シャイレーンドラ朝

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年代 王または統治者の名前 石碑及び史料 出来事
650年頃 サンタヌ(Santanu) ? ソジョムルト碑文英語版(670年頃 - 700年) シヴァ派古マレー語英語版を話した一族は中央ジャワの海岸地帯へと移住し始めたが、スマトラ起源、またはシュリーヴィジャヤを宗主国とするジャワ現地人の王家(臣従国)が起源であるとされる。
674年頃 ダプンタ・ヒャン
(ダプンタ・スレンドラ / Dapunta Selendra)
バタン県(中部ジャワの北岸) ソジョムルト碑文英語版(670年頃 - 700年) 王家の支配を確立し、'Selendra'(シャイレーンドラ)の語が最初に言及されている王。
674年 - 703年 シマ英語版(女王)(?) カリンガ英語版ペカロンガンジェパラの間) チャリタ・パラヒヤンガン写本英語版、会寧(Hwi-ning)が、664年に訶陵王国(Ho-Ling または Kaling)を、674年にシマ女王統治下の王国を訪れたとしている。 カリンガ王国英語版を統治
703年 - 710年 Mandimiñak(?) ? チャリタ・パラヒヤンガン写本英語版
710年 - 717年 サンナ(Sanna) ? チャンガル碑文英語版(732年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本英語版 ジャワを統治したが、死後に王国は他国の侵略を受け混乱に陥った。
717年 - 760年 サンジャヤ(en 古マタラム王国、中央ジャワ チャンガル碑文英語版(732年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本英語版 サンナの甥であるサンジャヤは秩序を回復させ、王位を継承した。この出来事を新しい王朝サンジャヤ朝の創設ととらえた歴史家がいた一方で、シャイレーンドラ朝が継続したとみなした歴史家もいた。
760年 - 775年 ラカイ・パナンカラン英語版 古マタラム王国、中央ジャワ サンカラ碑文インドネシア語版カラサン碑文英語版(778年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本英語版 ラカイ・パナンカランはシヴァ崇拝から大乗仏教に改宗し、カラサン寺院を建造した。
775年 - 800年 ダラニンドラ英語版 古マタラム王国、中央ジャワ ケルラク碑文英語版(782年)、リゴールB碑文英語版(787年頃) スマトラのシュリーヴィジャヤも支配し、Manjusrigrha寺院を建設、ボロブドゥールの建設を開始した(770年頃)。ジャワはリゴールおよび南カンボジア(真臘)を支配した(790年頃)。
800年 - 812年 サングラーマグナンジャヤ 古マタラム王国、中央ジャワ リゴールB碑文英語版(787年頃) シュリーヴィジャヤも支配したが、カンボジアを失った(802年)。
812年 - 833年 サマラトゥンガ 古マタラム王国、中央ジャワ Karangtengah inscription(824年) シュリーヴィジャヤも支配し、ボロブドゥールを完成させた(825年)
833年 - 856年 プラモーダヴァルダニー英語版
夫のラカイ・ピカタン英語版とともに共同統治した。
古マタラム王国、中央ジャワ Shivagrha inscription(856年) バーラプトラに勝利し、シュリーヴィジャヤ王国に追い出した。プランバナン寺院およびプラオサン寺院を建築した。ピカタンの後継者である、ロカパラ(Lokapala、850年 - 890年)からワワ(Wawa、924年 - 929年)までの古マラタム王国の王はシャイレーンドラ朝の家系であるが、マンティヤシ碑文(907年)に見られるバリトゥン(Balitung、898年 - 910年)は、サンジャヤ朝の家系とされる。
833年 - 850年 バーラプトラ・デワ英語版(BalaputraまたはBalaputradewa)。  シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ Shivagrha inscription(856年)、ナーランダ碑文英語版(860年) ピカタン・プラモーダヴァルダニーに敗北し、中央ジャワから追い出されスマトラに逃げ、ジャワ出身のシャイレーンドラ朝の正当な後継者としてシュリーヴィジャヤを統治した。
960年頃 Śri Udayadityavarman シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(960年および962年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。
980年頃 Haji (Hia-Tche) シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(980年 – 983年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。
988年頃 Sri Culamanivarmadeva シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(988年 - 992年 - 1003年)、タンジョール碑文もしくはレイデン碑文(1044年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。ジャワの王ダルマヴァンシャはシュリーヴィジャヤを占領したが、そこには中国皇帝のために寺院が建設されており、ラージャラージャ1世に捧げられた。
1008年頃 Sri Maravijayottungga シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(1008年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った(1008年)。
1017年頃 Sumatrabhumi シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(1017年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った(1017年)。
1025年頃 サングラマ・ウィジャヤトゥンガワルマン英語版 シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ チョーラ碑文(ブリハディーシュヴァラ寺院タンジャーヴール チョーラ朝がシュリーヴィジャヤを急襲し、首都はラージェーンドラ1世によって占領された。

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 

(二)^ 

(三)^ 

(四)^ 

出典[編集]

  1. ^ 家島彦一訳『中国とインドの諸情報-第二の書』pp48-54

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18<>19902ISBN 4-309-47177-3

︿2<>19995ISBN 4634413604

120016ISBN 4000110616

220018ISBN 4000110624

︿2200712ISBN 978-4582807691

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 - 2007220