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== 経歴 == |
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2012年8月15日 (水) 02:58時点における版
阿野実為 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 応永6年(1399年)頃 |
改名 | 匡円(法名) |
官位 | 従一位内大臣(南朝) |
主君 | 後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流、滋野井庶流、阿野家 |
父母 | 父:阿野季継 |
兄弟 | 実村?、実為 |
子 | 公為、女子[1] |
阿野 実為︵あの さねため︶は、南北朝時代の公卿。右中将阿野公廉の孫にして、権大納言阿野季継の子[2]。公廉の女・廉子︵新待賢門院︶が後醍醐天皇の寵妃であった関係から、阿野家は代々南朝方公卿として活躍した。
経歴
具体的な官歴は不明だが、正平6年/観応2年︵1351年︶頃には右近衛少将、正平13年/延文3年︵1358年︶5月には﹁蔵人頭左中弁兼右近衛権中将﹂[3]であるから、間もなく参議として公卿に列したのであろう。正平20年/貞治4年︵1365年︶には権中納言、天授元年/永和元年︵1375年︶には権大納言として見えるが、天授3年/永和3年︵1377年︶7月以前に大納言に転じ、弘和元年/永徳元年︵1381年︶には前大納言である。その後、後亀山天皇の信任を得て内大臣に昇り、元中6年/康応元年︵1389年︶6月には既に散位であった[4]。元中9年/明徳3年︵1392年︶の南北朝合一に際しては、吉田宗房とともに対幕府交渉に臨み、閏10月に天皇に供奉して吉野から入洛した。合一後は落飾して匡円と号し、嵯峨大覚寺に入った後亀山上皇︵法皇︶に近仕しているが、応永5年︵1398年︶から同7年︵1400年︶の間に薨去したとみられる。
南朝歌壇においては、正平8年︵1353年︶の﹃内裏千首﹄の他、﹃内裏三百六十首歌﹄・﹃五百番歌合﹄などに詠進し、また、嘉喜門院の要請を受けてその家集︵﹃嘉喜門院集﹄[5]︶を清書した。﹃新葉和歌集﹄には11首が入集する。
脚注
(一)^ 吹上本﹃帝王系図﹄の巻末付紙によれば、後亀山天皇の生母は実為の女である。村田正志は、この女が嘉喜門院と同一人ではないかと憶測している。
(二)^ ﹃公卿補任﹄永徳2年︵壬戌︶非参議従三位﹁藤公為﹂袖書による。﹃尊卑分脈﹄﹃阿野家譜﹄に﹁季継―実村―実為﹂とつなげるのは誤りであろう。
(三)^ ﹃佐田文書﹄正平13年5月29日付後村上天皇口宣案
(四)^ ﹃観心寺文書﹄元中6年6月18日付阿野実為御教書に﹁阿野前内大臣殿﹂として見える。同文書によれば、実為は当時新宣陽門院の別当を務めていたか。
(五)^ 同集は巻首の袖書に実為の詠歌が記されているため、かつては誤って﹃実為集︵実為大納言集とも︶﹄と題されていた経緯がある。