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'''須見 新一郎'''︵すみ しんいちろう、[[1892年]]︵[[明治]]25年︶[[3月30日]]<ref name=sougou>﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、84頁。</ref> - [[1977年]]︵[[昭和]]52年︶[[4月15日]]<ref name=sougou/>︶は、昭和の[[大日本帝国陸軍]][[軍人]]。[[1939年]]︵昭和14年︶6月以降のノモンハンの戦闘に[[第7師団 (日本軍)|第7師団]][[歩兵第26連隊]]長として従事し、生き残ることの出来たわずか3人の連隊長の1人。最終階級は陸軍[[大佐]]。
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(他の2人は |
(他の2人は[[野戦重砲兵第7連隊]]長、[[鷹司信熙]]大佐、[[野戦重砲兵第1連隊]]長、[[三嶋義一郎]])<ref name=岩城38>『ノモンハン事件の虚像と実像』38頁。</ref> |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[東京府]]出身。須見泰三郎の三男として生まれる<ref name=sougou/>。[[高等小学校]]、[[東京陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校予科]]、[[陸軍幼年学校|中央幼年学校本科]]を経て、[[1913年]]([[大正]]2年)5月に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]([[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#25期|第25期]])を卒業し、同年12月[[歩兵]][[少尉]]に任官し[[歩兵第66連隊]]付となる<ref name=sougou/><ref name="so">『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』347頁。</ref>。 |
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[[1922年]]︵大正11年︶11月、[[陸軍大学校]]︵[[陸軍大学校卒業生一覧#34期 ︵大正11年卒︶|第34期]]︶を卒業し[[陸軍省]][[軍務局]]歩兵課に配属<ref name="sougou" /><ref>﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、573頁。</ref>。同年12月、歩兵第66連隊[[中隊]]長に就任<ref name="sougou" />。
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[[陸軍大学校]]卒 |
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[[1924年]]︵大正13年︶3月、軍務局付勤務となり、軍務局課員、整備局課員、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]][[参謀]]を務めた。
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黒龍江省黒河等で特務機関長 |
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[[1928年]](昭和3年)8月、歩兵[[少佐]]に進級<ref name="sougou" />。 |
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転じて歩兵第26連隊長 |
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[[1930年]]︵昭和5年︶3月、[[歩兵第2連隊]][[大隊]]長に就任し、整備局課員︵動員課︶、兼[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員を務めた。
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[[ノモンハン事件]]後予備役編入 |
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[[1933年]]︵昭和8年︶3月、歩兵[[中佐]]に昇進<ref name="sougou" />。[[満州国]]出張︵ハルピン駐在︶、[[陸軍技術本部]]付、[[関東軍]][[司令部]]付、[[歩兵第35連隊]]付を経て、[[1935年]]︵昭和10年︶12月、[[黒河省]]の[[黒河市|黒河]][[特務機関]]長に就任<ref name="sougou" />。
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[[1936年]](昭和11年)8月、[[綏芬河市|綏芬河]]特務機関長に転任<ref name="sougou" />。 |
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第7師団歩兵第26連隊は、[[小松原道太郎]]中将率いる第23師団強化のため6月20日に配属された。<ref>『ノモンハン事件の虚像と実像』</ref> |
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[[1937年]](昭和12年)8月、歩兵大佐に進み[[麻布連隊区]][[司令官]]に就任<ref name="sougou" />。 |
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⚫ | サイダー瓶を使った[[火炎瓶]]攻撃を組織的に実施し、83両の敵戦車(部隊記録)を破壊したことでも有名である |
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[[1938年]]︵昭和13年︶7月、歩兵第26連隊長となる<ref name="sougou" />。[[ノモンハン事件]]後、1939年︵昭和14年︶10月、関東軍司令部付となり<ref name="sougou" />、同年12月1日、待命、同月20日に[[予備役]]編入となる<ref name="so" />。
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その後、南支調査会常務理事(1940年1月-1943年11月)、原田積善会理事長(1943年11月-1945年10月)を務めた<ref name=sougou/>。 |
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戦後は[[公職追放]]を経て<ref>公職追放の該当事項は「郷軍連合」。({{citation |
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| 和書 |
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| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿 |
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| editor = 総理庁官房監査課 |
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| publisher = 日比谷政経会 |
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| year = 1949 |
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| id = {{NDLJP|1276156}} |
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| page = [{{NDLDC|1276156/618}} 595] |
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| ref = harv |
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⚫ | 第7師団歩兵第26連隊は、[[小松原道太郎]][[中将]]率いる[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]強化のため6月20日に配属された<ref name=岩城38/>。サイダー瓶を使った[[火炎瓶]]攻撃を組織的に実施し、83両の敵戦車(部隊記録)を破壊したことでも有名である<ref name=岩城38/>。 |
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8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、辻 |
8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、[[辻政信]][[参謀]]の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄197頁。</ref>。
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ノモンハン事件について、戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた[[荻洲立兵]]中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」<ref>『証言私の昭和史②戦争への道』文春文庫、443、447頁。</ref> |
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戦後長野県上山田温泉三楽荘の主人となり、[[司馬遼太郎]]の取材を受けているが、その後、司馬が[[大本営]][[陸軍]][[参謀]]だった[[瀬島龍三]]と対談したことを知ると、それまでの取材内容の使用及び今後の取材を拒否した<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄39頁。</ref>。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449981 昭和9年9月1日調﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂]︵[[国立国会図書館デジタルコレクション]]︶によると、須見は[[1934年|1934年︵昭和9年︶]]、[[富山市]]に駐屯する[[歩兵第35連隊]]附[[中佐]]︵p.82︶、瀬島は歩兵第35連隊附[[少尉]]︵p.324︶として同じ連隊で勤務をしていた。
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== 関連書籍 == |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*『証言・私の昭和史②戦争への道』文春文庫、1989年。 |
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* [[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]]、2005年。 |
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* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
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[[Category:大日本帝国陸軍軍人]] |
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[[Category:関東軍の人物]] |
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[[Category:ノモンハン事件の人物]] |
[[Category:ノモンハン事件の人物]] |
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[[Category:公職追放者]] |
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[[Category:東京都出身の人物]] |
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[[Category:1892年生]] |
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[[Category:1977年没]] |