「高岡熊雄」の版間の差分
89z-tyt.g-1 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし |
||
(2人の利用者による、間の3版が非表示) | |||
40行目: | 40行目: | ||
== 年譜 == |
== 年譜 == |
||
*[[1871年]]8月15日:[[島根県]][[鹿足郡]][[津和野町]]に生まれる。 |
*[[1871年]]8月15日:[[島根県]][[鹿足郡]][[津和野町]]に生まれる。 |
||
*[[1895年]]6月:[[札幌農学校]](現[[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|北大農学部]])農学科卒業 |
*[[1895年]]6月:[[札幌農学校]](現[[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|北海道大学農学部]])農学科卒業 |
||
*[[1896年]]7月:札幌農学校農芸伝習科講師 |
*[[1896年]]7月:札幌農学校農芸伝習科講師 |
||
*[[1897年]]12月:札幌農学校助教授 |
*[[1897年]]12月:札幌農学校助教授 |
||
56行目: | 56行目: | ||
*[[1946年]]9月:[[公職追放]]処分を受ける( - [[1950年]]10月)。 |
*[[1946年]]9月:[[公職追放]]処分を受ける( - [[1950年]]10月)。 |
||
*1950年10月:北海道綜合開発委員会委員長 |
*1950年10月:北海道綜合開発委員会委員長 |
||
*[[1961年]]12月29日:没。享年90。 |
*[[1961年]]12月29日‥没。享年90。墓所は[[平岸霊園]]。
|
||
== 著訳書 == |
== 著訳書 == |
||
75行目: | 75行目: | ||
=== 訳書 === |
=== 訳書 === |
||
*フォン・デア・ゴルツ『農政学』裳華房、[[1901年]] |
*フォン・デア・ゴルツ『農政学』[[裳華房]]、[[1901年]] |
||
:日本で最初に「農政学」と名付けられた書籍として知られる。 |
:日本で最初に「農政学」と名付けられた書籍として知られる。 |
||
88行目: | 88行目: | ||
== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
||
*[[太田原高昭]] 『北海道農業の思想像』 |
*[[太田原高昭]] 『北海道農業の思想像』[[北海道大学図書刊行会]]、[[1992年]] ISBN 483293161X |
||
*竹野学 『樺太農業と植民学 - 近年の研究動向から -』札幌大学経済学部附属地域経済研究所、[[2005年]] |
*竹野学 『樺太農業と植民学 - 近年の研究動向から -』札幌大学経済学部附属地域経済研究所、[[2005年]] |
||
*[[北海道大学]] 『北大百年史:通説』 [[1982年]] |
*[[北海道大学]] 『北大百年史:通説』 [[1982年]] |
||
:﹁北大百年の諸問題﹂に田中愼一﹁植民学の成立﹂、崎浦誠治﹁北海道農政と北大﹂、湯沢誠﹁北海道の小作問題と北大﹂、長岡新吉﹁北大における満蒙研究﹂、高倉新一郎﹁北方文化研究室顛末﹂が収録。
|
:﹁北大百年の諸問題﹂に田中愼一﹁植民学の成立﹂、崎浦誠治﹁北海道農政と北大﹂、湯沢誠﹁北海道の小作問題と北大﹂、長岡新吉﹁北大における満蒙研究﹂、高倉新一郎﹁北方文化研究室顛末﹂が収録。
|
||
*北海道大学百二十五年史編集室 『北大百二十五年史:論文・資料編』 |
*北海道大学百二十五年史編集室 『北大百二十五年史:論文・資料編』[[北海道大学]]、[[2003年]] |
||
:竹野学「植民地開拓と「北海道の経験」」を収録。 |
:竹野学「植民地開拓と「北海道の経験」」を収録。 |
||
2023年10月9日 (月) 14:19時点における最新版
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1871年9月29日![]() |
死没 | 1961年12月29日 (90歳没) |
出身校 | 札幌農学校 |
子供 | 三男:高岡周夫 (統計学者) |
学問 | |
研究分野 | 農学 |
研究機関 | 北海道帝国大学 |
略歴[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Hidari_mitsudomoe.svg/150px-Hidari_mitsudomoe.svg.png)
業績・学説[編集]
札幌農学校出身者で新渡戸稲造・佐藤昌介に師事、さらに留学先のドイツでゴルツ・シュモラー・ワグナーら歴史学派・社会政策学派に学ぶことによりドイツ農政学・統計学の学統を継承した︵当時の札幌農学校は開校初期に主流を占めていた英米的な大農・畑作中心の農学から、ドイツ農学を導入し中小農・米作中心主義への学風の転換期に当たっていた︶。また社会政策学会︵1897年発足︶および農業経済学会︵1925年発足︶会長、帝国農会特別議員をそれぞれ務め、日本農政の政策決定過程にも関与した。 日本の農業経済分析に統計学的手法を導入、農事統計調査を通じて土地所有の﹁中農標準化﹂傾向を指摘した。これを根拠として経営規模の適正化を中心とする小農保護論を展開、さらにそれを促進する具体的方策として国内外における移植民送出と国内地主制の変革を提唱した。また小農の共同・組合組織による大量販売の有利性を主張し、産業組合︵現在の農協︶による農業界の革新を論じた。 北大における植民学は、﹁本国に対する政治的従属関係﹂を重視する東大・京大の植民政策学と異なり、農業移民をいかに定着させるかという﹁拓殖学﹂の性格を色濃く有していたとされるが、このような北大植民学の路線を確立したのが高岡であった。高岡から植民学講座を引き継ぎ担当教授となった上原轍三郎によれば、高岡の立場は﹁もし農地を︵規模適正化により︶沢山農民に与えるとすれば、どうしても農民が余る。余った農民は日本の国では入れないんだからどうしても海外に行かなければならない。このためには移民と植民・移植民をやらなければならない﹂というものであった︵この点、マルサス流人口論に依拠して人口圧力による民族進出を肯定、満蒙開拓移民の旗振り役となった那須皓の立場とも若干異なる︶。 高岡の下で学び、特に彼の植民学・北海道農業史研究を継承する人物としては、主著﹃アイヌ政策史﹄で知られる高倉新一郎や、北海道経済史の研究者の南鉄蔵、農業経済学や農政学の研究者では池田善長、川村琢、湯沢誠、上原轍三郎、野口祥昌らがいる。年譜[編集]
●1871年8月15日‥島根県鹿足郡津和野町に生まれる。 ●1895年6月‥札幌農学校︵現北海道大学農学部︶農学科卒業 ●1896年7月‥札幌農学校農芸伝習科講師 ●1897年12月‥札幌農学校助教授 ●1898年‥新渡戸稲造の後任として﹁農政学植民学﹂講座を担当。 ●1901年2月‥農政学・農業経済学研究のためドイツ留学に出発。 ●1904年12月‥3年半の留学から帰国。札幌農学校教授に就任。 ●1907年9月‥東北帝国大学農科大学教授 ●1910年11月‥法学博士 ●1918年4月‥北海道帝国大学農科大学教授 ●1919年2月‥北海道帝国大学農学部教授 ●1919年7月‥農学博士 ●1922年8月‥欧米視察に出発︵ - 1923年7月に帰国︶。 ●1933年12月‥北海道帝国大学第3代総長に就任︵ - 1937年2月︶。 ●1934年6月1日‥帝国学士院会員[1] ●1946年9月‥公職追放処分を受ける︵ - 1950年10月︶。 ●1950年10月‥北海道綜合開発委員会委員長 ●1961年12月29日‥没。享年90。墓所は平岸霊園。著訳書[編集]
著書[編集]
●﹃札幌沿革史﹄1897年 ●﹃北海道農論﹄裳華書房、1899年 ●Die innere Kolonisation Japans (Staats- und socialwissenschaftliche Forschungen ; Bd. 23, Heft 3), Duncker & Humblot, 1904︵独文︶ ●﹃農業政策 第1﹄︵經濟全書‥第2巻第3編︶宝文館、1912年 ●﹃札幌区区勢調査研究﹄札幌区役所、1920年 ●﹃農政問題研究﹄成美堂書店、1922年 ●﹃ブラジル移民研究﹄宝文館、1925年 ●﹃第二農政問題研究﹄成美堂書店、1929年 ●﹃樺太農業植民問題﹄西ケ原刊行会、1935年 ●﹃第三農政問題研究﹄成美堂書店、1936年 ●﹃北支移民の研究﹄︵東亞經濟研究‥2︶有斐閣、1943年︵上原轍三郎との共著︶ ●﹃ドイツ内南洋統治史論﹄日本学術振興会、1954年 ●﹃イタリア領リビア開発政策史論﹄北海学園大学開発研究所、1995年︵蝦名賢造編︶訳書[編集]
●フォン・デア・ゴルツ﹃農政学﹄裳華房、1901年 日本で最初に﹁農政学﹂と名付けられた書籍として知られる。親族[編集]
●父‥高岡道敬 ●兄‥高岡直吉︵なおよし、1860 - 1942︶は札幌農学校を卒業し、島根県知事・門司市長・札幌市長︵初代︶などを歴任。郷里である津和野町では高岡兄弟の功績をたたえ﹁高岡通り﹂を1998年に創設している。 ●本人‥高岡熊雄 ●三男‥高岡周夫 - 統計学者、元北海学園大学学長代理、京大院卒、札幌一中︵札幌南高︶卒。脚注[編集]
- ^ 『官報』第2224号、昭和9年6月2日。