「足利義氏 (足利家3代目当主)」の版間の差分
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2021年10月5日 (火) 13:41時点における版
足利義氏 | |
---|---|
時代 | 鎌倉時代前期 |
生誕 | 文治5年(1189年) |
死没 | 建長6年11月21日(1255年1月1日) |
改名 | 義氏→正義(法名) |
別名 | 上総三郎、左馬頭入道正義 |
墓所 | 栃木県足利市の法楽寺 |
官位 | 三河守護、陸奥守、武蔵守、左馬頭、正四位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源実朝→藤原頼経 |
氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
父母 | 父:足利義兼、母:時子(北条時政の娘) |
兄弟 | 畠山義純、桃井義助、義氏、藤原親兼室、野田朝氏室 |
妻 | 正室:北条泰時の娘 |
子 | 吉良長氏、泰氏、吉良義継、新田政義室、能子(四条隆親室)、世良田頼氏室、佐竹義重室(養女) |
足利 義氏︵あしかが よしうじ︶は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男[1]。足利宗家3代当主。母は北条時政の娘時子[2]。
武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の玄孫であり室町幕府初代将軍足利尊氏は来孫に当たる。
足利義氏墓所︵法楽寺︶
三男ながら、正室の北条氏の所生であったため家督を継ぐ。そのため、終生北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている。
承久の乱で京︵京都府京都市︶と鎌倉︵神奈川県鎌倉市︶の間の東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落としたときに関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのもこの為である。三河国では源頼政の孫大河内顕綱などを家臣に入れ勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘︵現在の愛知県西尾市︶に住ませて足利氏の分家吉良氏︵後に今川氏が分家︶を誕生させた。
三河守護職、陸奥守、武蔵守などを歴任し、仁治3年︵1241年︶出家。
建長元年︵1249年︶、正義山法楽寺︵栃木県足利市︶を建立している。
建長6年︵1255年︶11月21日、死去した。
生涯
逸話
●父である義兼が、理真上人に請うて変成男子の術法を行じて誕生した男子が義氏であるという伝承がある[3]。同名の人物
●足利義氏 – 子孫。古河公方。足利義輝より﹁義﹂の字を賜ったため同名を名乗ることとなった。脚注
(一)^ “︻坂東武士の系譜・第2部︵18︶︼足利義氏 三河に基盤、足利氏隆盛の基礎︵1/2ページ︶”. 産経ニュース (2018年2月7日). 2020年10月8日閲覧。
(二)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 32頁。
(三)^ 足利厄除大師・龍泉寺︻男子変性金剛大日如来︼