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「西園寺実充」の版間の差分

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== 経歴 ==

== 経歴 ==

[[永正]]7年([[1510年]])[[西園寺公家]]の子として生まれる(一説には公家の父[[西園寺公季|公季]]の子とも言われる)。伊予南部で勢力を誇り、居城を[[松葉城]]から[[黒瀬城]]に移したが、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に[[宇都宮豊綱]]と領土をめぐって争い、その戦いの中で嫡男の[[西園寺公高|公高]]が討死するという敗北を喫した。このため、[[河野通宣 (左京大夫)|河野通宣]]の仲介を受けて豊綱と和睦する。

[[永正]]7年([[1510年]])[[西園寺公家]]の子として生まれる(一説には公家の父[[西園寺公季|公季]]の子とも言われる)。伊予南部で勢力を誇り、居城を[[松葉城]]から[[黒瀬城]]に移したが、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に[[宇都宮豊綱]]と領土をめぐって争い、その戦いの中で嫡男の[[西園寺公高|公高]]が討死するという敗北を喫した。このため、[[河野通宣 (左京大夫)|河野通宣]]の仲介を受けて豊綱と和睦する。




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跡を甥で婿養子の公広が継いだ。

跡を甥で婿養子の公広が継いだ。

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*[[永禄]]3年([[1560年]]) 7月18日:[[従五位|従五位下]]、[[近衛府|左近衛少将]]

*[[永禄]]3年([[1560年]]) 7月18日:[[従五位|従五位下]]、[[近衛府|左近衛少将]]

*永禄8年([[1565年]]) 日付不詳:[[出家]]

*永禄8年([[1565年]]) 日付不詳:[[出家]]


== 脚注 ==

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{{西園寺家当主|第7代||伊予西園寺家}}

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2021年8月29日 (日) 04:10時点における版

 

凡例

西園寺実充
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年
死没 永禄8年(1565年
別名 黒瀬殿(尊称)、実清、実光
官位 従五位下左近衛少将
氏族 西園寺氏
父母 父:西園寺公家
兄弟 実充公宣
公高、娘(勧修寺基賢室)、娘(明石寺尊栄室)、娘(土居清晴室)、娘(吉田充次室)、西姫(西園寺公広正室)
養子:公広
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西  西


71510西21556

31560815655西[1]56

婿



脚注

  1. ^ 『言継卿記』永禄8年5月9日条