トランシルヴァニア公国
- トランシルヴァニア公国
- Erdélyi Fejedelemség (ハンガリー語)
Principatus Transsilvaniae (ラテン語) -
← 1571年 - 1711年 → (国旗) (トランシルヴァニアの国章)
トランシルヴァニア公国の地図-
公用語 ラテン語(民衆語はハンガリー語、ドイツ語、ルーマニア語、イディッシュ語) 首都 ジュラフェヘールヴァール
(1571年 - 1692年)
ナジセベン
(1692年 - 1711年)- トランシルヴァニア公
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1571年 - 1586年 バートリ・イシュトヴァーン 1704年 - 1711年 ラーコーツィ・フェレンツ2世 - 変遷
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建国 1571年 消滅 1711年
トランシルヴァニア公国︵トランシルヴァニアこうこく、ラテン語: Principatus Transsilvaniae [prinkipaːtus transːsilvaːniae̯]︵ただし現地の発音では [print͡sipaːtus transːsilvaːnieː]︶、ハンガリー語: Erdélyi Fejedelemség [ˈɛrde̝ːji ˌfɛjɛdɛlemʃe̝ːɡ]、ドイツ語: Fürstentum Siebenbürgen [ˈfʏʁstn̩ˌtuːm ˌziːbn̩ˈbʏʁɡn̩]、ルーマニア語: Principatul Ardealului [print͡ʃi'patul ar'de̯alului̯]、 Principatul Transilvaniei [print͡ʃi'patul transil'vaniei̯]︶は、オスマン帝国の宗主権下におかれていた半独立の公国である。
1550年ごろの王領ハンガリー︵灰色の部分︶と東ハンガリー王国︵ 褐色に着色した部分︶
1526年8月29日、オスマン帝国のスルタン・スレイマン1世はモハーチの戦いでハンガリー軍に対する決定的な勝利を手にした。ハンガリー王兼ボヘミア王ラヨシュ2世は配下の大勢の将兵と共に戦死、トランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王に選出されたが、ハプスブルク家のフェルディナントがハンガリー王位を要求、両者の紛争が起きるとサポヤイはしばしばスレイマン1世に支援を要請した。
1540年サポヤイ没後、スレイマン1世はサポヤイの息子ヤーノシュ・ジグモンドの保護を口実とし、1541年にブダとハンガリー中央部を占領。こうしてハンガリーは王領ハンガリー、オスマン帝国、オスマン帝国の庇護下にある東ハンガリー王国の3国家に分断された。東ハンガリーは後にトランシルヴァニア公国を形成。オーストリアとオスマン帝国が同公国に対する影響力を競う時代が2世紀近くに渡って続く。トランシルヴァニアを支配するハンガリー人大貴族達は、2つの覇権国家の間で独立を維持するために、しばしば二枚舌外交の政治を行った。
トランシルヴァニアは当時、宗教に関してはローマ・カトリックが支配的な地域であったが、ルター派やカルヴァン派が布教目的で説教をすることも許されていた。1563年、イタリア人のジョルジョ・ビャンドラータが宮廷侍医に任じられたが、ビャンドラータの急進的な宗教観はヤーノシュ2世とカルヴァン派の司教ダーヴィド・フェレンツに強い影響を与え、ついに両者は反三位一体派︵ユニテリアン︶に改宗した。ダーヴィト・フェレンツはカルヴァン派の論客メーリウス・ユハース・ペーテル︵hu︶との公開討論に勝利した。この事件が引き金となり、1568年には﹁トゥルダの勅令﹂によって信仰表明の自由が公式に保障された。これはキリスト教ヨーロッパ世界で最初に信教の自由を保障した法令だったが、信仰の自由を認められたのはカトリック、ルター派、カルヴァン主義、ユニテリアン主義だけであり、東方正教の信仰は明白に禁じられていた。
トランシルヴァニアの科学者達と会話するベトレン・ガーボル、ハンガ リー銀行発行の2000フォリント紙幣
ボチュカイの後継者達、特にベトレン・ガーボルとラーコーツィ・ジェルジュ1世の治世にトランシルヴァニアは黄金期を迎えることになった。ベトレン・ガーボルは臣下を圧迫ないし取り込もうとする神聖ローマ皇帝達の全ての試みを妨害し、プロテスタント勢力を擁護したことでプロテスタント諸国から高い評判を受けることになった。また、ハプスブルク家の皇帝達と3度戦争を行ったが、そのうち2度はハンガリー王の称号をベトレンが名乗ったことに起因するものであった。1621年、ベトレンは皇帝側とニコルスブルクの和約を結び、プロテスタントの権利を保証する﹁ウィーンの和約﹂を確認すること、ハンガリー北部にある7郡をトランシルヴァニアに割譲することを認めさせた。
ベトレンの後を継いだラーコーツィ・ジェルジュ1世︵在位‥1630年 - 1648年︶も同様に成功を収めた。ラーコーツィ・ジェルジュ1世の主な功績は1645年9月16日に﹁リンツの和約﹂を結んだことである。この和約は皇帝にウィーンの和約の再確認を強いるもので、ハンガリーにおけるプロテスタント勢力が勝ち取った最後の勝利であった。
ベトレン・ガーボルとラーコーツィ・ジェルジュ1世は教育と文化にも力を注ぎ、両者の治世はまさにトランシルヴァニアの黄金期と呼ぶにふさわしい時代だった。両者は公国の首都アルバ・ユリアを美化するために惜しみなく金を使い、同市は東ヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の重要な牙城の1つになった。彼らの治世でトランシルヴァニアはローマ・カトリック、カルヴァン派、ルター派、ユニテリアンが平和裏に共存し、複数の数派が公式宗派︵religiones recaepte︶として認められていた数少ない国家の一つであった。但し、正教信仰に関しては容認されているだけだった。