「筑波 (コルベット)」の版間の差分
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HMS マラッカは、英領[[ビルマ]]の警備のため建造された、スクリュー付き機帆走木造[[スループ]]である。英領[[マラッカ]]で竣工したとされるが、建造場所は不明である。[[1862年]]に[[コルベット]]として機関を換装し、[[1869年]]に売却された。[[1871年]]([[明治]]4年)に日本海軍がイギリス人から購入し、「筑波」と改名された。[[1887年]](明治20年)までの正式名は「筑波艦」である。HMS マラッカは世界で最初に[[スコッチボイラー|円缶]]を搭載した軍艦として有名である。 |
HMS マラッカは、英領[[ビルマ]]の警備のため建造された、スクリュー付き機帆走木造[[スループ]]である。英領[[マラッカ]]で竣工したとされるが、建造場所は不明である。[[1862年]]に[[コルベット]]として機関を換装し、[[1869年]]に売却された。[[1871年]]([[明治]]4年)に日本海軍がイギリス人から購入し、「筑波」と改名された。[[1887年]](明治20年)までの正式名は「筑波艦」である。HMS マラッカは世界で最初に[[スコッチボイラー|円缶]]を搭載した軍艦として有名である。 |
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=== 艦隊 === |
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明治5年([[1872年]]6月23日)に筑波は艦隊に編入され、'''中艦隊'''は[[日進 (スループ)|日進]]、[[孟春 (砲艦)|孟春]]、[[龍驤 (コルベット)|龍驤]]、[[第一丁卯]]、[[第二丁卯]]、[[雲揚 (砲艦)|雲揚]]、[[春日丸|春日]]、[[筑波 (コルベット)|筑波]]、[[鳳翔 (砲艦)|鳳翔]]の9隻編制となった<ref name="4-1(1971)p7-M5">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]p.7、明治5年</ref>。 |
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7月20日(1872年8月23日)、筑波は艦隊から外れた<ref name="4-1(1971)p7-M5"/>。 |
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10月18日(1872年11月18日)、筑波は艦隊に編入された<ref name="4-1(1971)p7-M5"/>。 |
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10月27日(1872年11月27日)、筑波は艦隊から外れた<ref name="4-1(1971)p7-M5"/>。 |
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[[1873年]](明治6年)3月2日、筑波編入<ref name="4-1(1971)p7-M6"/>、 |
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6月30日時点で'''中艦隊'''は[[雲揚 (砲艦)|雲揚]]、[[日進 (スループ)|日進]]、[[春日丸|春日]]、[[龍驤 (コルベット)|龍驤]]、[[東艦|東]]、[[鳳翔 (砲艦)|鳳翔]]、[[筑波 (コルベット)|筑波]]の7隻編制だった<ref name="4-1(1971)p7-M6">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]p.7、明治6年</ref>。 |
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[[1874年]](明治7年)4月27日、艦隊を外れる<ref name="4-1(1971)p7-M7">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]p.7、明治7年</ref>。 |
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11月6日、筑波は艦隊に編入された<ref name="4-1(1971)p7-M7"/>。 |
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[[1875年]](明治8年)1月8日、筑波は艦隊から外れた<ref name="4-1(1971)p7-M8">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]p.7、明治8年</ref>。 |
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=== 練習艦 === |
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海軍兵学寮(のち[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])の[[練習艦]]となり、[[1875年]](明治8年)11月には[[サンフランシスコ]]まで航海するなど、遠洋練習航海のさきがけとなった<ref>中島武著『[{{近代デジタルライブラリーURL|45012798}} 明治の海軍物語]』三友社、[[1939年]]のうち、「[{{NDLDC|1720072/30}} 最初の遠洋航海]」。</ref>。他に測量任務にも従事した。 |
海軍兵学寮(のち[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])の[[練習艦]]となり、[[1875年]](明治8年)11月には[[サンフランシスコ]]まで航海するなど、遠洋練習航海のさきがけとなった<ref>中島武著『[{{近代デジタルライブラリーURL|45012798}} 明治の海軍物語]』三友社、[[1939年]]のうち、「[{{NDLDC|1720072/30}} 最初の遠洋航海]」。</ref>。他に測量任務にも従事した。 |
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=== 日清戦争 === |
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[[日清戦争]]時には艦歴40年以上であったので、実戦には投入されず軍港警備に従事した。 |
[[日清戦争]]時には艦歴40年以上であったので、実戦には投入されず軍港警備に従事した。 |
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=== その後 === |
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[[1898年]](明治31年)3月21日、三等[[海防艦]]に類別された。[[1905年]](明治38年)に除籍され、翌年に売却された。 |
[[1898年]](明治31年)3月21日、三等[[海防艦]]に類別された。[[1905年]](明治38年)に除籍され、翌年に売却された。 |
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== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
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* [https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
* [https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.A15111235500|title=公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道|ref=公文類聚10編33巻}}(国立公文書館) |
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* <!--カイグンショウ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第175巻|title=海軍制度沿革 巻四の1|author=海軍省/編|publisher=原書房|date=1971-11|origyear=1939|ref=海軍制度沿革4-1(1971)}} |
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== 関連項目 == |
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[[Category:日本の帆走コルベット]] |
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2020年10月17日 (土) 12:24時点における版
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艦歴 | |
---|---|
起工: | 1851年 |
進水: | 1853年4月9日 |
竣工: | 1854年 |
購入: | 1871年8月16日 |
除籍: | 1905年6月10日 |
性能諸元 | |
排水量: | 常備:1,947 t |
全長: | 垂線間長:58.2 m |
全幅: | 10.6 m |
吃水: | 5.48 m |
機関: | 1軸レシプロ 526 ihp |
最大速: | 10 ノット |
兵員: | 301 名 |
兵装: | 16 cm砲 9 門 |
その他 | 信号符字:GQBF[1] |
艦歴
HMS マラッカは、英領ビルマの警備のため建造された、スクリュー付き機帆走木造スループである。英領マラッカで竣工したとされるが、建造場所は不明である。1862年にコルベットとして機関を換装し、1869年に売却された。1871年︵明治4年︶に日本海軍がイギリス人から購入し、﹁筑波﹂と改名された。1887年︵明治20年︶までの正式名は﹁筑波艦﹂である。HMS マラッカは世界で最初に円缶を搭載した軍艦として有名である。艦隊
明治5年(1872年6月23日)に筑波は艦隊に編入され、中艦隊は日進、孟春、龍驤、第一丁卯、第二丁卯、雲揚、春日、筑波、鳳翔の9隻編制となった[2]。7月20日(1872年8月23日)、筑波は艦隊から外れた[2]。10月18日(1872年11月18日)、筑波は艦隊に編入された[2]。10月27日(1872年11月27日)、筑波は艦隊から外れた[2]。 1873年(明治6年)3月2日、筑波編入[3]、6月30日時点で中艦隊は雲揚、日進、春日、龍驤、東、鳳翔、筑波の7隻編制だった[3]。 1874年(明治7年)4月27日、艦隊を外れる[4]。11月6日、筑波は艦隊に編入された[4]。 1875年(明治8年)1月8日、筑波は艦隊から外れた[5]。練習艦
海軍兵学寮︵のち海軍兵学校︶の練習艦となり、1875年︵明治8年︶11月にはサンフランシスコまで航海するなど、遠洋練習航海のさきがけとなった[6]。他に測量任務にも従事した。日清戦争
日清戦争時には艦歴40年以上であったので、実戦には投入されず軍港警備に従事した。その後
1898年︵明治31年︶3月21日、三等海防艦に類別された。1905年︵明治38年︶に除籍され、翌年に売却された。艦長
※﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂及び﹃官報﹄に基づく。- (艦長代)相浦紀道 大尉:明治4年9月25日[7](1871年10月28日) - 1872年3月3日
- 本山漸 中佐:1872年6月24日 -
- 伊藤雋吉 中佐:1872年9月14日 - 1874年6月12日
- (兼)伊藤雋吉 中佐:1874年6月12日 - 1876年9月12日
- 本山漸 中佐:1876年9月12日 - 1877年2月20日
- 松村淳蔵 大佐:1877年2月20日 - 1877年8月23日
- 本山漸 中佐:1877年8月23日 - 1877年11月1日
- 松村淳蔵 大佐:1877年12月1日 - 1879年8月19日
- 相浦紀道 中佐:1879年8月19日 - 1881年6月17日
- 伊東祐亨 中佐:1881年7月7日 - 1881年12月27日
- 有地品之允 大佐:1882年12月23日 - 1884年12月17日
- (心得)新井有貫 少佐:1884年12月17日 - 1885年6月22日
- 福島敬典 大佐:1885年10月23日 - 1886年1月6日(生徒練習航海中)
- 福島敬典 大佐:1886年1月6日 - 1886年12月28日
- 野村貞 大佐:1887年4月25日 - 1889年1月24日
- 柴山矢八 大佐:1889年5月15日 - 1891年2月6日
- 黒岡帯刀 大佐:1891年2月6日 - 1891年11月20日
- 黒岡帯刀 大佐:1892年8月6日 - 1895年12月27日
- 細谷資氏 大佐:1895年12月27日 - 1896年4月1日
- 石井猪太郎 大佐:1896年4月1日 - 5月19日
- 柏原長繁 大佐:1897年2月18日 - 1898年3月1日
- 友野雄介 中佐:1898年3月1日 - 10月1日
- 加藤重成 大佐:1898年10月1日 - 1899年6月3日
- 高桑勇 中佐:1899年6月3日 - 1899年7月25日
- (兼)宮岡直記 中佐:1899年9月19日 - 1900年11月6日
- (兼)今井兼昌 大佐:1900年11月6日 - 1902年6月28日
- 松居銓太郎 中佐:1902年6月28日 - 10月23日
- 黒水公三郎 中佐:1903年4月20日 - 5月14日
- 中川重光 中佐:1903年5月14日 - 6月22日
脚注
出典
参考資料
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道』。Ref.A15111235500。(国立公文書館)
- 『公文類纂 明治4年 巻11 本省公文 黜陟部8/丁1号大日記 相浦大尉筑波艦長代理1件達』。Ref.C09090287800。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 筑波 [II] (巡洋戦艦)