武蔵 (スループ)
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武蔵 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍造船所[2](横須賀造船所[3]) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
スループ[4](巡洋艦[5]) → 三等海防艦 → 二等海防艦[5] |
建造費 | 592,861円[6] |
母港 | 横須賀(1915年4月1日時点)[7] |
艦歴 | |
起工 | 1884年10月4日[5] |
進水 | 1886年3月30日[5][2] |
竣工 | 1888年2月9日[5] |
除籍 | 1923年4月1日軍艦籍 |
その後 | 特務艦(測量艦)籍に編入 |
要目(竣工時) | |
排水量 |
計画:1,476英トン[6][3] 公試:1,502英トン[8][4][9] |
垂線間長 | 201 ft 0 in (61.265 m)[6] |
最大幅 | 35 ft 0 in (10.668 m)[6] |
深さ | 21 ft 6 in (6.553 m)[6] |
吃水 | 計画:平均15 ft 3 in (4.648 m)[3][6] |
ボイラー | 高円缶 6基[3][10] |
主機 | 横置還働2気筒2段膨張レシプロ 1基[10] |
推進 |
2翼スクリュープロペラ1軸 x 90rpm[10] 直径5.040m、ピッチ3.858m[10] |
出力 |
計画:自然通風1,600馬力[10][11]、1,622馬力[6] 公試:1,855馬力(実馬力)[10]、1,412馬力[8] |
帆装 | 帆面積:7,927平方フィート[6] |
速力 |
計画 11ノット[6]、または13ノット[11][10] 公試:12.43ノット[10]、または11.9ノット[8] |
燃料 |
石炭:定量150トン[6] 1904年:石炭151トン(満載)[12][8] |
乗員 | 1885年12月定員:250名[13] |
兵装 |
竣工時[6] 17cm砲 2門 12cm砲 5門 7.5cm砲 1門 1インチ機砲 4基 小口径機砲 2基 魚雷発射管 2門 |
武蔵︵むさし︶は、日本海軍のスループ[4]。
艦名は、旧国名武蔵国にちなんで名づけられた[5]。
この名を持つ日本海軍の艦船としては2代目[5]。
艦型[編集]
3本マストの鉄骨木皮スループ[2]。 船体、機関共に艦政局で計画された[2]。要目[編集]
1902年(明治35年)時点での要目は以下の通り[2] 。 ●排水量:1,664英トン ●垂線間長:61.264m ●最大幅:10.668m ●深さ:3.853m(中甲板下板下部より) ●吃水:前部4.685m、後部5.300m ●主機:2気筒ホリゾンタル・コンパウンド・エンジン。気筒直径は高圧1,238mm、低圧1,030mm、行程762mm。表面復水器。 ●ボイラー:円缶(直径2.972m、長さ2.667m、炉筒3基、受熱面積80.3495平方メートル) 6基。蒸気圧力70psi。 ●推進:2翼グリフィス型推進器、直径4.570m、ピッチ4.949m。回転数90.5rpm ●出力:1,781.88馬力 ●速力:全力12.43ノット、3/4全力9ノット ●燃料:石炭庫容積173.744立方メートル ●石炭消費量:全力42.753仏トン/日、3/4全力35,000ポンド/日 ●装帆:3檣、帆面積927.884平方メートル。 ●定員:将校12名、准将校8名、准士官10名、下士49名、卒115名、傭夫2名、計196名。 ●砲熕兵装 ●25口径17cmクルップ砲2門(甲鉄榴弾45発、通常榴弾80発) ●25口径12cmクルップ砲5門(甲鉄榴弾102発、通常榴弾198発) ●1インチ4連諾典砲4基(鋼鉄弾薬1,500発、鋼鉄鉛弾薬960発) ●小銃口径3連諾典砲2基(小銃口径弾薬10,000発) ●野砲:7.5cmクルップ砲1門(花環榴弾100発) ●水雷兵装:空欄(項目はあるが欄内に記入がない) ●搭載艇 ●30ftピンネース1隻 ●26ftカッター2隻 ●26ftガレー1隻 ●27ftギグ1隻 ●14ftディンギー1隻 ●28ft小蒸気船1隻 船体は鉄骨木皮、甲板3層、単底。煙突は楕円形1本、面積2.6347平方メートル。舵面積5.649平方メートル。艦歴[編集]
建造[編集]
横須賀海軍造船所[2]︵後の横須賀海軍工廠︶で1884年(明治17年)10月4日起工[5]、 (船体は1884年2月25日起工[2]、) 1886年(明治19年)3月30日午後2時に進水した[14]。 ﹁武蔵﹂の進水に際して新造艦船命名式が制定されて、その後の命名式のやり方がほぼ確立し、進水に際しては船上には錦が多数立てられ、艦首ではくす玉を開きハトや五色の紙片を散らした[14]。 ﹁武蔵﹂の命名式には明治天皇が参列の予定だったが、体調が優れないために代わって皇后が参列した[14]。 機関も横須賀海軍造船所で製造され1883年(明治16年)3月9日起工、1888年(明治21年)1月26日竣工[2]。 船体は1888年1月26日竣工[2]。 1888年(明治21年)2月9日に﹁武蔵﹂は竣工した[5]。巡洋艦[編集]
初めは巡洋艦と呼称されていた[5]。 1890年8月23日に第一種と定められた。 日清戦争には、仁川方面警備や僚艦とともに大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加。 1896年からは東北地方、北海道および千島列島の警備等にあたった[15]。海防艦[編集]
武蔵 | |
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基本情報 | |
母港 | 横須賀(1920年時)[16] |
艦歴 | |
要目(1920年調[16]) | |
常備排水量 | 1,502英トン |
垂線間長 | 201 ft 4 in (61.366 m) |
最大幅 | 35 ft 0 in (10.668 m) |
吃水 | 15 ft 3 in (4.648 m) |
ボイラー | 円缶 6基 |
主機 | 横置2気筒2段レシプロ |
出力 | 1,622馬力 |
速力 | 13ノット |
燃料 | 石炭:149トン |
乗員 | 133名 |
兵装 |
四一式8cm砲 4門 山内短5cm砲 4門 探照灯 1基 |
搭載艇 | 5隻 |
その他 | 船体:鉄骨木皮 |
二等海防艦[16]時 |
1898年(明治31年)3月21日、三等海防艦に類別された。
1897年(明治30年)からは海防艦籍のまま測量任務に従事し[17]、
1925年(大正14年)にかけて日本近海の水路測量に従事した。
1902年(明治35年)5月1日、暴風のため根室湾口で座礁し、7月17日から10月6日まで横須賀造船廠で修理を行った。
1904年(明治37年)5月に、大修理(大改造)を施行した[16]。
日露戦争に際しては、津軽海峡警備に従事した。
1912年(大正元年)8月28日、等級改定で三等が廃され二等海防艦に類別変更された。
1917年にロシアが十月革命後の内戦に入る。﹁武蔵﹂は1918年の夏の間、漁業者保護のためカムチャツカ半島周辺で行動し、またペトロパブロフスク︵現在のペトロパブロフスク・カムチャツキー︶で﹁温和派﹂︵内戦中の反革命派︶に対する物資支援も行った[18]。
測量艦[編集]
武蔵 | |
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基本情報 | |
艦種 | 測量艦[5] |
艦歴 | |
就役 | 1923年4月1日類別変更[5] |
除籍 | 1928年4月1日特務艦籍 |
その後 |
少年刑務所停泊船 1935年4月1日廃船 |
要目(1928年2月時[19]) | |
基準排水量 | 1,330英トン |
常備排水量 | 1,478英トン |
垂線間長 | 61.37m |
最大幅 | 10.67m |
吃水 | 平均:4.65m |
ボイラー | 円缶 6基 |
主機 | 横置二段膨張式 1基 |
推進 | 1軸 |
速力 | 14ノット |
乗員 | 110名 |
兵装 |
8cm砲 2門 探照灯 1基 ルーカス式探信儀[17] |
搭載艇 | 5隻 |
1922年(大正11年)4月1日に軍艦籍より除かれ、姉妹艦﹁大和﹂と共に特務艦︵測量艦︶となった[5]。
関東大震災後には海底の地形変化の調査を行った[20]。
1925年(大正14年)に発見された武蔵堆と、同年に本艦が測量した天売島-焼尻島間の武蔵水道は、いずれも本艦の名にちなんだもの[21][22]。
1928年(昭和3年)4月1日除籍[5]、7月6日に廃艦第5号と仮称。10月3日司法省に移管し、小田原少年刑務所三崎繋留宿泊船として使用された。
1935年(昭和10年)に廃船となった。
艦長[編集]
※﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂及び﹃官報﹄に基づく。階級は就任時のもの。艦長[編集]
- (心得)有馬新一 少佐:1887年10月27日 - 1889年5月15日
- (心得)松永雄樹 少佐:1889年5月15日 - 1890年5月13日
- 千住成貞 大佐:1890年5月13日 - 1891年6月17日
- 日高壮之丞 大佐:1891年6月17日 - 1892年6月3日
- 横尾道昱 大佐:1892年6月3日 - 1892年12月23日
- 沢良煥 大佐:1892年12月23日 - 1893年10月12日
- (心得)伊藤常作 少佐:1893年10月12日 - 1894年12月9日
- 伊藤常作 大佐:1894年12月9日 - 1895年6月18日
- 鹿野勇之進 大佐:1895年6月18日 - 1895年12月24日
- 東郷正路 大佐:1895年12月24日 - 1896年12月4日
- 遠藤増蔵 大佐:1896年12月4日 - 1897年12月27日
- 友野雄介 中佐:1897年12月27日 - 1898年3月1日
- 武井久成 大佐:1898年3月1日 - 1898年10月1日
- 永峰光孚 大佐:1898年10月1日 - 1898年12月3日
- 矢島功 大佐:1898年12月3日 - 1899年3月22日
- 松枝新一 大佐:1899年3月22日 - 1899年10月27日
- 加藤重成 大佐:1899年12月25日 - 1900年2月12日
- 滝川具和 大佐:1900年5月9日 - 1900年5月20日
- 井手麟六 中佐:1900年5月20日 - 1900年9月25日
- 徳久武宣 大佐:1900年12月8日 - 1901年4月23日
- 伊地知季珍 中佐:1901年4月23日 - 1901年7月5日
- 佐々木広勝 中佐:1901年7月5日 - 1902年3月13日
- 横尾純正 中佐:1902年3月13日 - 1902年8月11日
- 栃内曽次郎 中佐:1904年5月16日 - 1905年1月12日
- 花房祐四郎 中佐:1905年6月14日 - 1905年11月21日
- 山田猶之助 中佐:1905年11月21日 - 1906年11月5日
- 井内金太郎 中佐:1907年2月28日 - 1907年11月22日
- 水町元 中佐:1908年1月10日 - 1908年9月25日
- (兼)吉岡良一 中佐:1908年9月25日 - 1908年12月10日
- 川浪安勝 中佐:1908年12月10日 - 1909年10月11日
- 関重孝 中佐:1910年2月16日 - 1911年2月7日
- 松永光敬 中佐:1911年2月7日 - 1911年12月1日
- 平田得三郎 中佐:1912年3月16日 - 1912年12月1日
- 松村豊記 中佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 真田権太郎 中佐:1913年12月1日 -
- 海老原啓一 中佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 大見丙子郎 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 中桐啓太 中佐:1916年12月1日 -
- 東条政二 中佐:1917年12月1日[23] -
- 前川義一 中佐:1918年12月1日[24] -
- 水谷耕喜 中佐:1919年12月1日[25] - 1920年12月1日[26]
- 日高寛 中佐:1920年12月1日[26] - 1921年9月14日[27]
- 吉田茂明 中佐:1921年9月14日[27] - 1922年4月1日
特務艦長[編集]
- 吉田茂明 中佐:1922年4月1日[28] - 1922年11月1日[29]
- 隅田益吉 中佐:1922年11月1日[29] - 1923年1月15日[30]
- 安藤良治 中佐:1923年1月20日[31] - 1923年11月10日[32]
- 吉武純蔵 中佐:1923年11月10日 - 1924年3月8日
- (兼)梅田文鹿 中佐:1924年3月8日[33] - 1924年4月10日[34]
- 鳥野団一 中佐:1924年4月10日[34] - 1924年12月1日[35]
- 松山為麿 中佐:1924年12月1日[35] - 1925年7月1日[36]
- 毛内効 中佐:1925年7月1日 - 12月1日
姉妹艦[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ #海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.26、写真No.2024の写真解説。
(二)^ abcdefghi平賀アーカイブ/武蔵要目表.
(三)^ abcd#日本近世造船史明治(1973)428-433頁、﹁内国製艦艇表(試運転成績)﹂
(四)^ abc#海軍軍備沿革p.49
(五)^ abcdefghijklmn日本海軍艦船名考 1928, pp. 9–108 武蔵 ムサシ Musasi.
(六)^ abcdefghijk#日本近世造船史明治(1973)352-355頁、﹁艦艇表(計画要領)﹂
(七)^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
(八)^ abcd#帝国海軍機関史(1975)下巻p.282、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
(九)^ ﹃大日本帝国軍艦帖﹄
(十)^ abcdefgh#帝国海軍機関史(1975)上巻p.373(第二巻三一頁)
(11)^ ab#日本近世造船史明治(1973)368頁。
(12)^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
(13)^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.170、明治18年12月25日(丙73)大和艦武蔵艦定員
(14)^ abc#海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.26、写真No.2025の写真解説。
(15)^ 明治29年8月27日付 武蔵艦長東郷正路作成﹁明治29年8月 軍艦武蔵北海道警備に関する第二回報告﹂、アジア歴史資料センター ref: C06091055700。
(16)^ abcd#戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一﹁大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦﹂
(17)^ ab日本海軍特務艦船史 1997, p. 38.
(18)^ 麻田雅文﹃シベリア出兵﹄172-173ページ
(19)^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1084-1085、昭和3年2月24日(内令第43号)艦船要目公表範囲。
(20)^ #日本海軍全艦艇史(1994)p.872、写真No.2759の写真解説。
(21)^ マイペディア 武蔵堆の項。
(22)^ 羽幌町観光協会ホームページ [1]
(23)^ ﹃官報﹄第1601号、大正6年12月3日。
(24)^ ﹃官報﹄第1900号、大正7年12月3日。
(25)^ ﹃官報﹄第2199号、大正8年12月2日。
(26)^ ab﹃官報﹄第2501号、大正9年12月2日。
(27)^ ab﹃官報﹄第2738号、大正10年9月15日。
(28)^ ﹃官報﹄第2898号、大正11年4月4日。
(29)^ ab﹃官報﹄第3077号、大正11年11月2日。
(30)^ ﹃官報﹄第3136号、大正12年1月17日。
(31)^ ﹃官報﹄第3140号、大正12年1月22日。
(32)^ ﹃官報﹄第3367号、大正12年11月12日。
(33)^ ﹃官報﹄第3461号、大正13年3月10日。
(34)^ ab﹃官報﹄第3487号、大正13年4月11日。
(35)^ ab﹃官報﹄第3684号、大正13年12月2日。
(36)^ ﹃官報﹄第3857号、大正14年7月2日。