レトヴィザン (戦艦)
写真は左舷方向から撮られた「レトヴィザン」。 | |
もとは1790年にロシア海軍のクロウン艦長がスウェーデン軍から捕獲した64門艦の艦名。 写真は艦尾方向から撮られた「レトヴィザン」。 | |
艦歴 | |
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発注 | クランプ造船所 |
起工 | 1898年12月 |
進水 | 1900年10月23日 |
就役 | 1901年10月に完成、公試開始、 1902年3月25日ロシア海軍に編入。 |
除籍 | 1923年9月20日 |
その後 | 1924年7月25日撃沈処分 |
前級 | ポチョムキン |
後級 | ツェサレーヴィチ |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:12,700トン |
全長 | 117.85m |
水線長 | 116.5m |
全幅 | 22.0m |
吃水 | 常備:7.6m 満載:7.92m |
機関 | ニクローズ式石炭専焼水管缶24基 +3段膨張式3気筒レシプロ機関2基2軸推進 |
最大出力 | 16,000馬力(公試時:17,110馬力) |
最大速力 | 17ノット(公試時:18ノット) |
航続性能 | 10ノット/8,000海里(満載) |
燃料 | 石炭:2,000トン(満載) |
計画乗員数 | 796名[1] |
兵装 | Pattern 1895 30.5cm(40口径)連装砲2基 Pattern 1892 15.2cm(45口径)単装速射砲12基 Pattern 1892 7.5cm(50口径)単装速射砲20基 オチキス 4.7cm(43.5口径)単装機砲24基 オチキス 3.7cm(22.8口径)5連装機関砲8基 マキシム 7.62mm機銃単装2丁 38.1cm水中魚雷発射管単装2基、同水上魚雷発射管単装4基 |
装甲(クルップ鋼) | 舷側:229mm(水線中央部)、152mm(船首楼側面部)、127mm(水線下部)、51mm(艦首・艦尾部) 甲板:51mm(主甲板)、63mm(主甲板傾斜部) 主砲塔:229mm(前盾・側盾)、51mm(天蓋) 主砲バーベット:203mm(最厚部) 副砲ケースメイト:127mm(最厚部) 司令塔:254mm(前盾・側盾)、-mm(天蓋) |
レトヴィザン[2]、レトウィザン[3][4]、レトヴィザーン[5]︵ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン︶は、ロシア帝国海軍の戦艦[6]。
日露戦争の旅順攻囲戦で沈没[7][8]。
引揚げ後、修理されて日本海軍の戦艦﹁肥前﹂となった[4][9][10]。
艦名は旧国名の肥前国に由来する[6]。
本艦の武装配置と装甲配置を示した図。
本艦は、戦艦アイオワ (USS Iowa, Battleship No. 4) を基礎とし、ロシア式設計を加味した艦型となっている[11]。船体形状は平甲板型船体で太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された。
水線下に衝角︵ラム︶を持つ垂直に切り立った艦首から艦首甲板上に円筒形の30.5cm連装主砲塔が1基、その背後に司令塔を組み込んだ艦橋からミリタリーマストが立つ。ミリタリーマストとはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm〜47mmクラスの機関砲︵速射砲︶を配置した物である。これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷艇撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりである。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦に多く用いられた様式であった。
本艦のミリタリーマストは内部に階段を内蔵した円筒状となっており、頂部と中部に計2段の見張り台が設けられた。前部ミリタリー・マストの背後には等間隔に並んだ3本煙突が立ち、その周囲は艦載艇置き場となっており、船体中央部に片舷1基ずつ設けられたグース・ネック︵鴨の首︶型クレーン計2基により運用された。副砲の15cm速射砲は上部構造物の四隅に1基ずつと舷側中央部に4基ずつで片舷6基で計12基が配置された。船体後部には後部ミリタリー・マストが立ち、その後ろの後部甲板上に30.5cm連装主砲塔が後向きに1基配置された。水雷艇迎撃用の7.5cm速射砲は艦首に側面に1基ずつ、船体中央部に4基ずつ、艦尾側に2基ずつと煙突の側面に2基ずつと後部艦橋の側面に1基ずつの片舷10基で計20基を配置した。この配置により艦首尾線方向に最大30.5cm砲2門・15.2cm砲2門・7.5cm砲4門が指向でき、左右方向には最大30.5cm砲4門・15.2cm砲6門・7.5cm砲10門が指向でき強力な火力を誇っていた。
旅順開城直後の前部主砲塔。破壊された形跡がある。
主砲は前級に引き続き﹁Pattern 1895 30.5cm︵40口径︶砲﹂を採用した。その性能は331.7kgの砲弾を、仰角15度で14,640mまで到達させ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲をロシア国産の新設計の連装砲塔に収め、砲弾は1基ごとに140発を弾薬庫に収めた。砲塔の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが平時は3分に2発の発射が可能であった。
本艦の副砲と同型の﹁アヴローラ﹂の15.2cm速射砲。
副砲には﹁Pattern 1892 15.2cm︵45口径︶速射砲﹂を採用した。その性能は41.4kgの砲弾を、仰角20度で11,520mまで届かせられ、射程5,490mで43mmの装甲を貫通できた。この砲の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分3発の設計であった。第一次世界大戦当時の発射速度は、1分間で1発程度だったという[12]。
本艦にも装備された﹁Pattern 1892 7.5cm︵50口径 ︶速射砲﹂。写真は巡洋艦﹁グロムボイ﹂のもの。
他に対水雷艇迎撃用にフランスのカネー社の7.5cm砲をライセンス生産した﹁Pattern 1892 7.5cm︵50口径︶速射砲﹂を採用した。その性能は4.9kgの砲弾を、仰角20度で7,869mまで届かせられた。この砲を単装砲架で船体舷側ケースメイト︵砲郭︶部に艦首4基・艦尾3基と、上部構造物の15cm速射砲の間に3基の片舷10基ずつ計20基を配置した。俯仰能力は仰角20度、俯角15度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分12発であった。
他に近接戦闘用にフランスのカネー社からライセンス生産したオチキス社の4.7cm砲をライセンス生産した﹁Pattern 1873 4.7cm︵43.5口径︶速射砲﹂を採用した。その性能は1.5kgの砲弾を仰角10度で4,575mまで届かせられた。この砲を単装砲架でミリタリー・マスト1本あたり4基で前後で8基を、艦上構造物の前後に8基ずつの計24基を配置した。俯仰能力は仰角25度・俯角23度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分50発であった。その他にマキシム 7.62mm機関銃を船橋に2丁搭載された。
対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管を単装で、艦首と艦尾に1門ずつと舷側部に片舷1基ずつで計4基。38.1cm水中魚雷発射管を単装で、主砲塔側面舷側部に片舷1基ずつで計2基装備した。予備魚雷は17本が艦内に搭載された。
日本海軍時代に撮影された﹁肥前︵元‥レトヴィザン﹂。全マストを使 用して干されてモザイク状の布は乗員の洗濯物。乗員の健康維持のために停泊時の洗濯は必要であることを示した写真。
なお、レトヴィザンが日本陸軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃を受け、旅順港内に着底した際に受けた破口は応急処置により埋められたものの、内地に回航してから船体の本格修理を行う際に数々の改良が加えられた。捕獲ロシア戦艦︵石見、肥前、丹後、周防、相模、壱岐、見島︶の中で、アメリカ製造の本艦は性能もよく、機関部の電化等技術的にも参考になる点が多かったという[48]。ただし肥前修理中の1906年︵明治39年︶12月、イギリス海軍のドレッドノート︵弩級戦艦︶が竣工したため、本艦は二線級戦力となっている[49]。
外観上の特徴としては前後のミリタリー・マストを簡素な単脚式のマストへと改造し、吸排気2重構造の3本煙突をイギリス式の簡素な物へと3本とも交換されるなど軽量化された。主砲は、砲架のみロシア時代のものを使用し、砲身は安式︵アームストロング︶12インチ砲に換装されたという[50]。副砲はロシア艦時代のままとして、艦上構造物の簡素化に伴い兵装の多くをイギリス式に換装された。7.5cm速射砲は﹁アームストロング 7.6cm︵40口径︶砲﹂14基、4.7cm機砲は山内式4.7cm速射砲4基へと更新され、搭載数の減少に伴って開口部は閉鎖された。魚雷兵装も38.1cm水上魚雷発射管は全撤去され、水中魚雷発射管は38.1cmから45.7cmへと大口径化されて単装2門を装備した。
概要[編集]
本級の計画直前、大日本帝国海軍が相次いで12インチ砲戦艦をイギリスより購入していたことから、戦力的にロシア帝国海軍は対抗策を必要としていた。太平洋艦隊向けに建造した10インチ砲戦艦﹁ペレスヴェート級﹂では火力不足との判断から、1898年にロシア海軍初の12インチ砲を持ち、排水量は太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された前弩級戦艦2隻が外国に発注された。1隻は、フランスのラ・セーヌ造船所に発注された﹁ツェサレーヴィチ﹂である。もう1隻が、アメリカのクランプ造船所︵William Cramp and Sons︶に発注され、﹁レトヴィザン﹂と命名された本艦である[11]。艦名は、スウェーデン語でRättvisa" ﹁正義﹂の意︵1790年にロシア海軍のクロウン艦長がスウェーデン軍から捕獲した64門艦の艦名︶。本艦は、日露戦争に参加したロシア戦艦中、唯一のアメリカ合衆国建造艦だった[11]。艦形[編集]
武装[編集]
主砲[編集]
その他の備砲・水雷兵装[編集]
艦歴[編集]
﹁レトヴィザン﹂時代[編集]
1898年︵明治31年︶12月、アメリカ合衆国のクランプ造船所[11]で起工[6]。1900年︵明治33年︶10月23日、進水[6][13]。1902年︵明治35年︶3月25日、竣工[6][13]。 同年4月30日にバルト海へ向けて出港し、途中給炭のためシェルブール︵フランス︶に立ち寄った[13]。シェルブール出港後の6月14日にボイラー管が破裂する事故があった。6人がやけどを負い、うち3人は致命傷であった。到着後レトヴィザンには無線装置が取り付けられ、8月にはレバルで艦観式に参加。同年11月13日に戦艦ポベーダ、巡洋艦ジアーナ、パルラーダ、ボガトィーリとともに極東へ向けて出発。1903年︵明治36年︶5月4日、パルラーダのみを伴って旅順に到着した[14]。日露戦争[編集]
1904年︵明治37年︶2月8日から9日の夜、日本の第一・第二・第三駆逐隊が旅順港外に停泊中のロシア艦隊を襲撃した︵旅順口攻撃︶。この攻撃により本艦ふくめ3隻︵レトヴィザン、ツェザレウィッチ、ポルタワ︶に魚雷が命中する[15]。レトヴィザンでは左舷水雷貯蔵庫に大穴があき[16]、5名が死亡して電力が失われた。浸水により11度傾斜したが、注水により傾斜は5度まで回復した。レトヴィザンは港内に向かったが、その際港の入り口で座礁し[17]、離礁作業は成功しなかった[13]。2月24日、日本軍が第一回旅順口閉塞作戦を実行した際、レトヴィザンは日本の駆逐艦や閉塞船を砲撃している[18]。 3月8日に離礁が成功し港内で修理に入った[13]。利用できるドックが無かったため修理には囲い堰が用いられた[13]。3月22日、日本の戦艦2隻︵富士、八島︶が旅順港内を砲撃すると[19]、港内のレトヴィザンなどは応射した[20]。レトヴィザンの修理は6月3日に完了した。 6月23日、ヴィリゲリム・ヴィトゲフト提督はレトヴィザンを含む艦隊を率いて出撃したが、日本艦隊が現れると勝ち目が無いと判断して旅順に引き返した[21]。7月27日、レトヴィザンと巡洋艦パルラーダ、バヤーン、アスコリドが出撃して大河湾へ向かい、日本軍陣地を砲撃[22]。日本側の装甲巡洋艦︵日進、春日︶からの砲撃を受けると退却したが、その際レトヴィザンは応戦し日進が無電室に被弾している[23]。 8月9日、日本の海軍陸戦重砲隊による砲撃で港内で7発被弾し、浸水により左舷に傾斜した他戦死者1名を出した[24]。また艦長シチェンスノーヴィチ大佐が負傷し、レトヴィザンに搭載するための6インチ砲を載せて隣にとまっていた船が沈んだ[25]。 8月10日、黄海海戦に本隊の2番艦として参加する。ツェザレウィッチが離脱した際には援護のため日本側へ突進し大きな損害を受けた[13]。損傷を受けた本艦は旅順に帰投後、武装の一部︵15.2cm速射砲2基・7.5cm速射砲2基・4.7cm単装機砲2基・3.7cm5連装ガトリング砲6基︶を陸上陣地に据え付けた。 12月6日、旅順港内で203高地からの測定による日本陸軍第三軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃の損害により左舷側より浸水、翌7日には着底が確認された[13][26][27][9]。その際には陸上から綱を引き転覆を防ごうとする動きも確認されたという[13]。レトヴィザンの近辺では、戦艦ポルタワ︵丹後︶も沈んでいる[28][29][30][31]。後甲板は干潮時も海面上に姿は表さず旅順要塞降伏直後には火災も起こしており[13]、甲板は残骸で埋もれていた[32][33]。日本側の調査に拠れば火薬庫のキングストン弁が開かれていたもののその先のコックが開かれておらず、海水の侵入が確認されなかったため直接の沈没原因とはみなされていない[13]。﹁肥前﹂時代[編集]
1905年︵明治38年︶1月1日、旅順要塞の降伏にともない、日本海軍に鹵獲された[6]。 5月25日、日本海軍は本艦の浮揚作業を開始する[34][35][36]。9月22日、浮揚成功[11][37]。9月24日[11]、日本海軍に編入され﹁肥前﹂と命名される[38][6]。佐世保鎮守府籍[39]。なお、明治天皇に奏聞した候補艦名に﹁土佐﹂があった[40]。 10月25日、捕獲艦2隻︵肥前︽旧レトヴィザン︾、周防︽旧ポピエダ︾︶は一等戦艦に類別された[41][42]。11月19日、3隻︵肥前、鎮遠、子日︶は旅順港を出発する[34][43]。11月27日、佐世保に到着し、肥前は修理に着手した[34][43]。 12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定した[44]。戦艦の等級廃止にともない[39]、日本海軍保有の9隻︵富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防︶が﹃戦艦﹄に類別される[45][46]。本艦は戦艦﹁肥前﹂となった[47]。 1908年︵明治41年︶11月、佐世保工廠における修理が完了した[17][11]。第一次世界大戦[編集]
第一次世界大戦では1914年︵大正3年︶10月8日に横須賀を出撃した[9]。森山慶三郎中将指揮下の練習艦隊︵出雲、浅間︶がドイツ東洋艦隊との交戦を避けるためカナダのバンクーバーに退避しており、肥前は練習艦隊への合同を命じられていた[51]。なお、当時の肥前︵艦長川浪安勝大佐︶には、福留繁︵後日、連合艦隊参謀長︶が海軍少尉として勤務していた[52]。 肥前は10月中旬にハワイ到着、ここでドイツ砲艦ガイエルと遭遇した[51]。約三週間ガイエルを監視し、同艦の武装解除を見届けた[53]。つづいてアメリカ西海岸に進出し、森山艦隊と合流した[12][53]。メキシコ西岸などで活動した[6][9]。ガラパゴス島から日本に帰還途中で主ボイラーが破裂する。1915年︵大正4年︶2月14日、肥前は横須賀に帰投した[9]。福留少尉は間もなく戦艦鹿島乗組を命ぜられ、肥前を退艦した[53][54]。ロシア内戦[編集]
大正3年7月28日〜大正9年10月15日の間はシベリア出兵の護衛と沿海州の警備に当たった[6]。 1920年4月4日夜から5日にかけ、機関銃の銃声をきっかけとして日本軍はシベリア鉄道沿線のパルチザンを武装解除[55]。その際、﹁肥前﹂はウラジオストク港内でロシア艦船を武装解除した[56]。 1921年︵大正10年︶9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、肥前も一等海防艦となる[57][58]。廃艦[編集]
1923年︵大正12年︶9月20日、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定され、除籍[59][6]。艦艇類別等級表からも削除[60][61]。各艦︵肥前、石見、土佐、安芸、薩摩︶は標的艦として処分されることになった[62]。 1924年︵大正13年︶7月17日、肥前は特務艦摂津に曳航され、佐伯湾に到着した[63]。 7月25日[64]、佐伯湾に日本海軍の主力艦艇︵長門、陸奥、山城、金剛、比叡、五十鈴、多摩、夕張、天龍、由良、名取、長良、川内、北上等︶が集結した[65]。 肥前は豊後水道で連合艦隊︵長門、陸奥、金剛、比叡、第一駆逐艦︽神風︾、野風、波風、沼風︶による射撃訓練の標的艦として沈められた[66][67]。艦長[編集]
※﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂及び﹃官報﹄に基づく。- 日本海軍
- 釜屋忠道 大佐:1908年7月31日 - 12月10日
- 築山清智 大佐:1908年12月10日 - 1909年2月14日
- 久保田彦七 大佐:1909年2月14日 - 5月22日
- 石田一郎 大佐:1909年5月22日 - 1910年4月9日
- 久保田彦七 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
- 依田光二 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- (兼)田所広海 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月1日
- 川浪安勝 大佐:1913年3月7日 - 1915年4月1日[68]
- 中島資朋 大佐:1915年5月20日 - 1916年12月1日
- 勝木源次郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 生野太郎八 大佐:1917年12月1日[69] - 1918年11月10日[70]
- 匝瑳胤次 大佐:1918年11月10日 - 1920年11月20日
- 小泉親治 大佐:1920年11月20日 - 1922年12月1日
- 広沢恒 大佐:1922年12月1日[71] - 1923年4月1日[72]
- 安部隆吉 大佐:1923年4月1日[72] -
脚注[編集]
(一)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 111●﹁肥前﹂主要目
(二)^ ﹃世界歴史大系 ロシア史2﹄山川出版社、1997年による表記。
(三)^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 109a-110﹁肥前﹂(レトウィザン)
(四)^ ab#福井世界戦艦307頁﹃(5)レトウィザン(Retvisanのちの肥前)﹄
(五)^ 稲子恒夫編著﹃ロシアの20世紀﹄東洋書店、2007年による表記。
(六)^ abcdefghij#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ72(原本110頁)﹃肥前(ひぜん) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、肥前國に採る。艦歴米國費府造船所に於て建造、明治33年進水、舊露國軍艦、原名﹁レトヴヰザン﹂。日露戰役中露國太平洋艦隊に属し明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年9月24日帝國軍艦と定め﹁肥前﹂と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正3乃至9年戰役(日獨)從軍‥同3年10月遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面の警備(艦長大佐川浪安勝)、同7年7月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐生野太郎八)、同8年9月同前の任務に就く(艦長大佐匝瑳胤次)、同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日除籍、廢棄(華府條約による)。
―要目― 長372呎/幅72呎/吃水24.9呎/排水量12,700噸/機關 三汽筩聯成汽機2基、ニクローズ式/馬力16,000/速力18/乗組人員750/船材 鋼(甲帶225粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/12听砲 14/5听砲 4/機砲 4/發射管 2/起工 明治31-12/進水 同33-10-23/竣工 同35-3-25/建造所 米國費府﹄
(七)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ25﹃戰利艦船處分一覽表|同(軍艦)肥前|レトヴヰザン|戰艦|排水量一二,七〇〇|三十八年九月二十二日|海軍ニテ使用|四,二〇〇,〇〇〇|︸旅順ニ沈没ノモノ﹄
(八)^ #阿蘇周防津軽丹後肥前相模pp.3-4﹃壹等戰艦肥前(﹁レトウヰザン﹂)﹄
(九)^ abcde#帝国軍艦帖コマ38-39﹃戰艦肥前(舊名レトウヰザン) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千七百二十五噸/一、馬力 一萬六千馬力/一、速力 十九節七/一、主砲 四十口經露式十二吋砲四門、六吋砲十二門/一、建造地及建造所 米國費府クラムブ造船所/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際需要なる事項 露國太平洋第一艦隊に属し、旅順口にありて皇國海軍に對抗すること数月、終に明治三十七年十二月六日旅順西港内に於て我軍の爲め撃沈せられ、三十八年九月二十二日浮揚同二十四日肥前と命名せられ、帝國軍艦に列せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 大正三年十月八日艦長川浪海軍大佐式下に横須賀軍港出發布哇﹁ホノルヽ﹂沖に至り獨砲艦﹁ガイヱル﹂を監視し同十一月八日之が武装解除を行はしめ爾後森田遣米枝對司令官の指揮下に入り南北米西海岸に遊弋索敵行動を取り四年二月十四日横須賀軍港に凱旋す/一、其他特に重要なる事項 明治四十四年艦長依田海軍大佐指揮下に第一艦隊に属し海軍戰技に於て第一等の集合成蹟を擧げ戰技優勝旗を授けられ御下賜品(銀盛花鉢一個)を辱ふす 以上﹄
(十)^ 小野圭司. “明治末期の軍事支出と財政・金融-戦時・戦後財政と転位効果の考察-”. 防衛研究所. 2023年6月11日閲覧。
(11)^ abcdefg決定版、日本の戦艦 2010, p. 109b.
(12)^ ab福留繁 1971, p. 73.
(13)^ abcdefghijk#肥前引揚回航pp.1-5﹃第一節 損害程度及ヒ沈没原因﹄
(14)^ McLaughlin, p. 61
(15)^ #旅順附近海戦一覧p.1﹃二月八日|夜|我驅逐隊旅順港外ニアル敵主力ヲ雷撃ス|戰艦﹁ツエサレウィチ﹂﹁レトヴィザン﹂巡洋艦﹁パルラダ﹂ノ三隻ニ魚雷命中大破戰闘力ヲ失フ|日露海戰第一發トス﹄
(16)^ 日露旅順海戦史、21ページ
(17)^ ab#福井戦艦物語壱110頁﹃◇肥前―レトウィザン﹄
(18)^ 日露旅順海戦史、39、41ページ
(19)^ #旅順附近海戦一覧p.31﹃三月二十二日|晝|我富士八島老鐵山ノ南東方ヨリ港内間接射撃ヲ行フ|陸上市街ニ損害ヲ與フ コノ爲敵艦港外ニ出ルニ至レリ﹄
(20)^ 日露旅順海戦史、61-62ページ
(21)^ 日露慮銃運海戦史、123-129
(22)^ 日露旅順海戦史、139-140
(23)^ 日露旅順海戦史、140ページ
(24)^ 日露旅順海戦史、237-238ページ
(25)^ 日露旅順海戦史、238ページ
(26)^ #亡失表p.1﹃レトウイザン|一二,九〇二|港内ニテ撃沈|後我 肥前﹄
(27)^ #日露戦役海軍写真集(2)コマ34﹃旅順口内の撃沈敵艦﹄
(28)^ #日露戦役海軍写真集(2)コマ39﹃旅順口内の損傷敵艦|損傷せるレトウ井ザン及ポルタワ﹄
(29)^ #日露戦役海軍写真集(3)コマ46﹃旅順口内の撃沈艦ボルタワ主砲臺よりレトウ井ザンを望む﹄
(30)^ #旅順要塞戦写真コマ98﹃(第八十)旅順港内(其一)﹄
(31)^ #東郷全集2巻コマ23(原本9頁)﹃旅順港に捕獲せられたる露艦、右よりペレスウエート、ポルタワ、レトウヰザン、ポビエーダ、パルラダの諸艦(三十八年四月八日撮影)﹄
(32)^ #日露戦役海軍写真集(1)コマ45﹃敵艦レト井ザンの惨状﹄
(33)^ #旅順要塞戦写真コマ109﹃(第九十一)旅順港内(其十二)﹄
(34)^ abc#収容艦船概要p.2﹃三、戰艦﹁レトウ井ザン﹂(排水量一二,七〇〇噸、三十八年五月二十五日引揚箸手、同年九月二十二日浮揚、同年二十四日肥前ト命名セラル同年十一月十九日旅順口發、同二十七日佐世保箸、囘航委員長ハ海軍大佐西山保吉、護衛艦鎭遠驅逐艦子日)﹄
(35)^ #肥前引揚回航pp.5-8﹃第二節 引揚作業﹄
(36)^ #日露戦役海軍写真集(4)コマ32﹃旅順沈没戰艦レトウイザン(肥前)の引揚﹄
(37)^ 明治38年9月25日官報第6673号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5﹃○戰利艦ノ浮揚 旅順口内戰利艦ノ浮揚ニ關シ本月二十二日接手シタル旅順口鎭守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)戰艦﹁レトウヰザン﹂(排水量一万二千九百二噸、速力十八節)ハ本日(二十二日)午後六時無滞浮揚セリ﹄
(38)^ #達明治38年9月p.13﹃達第百三十七號 戰利軍艦﹁レトヴヰザン﹂ヲ肥前ト命名セラル 明治三十八年九月二十四日 海軍大臣男爵山本権兵衛﹄
(39)^ ab#肥前引揚回航pp.12-14﹃第五節 令達﹄
(40)^ 明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。
(41)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53﹃明治三十八年十月二十五日(達一六八)軍艦及水雷艇類別等級表戰艦ノ欄一等ノ下﹁丹後﹂ノ次ニ﹁肥前、周防﹂ヲ加フ﹄
(42)^ #達明治38年10月p.9﹃達第百五十八號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄一等ノ下﹁丹後﹂ノ次ニ﹁肥前、周防﹂ヲ加フ 明治三十八年十月二十五日 海軍大臣男爵山本権兵衛﹄
(43)^ ab#肥前引揚回航pp.11-12﹃第四節 内地囘航﹄
(44)^ #達明治38年12月pp.6-7﹃達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛﹄
(45)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53-54﹃◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)﹄
(46)^ #達明治38年12月pp.8-9﹃達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、﹄
(47)^ #帝国最新軍艦帖、大正1年コマ38﹃戰艦 肥前 Battle ship "Hizen."﹄
(48)^ #福井戦艦物語弐40-41頁﹃日露戦争の戦利戦艦﹄
(49)^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 108–112日露戦争の鹵獲戦艦
(50)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 125.
(51)^ ab福留繁 1971, p. 70.
(52)^ 福留繁 1971, p. 69.
(53)^ abc福留繁 1971, p. 76.
(54)^ 福留繁 1971, p. 346福留繁年譜より。
(55)^ 麻田雅文﹃シベリア出兵﹄139ページ
(56)^ 麻田雅文﹃シベリア出兵﹄139-140ページ
(57)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59﹃大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス﹄
(58)^ #達大正10年9月p.1﹃達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 友三郎|戰艦ノ欄内﹁敷島、朝日、三笠、肥前、﹂ヲ、巡洋艦一等ノ欄内﹁淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進﹂ヲ、同二等ノ欄内﹁千歳、須磨、明石、新高、對馬、﹂ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内﹁周防﹂ノ次ニ﹁、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進﹂ヲ、同二等ノ欄内﹁武藏﹂ノ次ニ﹁、千歳、須磨、明石、新高、對馬﹂ヲ加フ﹄
(59)^ #達大正12年9月p.2﹃達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪﹄
(60)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60﹃◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内﹁香取、鹿島、薩摩、安藝﹂、巡洋戰艦ノ欄内﹁生駒、鞍馬、伊吹﹂及海防艦ノ欄内﹁三笠、肥前﹂ヲ削除ス﹄
(61)^ #達大正12年9月p.2﹃達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内﹁香取、鹿島、薩摩、安藝﹂、巡洋戰艦ノ欄内﹁生駒、鞍馬、伊吹﹂及海防艦ノ欄内﹁三笠、肥前﹂ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪﹄
(62)^ #廃棄艦処分答弁p.5﹃肥前 七月下旬 砲煌及魚雷ニ関スル実驗﹄
(63)^ #T1307艦船行動(2)p.4﹃七月十七日|攝津|佐伯|肥前曳航正午着﹄
(64)^ #航泊日誌(呉竹)T1306(2)p.7﹃大正十三年七月二十五日 金曜日(略)11-40|登舷礼式施行(肥前ニ対シ)﹄
(65)^ ﹁大正13年7月25日(金)海軍公報第3521号 p.37﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070292400 ﹃○艦船所在○七月二十五日午前十時調︻佐伯︼(長官)長門、陸奥、山城、(旗艦)五十鈴、多摩、夕張、(旗艦)天龍、(旗艦)迅鯨、常磐、(長官)金剛、比叡、(旗艦)由良、名取、長良、川内、(旗艦)北上、(旗艦)平戸、韓崎、若宮、勝力
(司令)驅一六、驅一〇、驅一二、驅一八、(司令)蔦、萩、藤、薄、(司令)谷風、江風、葵、菊、(司令)驅六、驅二、驅四、(司令)驅一、野風、沼風、波風、(司令)驅三、驅五、驅七、澤風、沖風、(司令)太刀風、帆風、羽風、秋風
(司令)潜四七、潜五七、潜四六、(司令)潜三〇、潜二九、潜二八、(司令)潜六二、(司令)潜五九、潜七二、潜四四
(司令)掃一、掃二、掃三 攝津﹄
(66)^ ﹁大正13年6月26日(木)海軍公報(部内限)号外 p.33﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070294700 ﹃二五|長門、陸奥|第六回教練射撃、肥前ヲ標的トスル星彈研究射撃發射(金剛、比叡、第一驅逐隊)|豊後水道附近(佐伯)﹄
(67)^ ﹁大正13年7月7日(月)海軍公報(部内限)1119号 p.5﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070294800 ﹃○訂正 六月二十六日公報(部内限)號外 聯合艦隊戰技施行豫定期日一覽表中七月二十五日ノ部ヲ|二五|長門、陸奥第六回教練射撃 肥前ヲ目標トスル星彈研究射撃發射(金剛、比叡、第一驅逐隊)|ニ、同二十八日ノ部中﹁第五一驅逐隊﹂ヲ﹁第二一驅逐隊﹂ニ、同三十一日ノ部チュ﹁第四二驅逐隊﹂ヲ﹁第四五驅逐隊﹂ニ、八月三日ノ部中﹁名取、長良﹂ヲ﹁由良、名取﹂ニ、同四日ノ部中﹁由良、平戸﹂ヲ﹁長良、川内、平戸﹂ニ孰モ訂正﹄
(68)^ ﹁海軍辞令公報 大正4年4月﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072071100
(69)^ ﹃官報﹄第1601号、大正6年12月3日。
(70)^ ﹃官報﹄第1883号、大正7年11月12日。
(71)^ ﹃官報﹄第3102号、大正11年12月2日。
(72)^ ab﹃官報﹄第3199号、大正12年4月2日。