サフォーク (重巡洋艦)
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サフォーク | |
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HMS サフォーク(1942年) | |
基本情報 | |
建造所 | イングランド、ハンプシャー州、ポーツマス海軍基地 |
運用者 | イギリス海軍 |
艦種 | 重巡洋艦 |
級名 | カウンティ級(ケント級) |
艦歴 | |
起工 | 1924年9月30日 |
進水 | 1926年2月16日 |
就役 | 1928年5月30日 |
退役 | 1948年3月25日 |
その後 | 1948年3月25日、スクラップとして売却。 |
要目 | |
基準排水量 | 9,750 トン |
常備排水量 | 13,450 トン |
全長 | 630 ft (192.0 m) |
最大幅 | 68 ft 3 in (20.8 m) |
吃水 | 16 ft 3 in (5.0 m) |
主缶 | アドミラリティ式三胴型水管ボイラー×8基 |
主機 | ブラウン・カーティス式ギアード・タービン×4基 |
出力 | 80,000 hp (60,000 kW) |
推進器 | スクリュープロペラ×4軸 |
最大速力 | 31.5ノット (58.3 km/h) |
航続距離 |
3,100海里 (5,700 km)/31.5 kn 13,000海里 (24,000 km)/12 kn |
乗員 | 700 名 |
兵装 |
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搭載機 | 水上機×3機(1943年まで) |
その他 | 水上機用カタパルト(1943年まで) |
HMS サフォーク (HMS Suffolk, 55) は、イギリス海軍の重巡洋艦。カウンティ級重巡洋艦。ケント級に類別されることもある。艦名はイングランド東部のサフォーク州にちなむ。
艦歴[編集]
ポーツマス工廠で建造され1924年7月30日に起工。1926年2月16日に進水し、1928年2月7日に竣工した。 1928年12月4日、大日本帝国は東京湾で御大礼特別観艦式を実施する[1]。この観艦式にイギリス中国艦隊 (The China Station) 司令官ティリット提督の指揮下[2]、姉妹艦﹁ケント﹂﹁ベリック﹂と共に参列した[3][注釈 5]。イギリス海軍に対する日本海軍の接伴艦は、軍艦﹁陸奥﹂﹁磐手﹂﹁比叡﹂であった[5]。 1929年5月2日[6]、グロスター公ヘンリー王子は[7]、﹁サフォーク﹂︵艦長G・S・アーバスノット大佐︶[8]を御召艦として横浜港に到着した[9][注釈 6][注釈 7]。 当時の第一艦隊︵連合艦隊、司令長官谷口尚真大将︶旗艦は戦艦﹁山城﹂で[12]、重巡2隻︵古鷹、加古︶と駆逐艦4隻が奉迎艦となり[11][13]、乗組員がお互いの艦を訪問した[14][注釈 8]。イギリス側は、日本海軍重巡の居住性に強い印象を抱いたという[17]。5月下旬、﹁サフォーク﹂は東京湾を離れた[18][15]。 1930年4月中旬から5月にかけて、﹁サフォーク﹂は横浜、神戸、仁川、大連を訪問した[19]。 1931年10月、﹁サフォーク﹂は仁川、横浜、宮島を訪問した[20]。 1934年6月3日[21]、日本の横浜港に入港[22]。イギリス中国艦隊司令官ドレーヤー提督の指揮下において[23]、5日の東郷平八郎元帥の国葬に参列した[24]。 日本艦︵接伴艦﹁比叡﹂[25]、指揮官永野修身横鎮長官[21]、艦長井上成美大佐︶と共に半旗を掲げ弔砲を発射した[26][27][注釈 9]。 1935年4月下旬から5月上旬にかけて、﹁サフォーク﹂は長崎、別府、神戸に寄港した[29]。「フェロー諸島沖海戦」も参照
1939年11月23日、イギリス軍の補助巡洋艦「ラワルピンディ」がドイツ海軍 (Kriegsmarine) のシャルンホルスト級戦艦に撃沈された[30][注釈 10]。イギリス海軍は本国艦隊の戦艦や巡洋艦を多数動員してドイツ艦を捜索し、「サフォーク」もこの任務に投入された[32]。
1940年4月になると、イギリス軍はヴァレンタイン作戦 (Operation Valentine︶を発動し、デンマーク領のフェロー諸島を占領する。﹁サフォーク﹂はイギリス海兵隊をフェロー諸島に輸送した。4月下旬、ノルウェーのソラにある飛行場 (Stavanger Airport) への艦砲射撃を実施した︵ダック作戦︶。ここにはドイツ空軍 (Luftwaffe) 第1急降下爆撃航空団第1飛行隊︵指揮官ホッツェル大尉︶のJu-87 スツーカが約40機進出し、重大な脅威となっていた[33]。4月14日、イギリス空軍の爆撃機が長距離爆撃を敢行したが、スツーカ1機が損傷しただけだった[34]。
﹁サフォーク﹂は4月16日に駆逐艦﹁キプリング﹂﹁ジュノー﹂﹁ジェーナス﹂﹁ヒアワード﹂に護衛されてスカパ・フローから出撃し、4月17日に攻撃をおこなった。Sola-Sjø水上機基地には損害を与えたが、ソラ飛行場に対しては戦果はあげられなかった。帰路、洋上で第26爆撃航空団に所属するHe 111や、第30爆撃航空団に所属するJu 88の空襲を受ける[35][注釈 11]。護衛の戦闘機が到着するまでに、Ju88爆撃機の攻撃で500kg爆弾が﹁サフォーク﹂のX砲塔前方に命中したほか、至近弾3発を受けた[注釈 12]。4月18日にスカパ・フローに着いた時の本艦はかなり傾斜し、後部は甲板が水に洗われる状態であった。修理には1941年2月まで要した。艦橋は密閉式となり、スチーム暖房が設置されて﹁極地向け﹂になった[36][注釈 13]。
ビスマルク追跡中、艦橋で昼食をとるサフォーク艦長ロバート・エリス (Robert Meyric Ellis) 大佐。
1941年5月23日[37]、ドイツ艦隊出撃の情報によりデンマーク海峡で哨戒任務に従事していた﹁サフォーク﹂は[38]、ライン演習作戦により出撃してきたドイツ戦艦﹁ビスマルク﹂と重巡洋艦﹁プリンツ・オイゲン﹂を発見した[39][40]。つづいて第1巡洋戦艦戦隊︵司令官ウェイク=ウォーカー少将︶の旗艦﹁ノーフォーク﹂と合流し[41]、重巡2隻はレーダーを活用してビスマルク部隊︵リュッチェンス提督︶の追跡を開始した[42]。
5月24日朝のデンマーク海峡海戦で、英巡洋戦艦﹁フッド﹂が轟沈してランスロット・ホランド中将が戦死する[43][44]。ウォーカー少将は生き残った戦艦﹁プリンス・オブ・ウェールズ﹂を指揮下に入れ、3隻︵ノーフォーク、サフォーク、プリンス・オブ・ウェールズ︶でビスマルク部隊を追跡した[45][46]。同日午後になると、ウォーカー戦隊と﹁ビスマルク﹂は散発的に砲撃を交わした[47]。﹁サフォーク﹂は8インチ主砲を9斉射したが、この戦闘で前部2番主砲塔を艦尾方向に向けて発射した際に爆風で艦橋の窓ガラスが割れ、露天式艦橋にもどってしまったという[48]。5月25日未明、ウォーカー戦隊は疲労や諸事情でビスマルク部隊を見失い、最終的に﹁サフォーク﹂は﹁ビスマルク﹂最後の戦闘に関与できなかった[49][50]。
7月、キルケネスとペツァモに対する空襲︵EF作戦︶を行った空母の護衛にあたった。
その後、1942年の終わりまで北極海での輸送船団護衛任務に従事していた。
1943年4月まで改修が行われ、その後は東洋艦隊に転籍してインド洋で活動する。1944年10月のニコバル諸島攻撃︵ミレット作戦︶や1945年1月のスマトラ島の製油所に対する空襲︵レンティル作戦︶などに参加した。
サフォークは1948年に解体された。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 1937年以降
(二)^ 1938年より
(三)^ 1942年撤去
(四)^ ab1942年以降
(五)^ イギリス海軍の重巡3隻以外に、アメリカ海軍︵ピッツバーグ︶、フランス海軍︵ジュール・ミシュレ︶、イタリア海軍︵リビア︶、オランダ海軍︵ジャワ︶が参列した[4]。
(六)^ ◎行幸[10] 天皇陛下ハ昨二日午前十時二十分御出門東京驛ヘ行幸同十時五十五分還幸アラセラレタリ/(略)◎英國皇族御入京 英國皇族グロスター公殿下昨二日横濱御箸港第四號繋船岸ヨリ御上陸午前九時四十五分横濱港發臨時汽車ニテ同十時三十五分東京驛御箸直ニ旅館霞關離宮ニ入ラセラレタリ
(七)^ グロスター公は香港で﹁サフォーク﹂に乗艦し、日本列島に向かった[11]。
(八)^ またアメリカ軽巡﹁トレントン﹂も横浜港に停泊しており[15]、交流に参加している[16]。
(九)^ 諸外国招待艦艇は本艦のほかに[23]、アメリカ合衆国重巡﹁オーガスタ﹂、中華民国巡洋艦寧海、フランス軽巡﹁プリモゲ﹂、イタリア王国巡洋艦﹁クアルト﹂[28]。
(十)^ ﹁ラワルピンディ﹂や軽巡﹁ニューカッスル﹂の報告から、連合国軍は敵艦がポケット戦艦だと判断していた[31]。
(11)^ 約7時間にわたり33回の空襲をうけ、12回はスツーカの攻撃であったという[34]。
(12)^ サフォークの他にも、駆逐艦﹁キプリング﹂が至近弾をうけて損傷した。
(13)^ なお﹁ノーフォーク﹂の艦橋は吹きさらしであった[36]。
出典[編集]
(一)^ “見よ横濱港外を壓すけふの大禮大觀艦式 大元帥閣下﹁榛名﹂に召させられわが艨艟を臠はせらる”. Hoji Shinbun Digital Collection. Manshū Nippō, 1928.12.05 Edition 02. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(二)^ “精鋭百八十六艦 大觀艦式行はる 各國代表艦を差遣す 今日の東京灣の盛觀”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nichibei Shinbun, 1928.12.04. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(三)^ 今上天皇陛下大礼紀要 1929, pp. 123–124第十七章 外国軍艦ノ大禮觀艦式参加
(四)^ 海軍省年報、昭和3年度 1933, pp. 47–48第四 外国艦船本邦沿岸出入一覽 昭和三年度
(五)^ #大礼特別観艦式接伴艦 pp.6-7(大禮特観第二九號ノ二 昭和三年十一月三日)、pp.10-11(大禮特觀第五九號 昭和三年十一月二十三日)
(六)^ 海軍省年報、昭和4年度 1934, pp. 47a-48第四 外国艦船本邦沿岸出入一覽 昭和四年度
(七)^ “グロスタア太公殿下 英京をば愈々御出發 東京御着は五月二日午前の御豫定”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nichibei Shinbun, 1929.03.30. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(八)^ #英国人叙勲 pp.3-4
(九)^ “聖上親しく驛頭に御出へ きのふ晴れの使節若葉の東都へ 横濱埠頭の盛觀 殿下御出迎接待の兩宮”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun, 1929.05.03. pp. 03. 2024年5月11日閲覧。
(十)^ 昭和4年5月3日(金)官報第700号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本66)
(11)^ ab“グロスター公殿下 明後日横濱御到着 陸と海と空との盛んな奉迎”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1929.04.30. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(12)^ #グロスター公奉迎(1) p.41
(13)^ “春の空麗らかに晴れ 英皇子恙なく御着京 秩父宮横濱埠頭に奉迎さる”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nichibei Shinbun, 1929.05.03. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(14)^ #グロスター公奉迎(1) pp.20-23︹ 四.儀制、交驩 特別任務中實施セル儀制、交驩ノ概要左表ノ如シ ︺
(15)^ ab海軍省年報、昭和4年度 1934, pp. 47b-48.
(16)^ #グロスター公奉迎(1) p.22
(17)^ 増補 軍艦物語 1934, pp. 25–28(原本24-28頁)二 艦内生活
(18)^ #グロスター公奉迎(1) p.31(昭和4年5月22日)(宛略)︹ 本日午後一時三十分頃英艦﹁サーフオーク﹂横須賀軍港沖通過ノ際将旗ニ対スル禮砲ヲ行フ之ニ対シ答砲セリ為余 ︺
(19)^ 海軍省年報、昭和5年度 1934, pp. 45–46第四 外國軍艦本邦沿岸出入一覽 昭和五年
(20)^ 海軍省年報、昭和6年度 1936, p. 268.外國軍艦本邦沿岸出入一覽 昭和6年度
(21)^ ab“英米佛伊支の弔意艦入港 参列代表を比叡に招宴”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō, 1934.06.04. pp. 03. 2024年5月11日閲覧。
(22)^ 海軍省年報、昭和9年度 1936, pp. 21a-2210.外國軍艦本邦沿岸出入一覽 昭和9年
(23)^ ab“東郷元帥の國葬に 英、米、佛が軍艦派遣 英國は巡洋艦サフオーク號を、米國はオーガスタス號を品川沖に廻航儀仗兵も参列せしむ/ドレーヤー提督派遣 英國政府より公表”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1934.05.31. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(24)^ 昭和9年6月6日(水)官報第2227号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3-4(原本132-133)︹ 故元帥海軍大将公爵東郷平八郎葬儀 ︺
(25)^ “弔問軍艦の次第決定 日本側の接伴艦 花環を捧げる文武官決定”. Hoji Shinbun Digital Collection. Kashū Mainichi Shinbun, 1934.06.02. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(26)^ ﹁第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件﹂ アジア歴史資料センター Ref.C05023436600
(27)^ “各國軍艦一齋に 十九發の弔砲 悲しみの響き帝都の空に轟く”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1934.06.05. pp. 01. 2024年5月11日閲覧。
(28)^ 海軍省年報、昭和9年度 1936, pp. 21b-22.
(29)^ 海軍省年報、昭和10年度 1937, pp. 21–2210.外國軍艦本邦沿岸出入一覽 昭和10年度
(30)^ ビスマルクの最期 1982, p. 28.
(31)^ 撃沈戦記 1988, pp. 274–276巡洋戦艦と砲戦、沈没
(32)^ 撃沈戦記 1988, pp. 276–278英海軍、大捜索を開始
(33)^ Ju87シュツーカ 1983, p. 28aノルウェー戦︵1940年4月9日~6月9日︶
(34)^ abJu87シュツーカ 1983, p. 28b.
(35)^ “Chronik des Seekrieges 1939–1945, März 1940”. 2023年11月30日閲覧。
(36)^ abビスマルクの最期 1982, p. 88.
(37)^ “英海空精鋭の重圍に最後迄善戰沈没したビ號の海戰顚末 三度艦影を晦ましてならず 衆寡敵せず北大西洋怨深し”. Hoji Shinbun Digital Collection. Taihoku Nippō. pp. 05 (1941年5月28日). 2023年10月21日閲覧。
(38)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 62, 78, 87–93.
(39)^ 撃沈戦記 1988, pp. 339–340.
(40)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 12–13ライン演習作戦、両軍各艦航跡図
(41)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 89, 93–95.
(42)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 109–113.
(43)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 146–150, 159–160.
(44)^ 撃沈戦記 1988, pp. 342–344第五斉射の一弾
(45)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦、両軍各艦航跡図)
(46)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 176–180.
(47)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 193–195, 212.
(48)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 193–195.
(49)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 216–219, 247.
(50)^ ビスマルクの最期 1982, pp. 252–253(5月25日~27日、ビスマルク沈没までの各部隊・各艦航跡図