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早くから出家し、[[鶴岡八幡宮]]若宮別当︵雪下殿︶'''空然'''︵こうねん︶として僧籍にあった。[[永正の乱]]において、父と兄・高基が対立すると、[[下野国]]に移って'''宗済'''と改名した。その後、還俗して名を'''足利義明'''と改め、[[上総国]]真里谷城主の[[真里谷恕鑑|真里谷信清]]の支援のもと、[[下総国]][[小弓城]]︵南生実城︶を攻撃して[[千葉氏]]家臣の[[原胤隆]]・[[原友胤]]・[[原虎胤]]・[[高城胤吉]]らを破って同城を占拠する。そして、﹁小弓公方﹂を自称して古河公方と対立した。[[上杉朝良]]の死去を契機として高柳から小弓に移座している{{Sfn|黒田|1994}}。この義明の高柳から小弓入部は、通説では[[永正]]14年︵[[1517年]]︶10月とされてきたが、実際は永正15年︵[[1518年]]︶7月であることが[[佐藤博信]]により判明した{{Sfn|佐藤|1987}}。なお、義明が東北を放浪していたという逸話は根拠のない俗説で完全な誤りである。また、旧来の通説では義明の死後に築城されたと考えられてきた[[生実城]]︵北生実城︶の築城年代が室町時代に遡ることが判明し、原氏が奪われた後に義明が御所にした﹁小弓﹂はこちらの生実城ではないかとする説もある<ref>簗瀬裕一 |
早くから出家し、[[鶴岡八幡宮]]若宮別当︵雪下殿︶'''空然'''︵こうねん︶として僧籍にあった。[[永正の乱]]において、父と兄・高基が対立すると、[[下野国]]に移って'''宗済'''と改名した。その後、還俗して名を'''足利義明'''と改め、[[上総国]]真里谷城主の[[真里谷恕鑑|真里谷信清]]の支援のもと、[[下総国]][[小弓城]]︵南生実城︶を攻撃して[[千葉氏]]家臣の[[原胤隆]]・[[原友胤]]・[[原虎胤]]・[[高城胤吉]]らを破って同城を占拠する。そして、﹁小弓公方﹂を自称して古河公方と対立した。[[上杉朝良]]の死去を契機として高柳から小弓に移座している{{Sfn|黒田|1994}}。この義明の高柳から小弓入部は、通説では[[永正]]14年︵[[1517年]]︶10月とされてきたが、実際は永正15年︵[[1518年]]︶7月であることが[[佐藤博信]]により判明した{{Sfn|佐藤|1987}}。なお、義明が東北を放浪していたという逸話は根拠のない俗説で完全な誤りである。また、旧来の通説では義明の死後に築城されたと考えられてきた[[生実城]]︵北生実城︶の築城年代が室町時代に遡ることが判明し、原氏が奪われた後に義明が御所にした﹁小弓﹂はこちらの生実城ではないかとする説もある<ref>{{Cite journal|和書|author=簗瀬裕一|title=小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭|journal=中世城郭研究|issue=6号|year=2000}}/所収:{{Citation|和書|editor=滝川恒昭|title=旧国中世重要論文集成 安房国 上総国|publisher=戎光祥出版|year=2022|pages=329-358|isbn=978-4-86403-378-7}}</ref>。
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その後、対外政策で信清と対立し、信清が死去すると[[武田氏#上総 |
その後、対外政策で信清と対立し、信清が死去すると[[武田氏#上総武田氏|真里谷氏]]の内紛に介入し、[[真里谷信隆]]を追放し[[真里谷信応|信応]]を当主とした。一方で、信隆は高基とその子・[[足利晴氏|晴氏]]、そして[[相模国]]の後北条氏と結び義明と敵対する。[[天文 (元号)|天文]]7年︵[[1538年]]︶、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、[[北条氏綱]]と決戦を行った︵[[国府台合戦#第一次国府台合戦(天文7年/1538年)|第一次国府台合戦]]︶。義明は武勇に優れ、自ら陣頭指揮をとり、一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、[[里見義堯]]が消極的で軍の士気が上がらず、次第に劣勢となる。その中で弟の[[足利基頼|基頼]]{{Sfn|平田|1984}}、嫡男の[[足利義純 (戦国時代)|義純]]が討ち死にし、この報を耳にした義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。
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義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の[[足利頼純]](頼淳)は初めは里見義堯・[[里見義弘|義弘]](義弘の正室[[青岳尼]]は義明の娘)、後に[[豊臣秀吉]]の庇護を受けて |
義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の[[足利頼純]](頼淳)は初めは里見義堯・[[里見義弘|義弘]](義弘の正室[[青岳尼]]は義明の娘)、後に[[豊臣秀吉]]の庇護を受けて生き延び、孫の代にはとこにあたる古河公方の後裔[[足利氏姫]]をめとって[[喜連川氏]]と改姓した。関ヶ原の戦いの後に成立した[[江戸幕府]]から[[喜連川藩]]5000石の領地を与えられ、他家からの養子を迎えつつ明治維新以降も足利に復姓して存続している。 |
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== 脚注 == |
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2024年5月22日 (水) 13:15時点における最新版
足利 義明 | |
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時代 | 室町時代後期(戦国時代) |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文7年10月7日(1538年10月29日) |
改名 | 空然 → 宗済 → 足利義明 |
別名 | 小弓公方 |
墓所 | 千葉県市原市八幡 御墓堂墓地内 |
官位 | 右兵衛佐 |
氏族 | 足利氏(古河公方) |
父母 | 父:足利政氏 |
兄弟 | 高基、義明、基頼、貞岩昌永(甘棠院開祖) |
子 | 義純、頼純、雪下等覚院某、青岳尼、足利晴直(上杉憲寛)正室、旭山尼 |
生涯[編集]
第2代古河公方・足利政氏の子として誕生した。
早くから出家し、鶴岡八幡宮若宮別当︵雪下殿︶空然︵こうねん︶として僧籍にあった。永正の乱において、父と兄・高基が対立すると、下野国に移って宗済と改名した。その後、還俗して名を足利義明と改め、上総国真里谷城主の真里谷信清の支援のもと、下総国小弓城︵南生実城︶を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆・原友胤・原虎胤・高城胤吉らを破って同城を占拠する。そして、﹁小弓公方﹂を自称して古河公方と対立した。上杉朝良の死去を契機として高柳から小弓に移座している[1]。この義明の高柳から小弓入部は、通説では永正14年︵1517年︶10月とされてきたが、実際は永正15年︵1518年︶7月であることが佐藤博信により判明した[2]。なお、義明が東北を放浪していたという逸話は根拠のない俗説で完全な誤りである。また、旧来の通説では義明の死後に築城されたと考えられてきた生実城︵北生実城︶の築城年代が室町時代に遡ることが判明し、原氏が奪われた後に義明が御所にした﹁小弓﹂はこちらの生実城ではないかとする説もある[3]。
その後、対外政策で信清と対立し、信清が死去すると真里谷氏の内紛に介入し、真里谷信隆を追放し信応を当主とした。一方で、信隆は高基とその子・晴氏、そして相模国の後北条氏と結び義明と敵対する。天文7年︵1538年︶、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った︵第一次国府台合戦︶。義明は武勇に優れ、自ら陣頭指揮をとり、一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、里見義堯が消極的で軍の士気が上がらず、次第に劣勢となる。その中で弟の基頼[4]、嫡男の義純が討ち死にし、この報を耳にした義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。
義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の足利頼純︵頼淳︶は初めは里見義堯・義弘︵義弘の正室青岳尼は義明の娘︶、後に豊臣秀吉の庇護を受けて生き延び、孫の代にはとこにあたる古河公方の後裔足利氏姫をめとって喜連川氏と改姓した。関ヶ原の戦いの後に成立した江戸幕府から喜連川藩5000石の領地を与えられ、他家からの養子を迎えつつ明治維新以降も足利に復姓して存続している。