多く寄進した[18]。例祭﹁神谷太刀宮祭り﹂[編集]
代表的な祭礼行事に、﹁神谷太刀宮祭り﹂または﹁久美浜一区の秋祭り﹂と称する秋の氏神祭がある。江戸時代以前には2日間にわたって2台の神輿が出て、神輿のほかには太鼓台と囃子屋台が出て屋台狂言を演じた[32]。 明治時代になると、久美浜の全町が車輪付きの太鼓台を出すようになり、次第に太鼓台同士を激しくぶつけ合い、勝負がつくまで激しく太鼓を打ち合う喧嘩祭の様相を呈した。1912年︵明治45年︶、ついに見物客から死傷者が出る事故があり、太鼓台は10年間の出動停止処分を受けた[32]。この処分は、町民らの嘆願によって1920年︵大正9年︶に解かれ、翌1921年︵大正10年︶以降は氏神例祭である10月17日を本祭とし[13]、新調された太鼓台からは車輪が省かれ、神輿のように担ぐものとなった[32]。祭礼再開のために新調された太鼓台は、﹁神楽山﹂﹁美城山﹂などの5基であり[32]、太鼓台のほかに神輿も町内を巡行する[33]。神輿や各太鼓台は青年団によって町内を巡行するほか、神谷太刀宮神社境内で﹁先高︵さきだか︶[注 2]﹂や﹁空のせ[注 3]﹂などの技を披露し、奉納とする[33]。 本祭の前夜には、太陽に見立てた赤い提灯をつけた日和神楽︵ひよりかぐら︶が、子どもらを先頭に町内を練り歩く[32]。 この祭日は、2000年︵平成12年︶以降は10月の第2日曜日に移行した[32]。現地情報[編集]
![地図](https://maps.wikimedia.org/img/osm-intl,14,35.60375,134.89166666667,300x200.png?lang=ja&domain=ja.wikipedia.org&title=%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%A4%AA%E5%88%80%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE&revid=99867883&groups=_50185b1e114eb8ca9a4844dc92a4727987f96258)
- 豪商 稲葉本家
- 京丹後市久美浜庁舎(京丹後市立久美浜図書室)
脚注[編集]
注釈[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
●﹃京都府熊野郡誌﹄熊野郡、1923年。doi:10.11501/925932。 ●久美浜町合併45周年記念出版﹃熊野郡伝説史﹄久美浜町教育委員会、2000年。 ●﹃京都の社寺建築 与謝・丹後編﹄京都府文化財保護基金、1984年。 NCID BN0087673X。 ●久美浜町誌編纂委員会 編﹃久美浜町誌﹄久美浜町、1975年。doi:10.11501/9573090。 ●佐和隆研 ほか 編﹃京都大事典 府域編﹄淡交社、1994年。ISBN 4473013278。 NCID BN00796674。 ●﹃久美浜大事典﹄わくわくする久美浜をつくる会、2015年。 ●﹃くみはま WAN ONE ガイド﹄﹁海の京都﹂京丹後市実践会議、2019年。関連文献[編集]
●古事記 ●日本書紀 ●吉田金彦、糸井通浩、綱本逸雄﹃京都地名語源辞典﹄東京堂出版、2013年外部リンク[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Commons-logo.svg/12px-Commons-logo.svg.png)