マンハイム
紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | バーデン=ヴュルテンベルク州 |
行政管区: | カールスルーエ行政管区 |
郡: | 郡独立市 |
緯度経度: | 北緯49度29分16秒 東経08度27分58秒 / 北緯49.48778度 東経8.46611度座標: 北緯49度29分16秒 東経08度27分58秒 / 北緯49.48778度 東経8.46611度 |
標高: | 海抜 97 m |
面積: | 144.97 km2 |
人口: |
311,831人(2021年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 2,151 人/km2 |
郵便番号: | 68159–68309 |
市外局番: | 0621 |
自治体コード: |
08 2 22 000 |
行政庁舎の住所: | E 5 68159 Mannheim |
ウェブサイト: | www.mannheim.de |
首長: | ペーター・クルツ (Peter Kurz) |
州内の位置 | |
地図 | |
地理[編集]
市の構成[編集]
インネンシュタット: ﹁クヴァドラーテ﹂[編集]
隣接する市町村[編集]
気候[編集]
歴史[編集]
始まり[編集]
マンハイム村(=Heim des Manno)は、766年のロルシュ修道院文書中に初めて文献上の記録が遺されている。この地名は、古いドイツ語の人名 >Manno< の Heim=>Wohnort des Manno<、すなわち﹁マンノ﹂と称する人物の居住地を意味したと思われる[4]。長い間、小さな変哲のない漁村であったマンハイムは、1284年にヴィッテルスバッハ家出身のライン宮中伯の所領となった。1349年、現在のリンデンホーフにライン川を航行する船から少額の関税を徴収するための城、アイヒェルスハイム城が築かれ、この村は次第に重要性を増していった。1415年、ここに廃位された対立教皇ヨハネス23世が監禁された。1462年にゼッケンハイムの戦いでプファルツ選帝侯は、ヴュルテンベルク伯、バーデン辺境伯、メス司教からなる敵同盟軍を撃破し、この勝利により﹁勝利侯﹂としてオーバーラインの覇権を握った。1566年にはマンハイムの人口は700人となり、オーバーアムト・ハイデルベルク︵ハイデルベルク管区︶で最も大きな村になっていた。市の成立[編集]
文化的・政治的隆盛[編集]
新たな経済発展[編集]
市民階級の経済力向上に伴い、マンハイムに再び華やいだ時代が戻った。1816年から17年に天候による大災害が起き、飢饉と家畜の死が蔓延した。カール・ドライスは二輪車を発明し、70年後のモータライズされた個人交通の時代の先駆けとなった。1828年にライン川の港が、1840年にはバーデンで最初の鉄道がマンハイムからハイデルベルクまで開通した。 1848年2月、フランスで二月革命が起こって王政が倒れたという報が伝わると、マンハイムで2月27日に民衆の集会が開かれた[6]。参加者はその場でドイツ民衆の自由を求める権利を宣言し、民衆の武装、出版の自由、陪審裁判、ドイツ議会の設立を求める請願が採択された[6]。そこから首都カールスルーエに押し寄せた民衆の圧力で、バーデン大公国に自由主義的内閣が発足した。この動きが各地に波及し、繰り返されることで、ドイツの三月革命が広がった[6]。ドイツでは翌年に反動派の巻き返しが起こり、最終的に革命は失敗した。最初に革命をはじめたバーデンは、反革命に対する最後の抵抗の場となり、マンハイムは攻め寄せるドイツ諸邦の軍隊によって1849年6月15日に占領された[7]。 1865年にフリードリヒ・エンゲルホルンは、Badische Anilin- und Soda-Fabrik (BASF)を設立した。後にこの会社はルートヴィヒスハーフェンに移転した。この会社は、塗装会社から現在では世界最大の化学企業へと成長した。1886年、カール・ベンツは﹃ガス発動機駆動式自動車﹄の特許を取得した。1909年にはカール・ランツとヨハン・シュッテがシュッテ=ランツ社を創設した。この会社は合計22機の飛行船を建造し、ツェッペリン社のドイツにおける最大のライバル企業であった。第一次世界大戦後にハインリヒ・ランツAGは、大ヒットとなった重油式トラクタ﹃ランツ・ブルドッグ﹄を発売した。1922年、大規模なマンハイム発電所が稼働を開始した。この都市は、1930年にはライン対岸に位置する重工業都市ルートヴィヒスハーフェンと合わせて人口385,000人を数えるまでになった。第三帝国時代から現代まで[編集]
第三帝国時代には、2,000人近いユダヤ住民が追放された。第二次世界大戦の空爆によってこの都市はほぼ完全に破壊し尽くされ、1945年にアメリカ軍に占領された。この都市の再建は困難なものであった。宮殿と水道塔が再建され、国民劇場は新しい場所に建設された。元の劇場跡地にはシラーと﹃幕間劇﹄の地の記念碑が建てられた。住宅難から多くの新しい住宅地が造成された。 1964年に市立病院が、ハイデルベルク大学の臨床医学部マンハイムのネッカーキャンパスとなった。1967年にマンハイムは大学都市となった。 1960年代後半には、市内に工場があるBASF社の手により、ライン川の本流と放水路の間の三角州に80ヘクタールに及ぶ巨大な廃棄物処理場が作られた。処分場は三角州をコンクリート堤防で囲んで作った人工島であり、BASF社から出る廃棄物などを向こう60年間にわたり埋め立て処理する計画となっていた[8]。 1975年、ルイーゼン公園とヘルツォーゲンリート公園での連邦庭園祭は最高潮に達した。これに伴い、大規模な建築物が次々に建設された。電信塔やライン川の2本の橋が建設され、プランケンは歩行者専用道路となった。新しいローゼンガルテン︵コングレス・センター︶が完成し、ケーブルカーがマンハイム上空を走った。1980年代から90年代も大型建設プロジェクトが続いた。プラネタリウム、文化ホールの拡張、ライス博物館、市庁舎、新しい5月マーケットの施設、シナゴーグ、モスク、技術と労働の博物館、カール・ベンツ・シュタディオン︵スタジアム︶などがオープンした。 マンハイムの経済的繁栄は近過去の工業系企業の受け入れにあった。この都市は工業から脱却しサービス業への転換を図った。この都市で最も高いヴィクトリア高層ビル2001の建設がその典型的な例である。市町村合併[編集]
1895年から1944年の間に多くの周辺市町村がマンハイムに合併した。その中にはバーデン領の大きな村であったネッカーラウが含まれる。1970年代の市町村再編時には、プレーネ・ブリュール、イルフェスハイム、エーディンゲン=ネッカーハウゼン、ラーデンブルクを合併する予定であった。しかし、距離が遠いことなどから保守派の強い抵抗に遭い、実現しなかった。このためマンハイムはこの再編時に面積が増大しなかった数少ない都市の一つであった。最初の市町村合併前の面積は2,384haであった。年 | 地区 | 面積 (ha) |
---|---|---|
1895 | フリーゼンハイマー・インゼル | 717 |
1897 | ケーファータール | 1,776 |
1899 | ネッカーラウ | 1,575 |
1910 | フォイデンハイム | 781 |
1913 | ザントホーフェン | 2,437 |
1913 | ライナウ | 959 |
1929 | ヴァルシュタット | 674 |
1930 | ゼッケンハイム | 1,687 |
1930 | フリードリヒスフェルト | 225 |
1930 | キルシュガルツハウゼン | 483 |
1930 | ザントロフ | 264 |
1930 | シュトラーセンハイム | 406 |
1944 | ロールホーフ(の一部) | 233 |
人口推移[編集]
宗教[編集]
最初の教会は、8世紀にシャルホーフ、ヴァルシュタットおよびフォイデンハイムに建設された。マンハイム独自の教区は14世紀に初めて記録されている。この教区はヴォルムス司教区に属し、聖ゼバスティアンに捧げられた。プロテスタント[編集]
プファルツ選帝侯オットハインリヒは1556年4月4日の命令書で、プファルツ選帝侯家のルター派信仰への宗教改革を宣した。これは先代のフリードリヒ2世がその実現に向かって試みた甚大な労苦︵1546年4月18日にフリードリヒ2世はハイデルベルクの聖霊教会で初めてルター派の聖餐式を執り行っている︶の結果であった。オットハインリヒの後継者であるフリードリヒ3世の下、プファルツ選帝侯家は1561年からカルヴァン派に転向した︵1563年 ハイデルベルク教理問答︶。マンハイム市の創設は、こうした宗教改革がなされた時期と重なっており、この都市は長い間プロテスタント信仰が根強かった。 バーデン大公は、1821年にルター派と改革派との統合を行った。カトリック[編集]
その他のキリスト教会[編集]
現在のマンハイムには、これ以外の教会組織がある。たとえば、新使徒派教会や19世紀中頃のバーデン革命の際に設立された自由信仰協会などである。復古カトリック教会の組織は宮廷の建物内を拠点としている。また、ロシア正教会の聖アレクサンドル・ネフスキー教会やギリシア正教会の組織﹁十字架挙栄祭﹂など多くの正教会の組織もある。ユダヤ教[編集]
マンハイム最初のシナゴーグは1660年に建設された。17世紀に都市が荒廃した後、選帝侯は税負担の軽減や、営業の自由特権を与えるなどして、ユダヤ人の入植を奨励した。1719年には人口の10.6%がユダヤ人であった。1895年までにユダヤ教組織の構成員は4,768人にまで拡大した。ただし、ユダヤ人以外の人口増加が急激であったため、1900年以後のユダヤ人が人口に占める比率は3%程度となった。1933年にはマンハイムに6,402人のユダヤ人が暮らしており、大規模な宗教組織を形成していた。国家社会主義者が権力を掌握して以後の迫害により多くのユダヤ人が困難にさらされた。1933年にはすでにNSDAPの上級市長はユダヤ系企業への業務依頼を禁じ、商業大学のユダヤ人教員は一時解雇され、国民劇場のユダヤ人俳優は解雇され、さらにユダヤ人医師は資格を剥奪された。多くのユダヤ人家族が外国、特にアメリカ合衆国へ移住した。1939年にマンハイムの3つのシナゴーグが廃止された後、1940年の時点でマンハイムに残った約2,000人のユダヤ人のほぼ全員がギュルスの収容所に強制的に送られた。その多くは、後にポーランドに建てられた強制収容所に移送され、殺害された。第二次世界大戦後、戻ってきたユダヤ人は、ほんのわずかな人数だけであった。国家社会主義の迫害が終結した後に再興されたユダヤ教組織に加盟したのは120人だけであった。ユダヤ教の新しいシナゴーグは1987年にオープンした。2005年現在、マンハイムには約600人のユダヤ人が住んでいる。イスラム教[編集]
1960年代の外国人就労者の波に乗って多くのトルコ人が到来した。これにより史上初めて特筆すべき数のイスラム教徒がマンハイムにやって来た。2004年には、その数は20,827人であり、マンハイムの人口の7%を占めるに至った。これを承けて1995年に、2,500人を収容する当時ドイツ最大のモスク、ヤヴツ=スルタン=セリム・モスクが建造された。2005年には老朽化したミナレットに替わり、スマートでより高いミナレットが新たに建てられた。行政[編集]
市議会[編集]
市議会は48議席で、議員は5年ごとの直接選挙で選出される。バーデン=ヴュルテンベルク州の地方自治体選挙法に基づき、累積式、異党派連記投票で行われる。第二次世界大戦以後、SPDが常に最大政党の座を占めていたが、1999年から2009年まではCDUがこの座を占めた。政党、選挙グループ | 得票率(前回との差) | 議席数(前回との差) | ||
---|---|---|---|---|
GRÜNE | 24.4 % | +8.1 % | 12 | +4 |
SPD | 21.2 % | -6.1 % | 10 | -3 |
CDU | 19.1 % | -7.0 % | 9 | -3 |
AfD | 9.2 % | +1.4 % | 4 | ±0 |
FW-ML | 7.4 % | -1.9 % | 4 | ±0 |
FDP | 6.1 % | +1.6 % | 3 | +1 |
DIE LINKE | 6.0 % | -0.2 % | 3 | ±0 |
Die PARTEI | 3.0 % | +3.0 % | 1 | +1 |
Mittelstand für Mannheim (MfM) | 1.3 % | -0.1 % | 1 | ±0 |
人間・環境・動物福祉党 | 1.1 % | +1.1 % | 1 | +1 |
その他 | 1.2 % | +0.1 % | 0 | -1 |
投票率 | 49.8 % (+11.1 %) |
市長[編集]
紋章[編集]
図柄: 左右二分割。向かって左は、金地に直立した赤い二重鈎︵ヴォルフスアンゲル=﹁オオカミ用の罠﹂とも呼ばれる意匠︶。向かって右は黒地に、赤い爪、赤い舌で威嚇し、赤い冠を被った金の獅子。 この紋章は、1896年に市議会で決定し、バーデン大公の認可を得た。ヴァオルフスアンゲルは、17世紀から市の境界を示す標石に見られる意匠である。獅子はプファルツ選帝侯の紋章にちなんだもので、マンハイムが1720年からその宮廷所在地であったことを示している。どちらの意匠も18世紀から市の印章に登場する。たびたびより近代的な紋章に変更しようという提案がなされるのだが、そのたびに否決されている。 市の色は、青 – 白 – 赤で、19世紀からよく用いられているものである。これは1613年以降市の印鑑についている紐を暗示している。市の色が、紋章の色に因んでいない変則的な例である。姉妹都市[編集]
マンハイム市は以下の都市と姉妹都市の提携を行っている。[10] スウォンジ︵イギリス、南ウェールズ︶1957年 トゥーロン︵フランス、ヴァール県︶1959年 シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区︵ドイツ、ベルリン︶1961年︵旧シャルロッテンブルク区︶ ウィンザー︵カナダ、オンタリオ州︶1980年 リーザ︵ドイツ、ザクセン州︶1988年 キシナウ︵モルドバ︶1989年 ブィドゴシュチュ︵ポーランド、クヤヴィ=ポモージェ県︶1991年 クライペダ︵リトアニア、クライペダ郡︶2002年 鎮江︵中国、江蘇省︶2004年 また、イスラエルの ハイファとも2005年に友好条約を締結している。文化と見所[編集]
劇場[編集]
博物館[編集]
音楽[編集]
建築[編集]
広場[編集]
フリードリヒス広場から西に歩行者専用道路のプランケンを行くとパラーデ広場(観閲広場)に至る。この広場は元々プファルツ選帝侯の観閲パレードのために造られた。この広場の真ん中にはグリュッペロのピラミッドがある。これは1711年にガブリエル・デ・グリュッペロが選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムのために創ったもので、デュッセルドルフの城の庭園に置かれたものであった。カール・フィリップは1743年にライン川を使ってこの像をマンハイムに運ばせた。このピラミッドは『領主の美徳のアレゴリー』と名付けられており、侯爵の美徳の勝利を描き出している。ピラミッドの周りには19世紀末にパラーデ広場に星形の緑地が造られた。広場の南側に1746年に旧商館が建てられた。この建物は、初めオフィスとして用いられたが、1909年からは市庁舎として利用された。第二次世界大戦で破壊された後は再建されず、1991年にシュタットハウスが建設された。この建物にはオフィス、市立図書館、広場の管理事務所が入居している。プランケン沿いに国家社会主義によるユダヤ人犠牲者のための記念碑(ホロコースト記念碑)が2003年に建立された。ガラスキューブにマンハイムのユダヤ人犠牲者の名前が鏡文字で刻まれている。
マルクト広場は、パラーデ広場の北、歩行者専用道のブライテ・シュトラーセ沿いのウンターシュタットの中心に位置する。この広場の中心には1719年に造られた泉の記念碑がある。この泉はペーター・ファン・デン・ブランデンによって創られ、ハイデルベルク城の庭園に置かれていたものである。選帝侯カール・テオドールによって1767年にマンハイム市に寄贈された。この時、元々、土・水・空気・火の四元素を象徴する4つの像は、マンハイム、商業、ライン川、ネッカー川を象徴する像に作り替えられた。マルクト広場の南側にはバロック様式の2つの建物がある。旧市庁舎と聖セバスティアン教区教会で、1713年までに建てられたマンハイムに現存するおそらく最も古い建物である。両者は、中央の鐘楼に繋がっている。鐘楼は、何層もの擬宝珠型屋根を持つ塔である。ファサードには、何人もの彫刻家の手が加わっていることが指摘されている。旧市庁舎にはユースティティア(正義の女神)とアトランテス(人物像型の柱)が、教会にはピエタと天使の像が見られる。鐘楼の鐘は1日3回鳴らされる。
宗教建築[編集]
世俗建築[編集]
公園と緑地[編集]
ルイーゼン公園は41haの広さを持つ市立公園である。この公園は1903年に完成し、1975年の連邦園芸博覧会のために拡張された。インネンシュタットに近いネッカー川沿いに位置し、植物館(温室)、中国風の茶園、蝶類館、ゴンドラ、水上舞台などのアトラクションがある。
ヘルツォーゲンリート公園も連邦園芸博覧会の会場の一部であった。22haのこの公園は兄にあたるルイーゼ公園よりいくぶん小振りで、ネッカーシュタット北部に位置する。見所は、動物園、バラ園、およびフライ・オットーの構想に基づいて造られたテント式の屋根を持つムルティハレである。
スポーツ[編集]
名物料理[編集]
経済と社会資本[編集]
交通[編集]
道路交通[編集]
鉄道/公共交通機関[編集]
水運[編集]
ライン川とネッカー川が合流する地点に位置するマンハイム港はヨーロッパで2番目に大きな内陸港である。2007年の統計によれば、830万トンの貨物が荷揚げされた。約500の企業、2万人の職場が港湾地区には存在している。港の構造[編集]
港湾1ハンデルスハーフェン 右図 No.11-15 港湾2ライナウハーフェン 右図 No.21-26 港湾3アルトラインハーフェン 右図 No.31-34 港湾4インドゥストリーハーフェン 右図 No.41-44空路[編集]
マンハイムにはザントホーフェンの軍事飛行場の他にノイオストハイム市区にシティー=エアポート・マンハイム︵IATAコード: MHG、 ICAOコード: EDFM︶があり、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ザールブリュッケンへの航空路が就航している。フランクフルト空港は65km北にあり、ICEを利用すれば30分で到着できる。メディア[編集]
日刊紙マンハイマー・モルゲンの他、ルートヴィヒスハーフェンのラインプファルツ、ハイデルベルクのライン=ネッカー=ツァイトゥングおよびビルト・ライン・ネッカー︵写真紙︶がマンハイムのローカル紙である。さらに週刊紙のシュポルトヴォーヘ、マンハイマー・ブリック・アム・ゾンターク、広報紙でもあるヴォーヘンブラット・マンハイムがあり、月間のローカル誌マイアーが刊行されている。ほとんどの市区では、それぞれ無料の市区ニュースが配布されている。公的施設と研究所[編集]
マンハイムには、イタリアの領事代理がおり、フランスとナイジェリアの名誉領事がいる。マンハイムには、ライン=ネッカー行政共同体およびハイデルベルク=マンハイム隣接都市連合のオフィスがある。さらに、手工業会議所、ライン=ネッカー商工会議所が存在している。これらの会議所は、マンハイムとハイデルベルクの他ライン=ネッカー郡とネッカー=オーデンヴァルト郡をその管轄下に置く。連邦職業安定所や2つの税務署もある。マンハイム刑務所は、800人以上を収容できるバーデン=ヴュルテンベルク州最大の刑務所である。マンハイムには市民の自由意思で組織された消防団と専任のスタッフからなる消防団がある。2つの大きな傷害保険組合がマンハイムに本社を構えている。Berufsgenossenschaft Nahrungsmittel und GaststättenとBerufsgenossenschaft Handel und Warendistributionである。この他、マンハイムはバーデン地方教会の教会管区とフライブルク大司教区の首席司祭区の、それぞれ本部所在地である。裁判所[編集]
マンハイムにはバーデン=ヴュルテンベルク州の行政裁判の控訴審を扱う行政裁判所が置かれている。シュトゥットガルトに本部を持つ州の労働裁判所はマンハイムに分局を置いている。 さらに、この市にはカールスルーエ上級地方裁判所管区に属す区裁判所および特許部門を持つ地方裁判所があり、また、労働裁判所や社会裁判所もある。病院[編集]
米軍[編集]
一連の重要なNATO軍および米軍の施設がマンハイムに置かれている。特にヨーロッパのアメリカ軍の通信を統括する第5通信司令部の本部がこの街に置かれている。マンハイムの米軍駐屯地には以下の兵舎がある。 ●フナリ兵舎︵ケーファータール︶第5通信司令本部 ●サリヴァン兵舎︵ケーファータール︶第7通信旅団本部 ●ベンジャミン・フランクリン兵舎︵ケーファータール︶アメリカン・ハイスクールを有する ●テイラー兵舎︵フォーゲルシュタング︶第2通信旅団本部 ●スピネリ兵舎︵フォイデンハイム︶ ●コールマン兵舎︵ザントホーフェン︶AFN、アメリカ陸軍欧州兵站部 ●フリードリヒスフェルト物資補給本部 この他、ヘイデルベルク駐屯地の以下の施設がマンハイム市内にある。 ●ハモンズ兵舎 ●ステム兵舎 隣接するハイデルベルクの米軍施設については2012年から2013年までに移転を完了させる計画が発表になったが、この計画にマンハイムの施設が含まれるかどうか明記されていないことや、その後に起こった9.11テロ事件により米軍の安全保障政策の転換があったことなどから、これらの軍事コミュニティが今後もこのまま存在するのかどうかは定かでない。ただ、これらの施設が戦後マンハイムの経済、国防、文化の上で重要な役割を果たしたことは事実である。教育[編集]
教育改革者ヨーゼフ・アントン・ジッキンガーが20世紀初めにマンハイムの教育システムを開発した。教育学に関する大きな貢献がこれによってなされた。大学[編集]
その他の学校[編集]
研究センター、研究所[編集]
人物[編集]
出身者[編集]
- カール・フォン・ゴンタルト(1731年 - 1791年)建築家
- クリスティアン・カンナビヒ(1731年 - 1798年)作曲家、マンハイム楽派の先駆的存在である
- カール・テオドール・フォン・ダールベルク(1744年 - 1817年)マインツ大司教
- カール・シュターミッツ(1745年 - 1801年)作曲家、マンハイム楽派の代表的存在
- アントン・シュターミッツ(1750年 - 1798年または1809年)作曲家、マンハイム楽派の代表的存在(カールの弟)
- ルートヴィヒ・アウグスト・ルブラン(1752年 - 1790年)オーボエ奏者、作曲家
- ペーター・フォン・ヴィンター(1754年 - 1825年)作曲家
- フランチェスカ・ルブラン(1756年 - 1791年)ソプラノ歌手、作曲家
- マクシミリアン1世 (バイエルン王)(1756年 - 1825年)初代バイエルン王
- カール・フォン・フィッシャー(1782年 - 1820年)建築家
- カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン(1792年 - 1873年)バイエルン王女、オーストリア皇妃
- カール・フリードリヒ・シンパー(1803年 - 1867年)植物学者、地質学者
- フリードリヒ・エンゲルホルン(1821年 - 1902年)企業家、BASFの創始者
- ヴィルヘルム・ヴント(1832年 - 1920年)生理学者、哲学者、心理学者
- リヒャルト・フォン・クラフト=エビング(1840年 - 1902年)精神医学者
- エルンスト・シュレーダー(1841年 - 1920年)数学者、論理学者
- アルベルト・ラーデンブルク(1842年 - 1911年)化学者
- ヘンリー・モーゲンソウ(1856年 - 1946年)アメリカ合衆国の外交官
- ヴィリー・ヘス(1859年 - 1939年)ヴァイオリン奏者
- ルートヴィヒ・ラントマン(1868年 - 1945年)フランクフルト・アム・マインの上級市長
- ヘルマン・ミュラー(1876年 - 1931年)ヴァイマル共和国首相
- ヴェルナー・ヘーゲマン(1881年 - 1936年)都市プランナー、建築評論家
- ゼップ・ヘルベルガー(1897年 - 1977年)サッカー選手、指導者
- アルベルト・シュペーア(1905年 - 1981年)建築家、ナチスの軍需大臣
- アルフレート・デルプ(1907年 - 1945年)イエズス会司祭、反ナチス活動家
- フランツ・ジクス(1909年 - 1975年)SS旅団長、ナチス幹部
- カール=ハインツ・ホフマン(1910年 - 1985年)ドイツ民主共和国の政治家
- オスカー・ロール(1912年 - 1988年)サッカー選手
- オットー・シフリング(1912年 - 1939年)サッカー選手
- ハインツ・ハーバー(1913年 - 1990年)物理学者、作家
- ハンス・フィルビンガー(1913年 - 2007年)バーデン=ヴュルテンベルク州首相、ドイツ連邦参議院議長
- アンネリーゼ・ローテンベルガー(1926年 - )ソプラノ歌手
- ゲルハルト・マイヤー=フォアフェルダー(1933年 - )ドイツ・サッカー連盟会長、バーデン=ヴュルテンベルク州首相
- ルディ・アルティヒ(1937年 - )自転車競技選手、1966年世界チャンピオン
- ヴィルヘルム・ブンガート(1939年 - )テニス選手
- ディートマール・ダンナー(1950年 - )サッカー選手
- ゲルノット・ロール(1953年 - )サッカー選手、指導者
- フリッツ・ヴァルター(1960年 - )サッカー選手
- トーマス・シャーフ(1961年 - )サッカー選手、指導者(ヴェルダー・ブレーメン)
- ウーベ・ラーン(1962年 - )サッカー選手
- シュテフィ・グラフ(1969年 - )テニス選手
- クセイヴィア・ナイドゥー(1971年 - )ソウル歌手、R&B歌手
- ハイコ・ヘルリヒ(1971年 - )サッカー選手
- クリスティアン・ヴェルンス(1972年 - )サッカー選手
- ウミト・ダヴァラ(1973年 - )サッカー選手
- ヨーヒェン・ヘヒト(1977年 - )アイスホッケー選手
- ファニー・リンネ(1980年 - )女子フィールドホッケー選手
- ズーザンネ・ハーテル(1988年 - )女子サッカー選手
- ザラ・ヘッケン(1993年 - )女子フィギュアスケート選手
Inventions made in Mannheim(を翻訳しなければならない。)[編集]
-
The world’s first bicycle, built in Mannheim by Karl Freiherr von Drais in 1817
-
The world’s first automobile, built in Mannheim by Carl Benz in 1885
-
Carl Benz‘ workshop in Mannheim (T6, 11)
-
Official sign of Bertha Benz Memorial Route, commemorating the world's first long distance journey by automobile from Mannheim to Pforzheim in 1888 (104 km / 64 miles)
ブローマウル賞[編集]
1970年から毎年、この都市に対し最も功績のあった人物にブローマウル賞が授与されている。
引用[編集]
- ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2021 (CSV-Datei)
- ^ Max Mangold, ed (2005). Duden, Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverl. p. 532. ISBN 978-3-411-04066-7
- ^ マンハイム=ゼッケンハイム私立観測所の2003年8月の記録
- ^ Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern, Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 178.
- ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 146.
- ^ a b c 川越修「1848年革命」『ドイツ史』2、290頁。
- ^ 川越修「1848年革命」『ドイツ史』2、326頁。
- ^ 欧州ゴミ合戦-2- 60年かけ捨場築く『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月24日夕刊 3版 10面
- ^ “Gemeinderatswahlen 2019 - Universitätsstadt Mannheim”. 2021年6月20日閲覧。
- ^ Mannheims Partnerstädte - von Bydgoszcz bis Zhenjiang (マンハイム市の公式ウェブサイト)
- ^ 強制収容所を記憶する場所ザントホーフェンのホームページ
- ^ マンハイムBUGA1975でのエアロバス
参考文献[編集]
- Manfred David: Mannheimer Stadtkunde. Edition Quadrat, Mannheim 1982, ISBN 3-87804-125-X
- Landesarchivdirektion Baden-Württemberg (Hrsg.): Das Land Baden-Württemberg – Amtliche Beschreibung nach Kreisen und Gemeinden. Band V. Kohlhammer, Stuttgart 1976, ISBN 3-17-002542-2
- Hans-Erhard Lessing: Mannheimer Pioniere. Verlag Wellhöfer, Mannheim 2007, ISBN 978-3-939540-13-7
- Ulrich Nieß, Michael Caroli (Hrsg.): Geschichte der Stadt Mannheim. Band 1: 1607–1801. Band 2: 1801–1914. Band 3: 1914–2007. Verlag regionalkultur, Ubstadt-Weiher 2007, ISBN 978-3-89735-487-6
- Hansjörg Probst: Kleine Mannheimer Stadtgeschichte. Friedrich Pustet, Regensburg 2005, ISBN 3-7917-1972-6
- Andreas Schenk: Architekturführer Mannheim. Dietrich Reimer. Berlin 1999, ISBN 3-496-01201-3
- Andreas Schenk: Mannheim und seine Bauten 1907–2007. Hrsg. v. Stadtarchiv Mannheim und Mannheimer Architektur- und Bauarchiv e. V. 5 Bände. Edition Quadrat, Mannheim 2000–2007
- Friedrich Walter: Mannheim in Vergangenheit und Gegenwart. 2 Bände. Mannheim 1907
- Friedrich Walter: Schicksal einer deutschen Stadt. 2 Bände. Fritz Knapp, Frankfurt 1949–50
- Guido Walz (Red.), Brockhaus Verlag (Hrsg.): Der Brockhaus Mannheim. 400 Jahre Quadratestadt – Das Lexikon. Bibliographisches Institut & F. A. Brockhaus, Mannheim. 2006. 384 Seiten. ISBN 3-7653-0181-7 (Gleiche Ausstattung wie Brockhaus Enzyklopädie, rund 1.300 Stichwörter und 500 Biografien von Mannheimer Persönlichkeiten und Originalen.)
- Naturführer Mannheim. Entdeckungen im Quadrat, hrsg. von der Stadt Mannheim und der Bezirksstelle für Naturschutz und Landschaftspflege Karlsruhe. Verlag Regionalkultur, Ubstadt-Weiher 2000. ISBN 978-3-89735-132-5
- Hartmut Ellrich: Mannheim. Sutton, 2007, ISBN 978-3-86680-148-6
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際して直接参照してはおりません。
- 川越修「1848年革命」、成瀬治・山田欣吾・木村靖二『ドイツ史2』(世界歴史大系)、山川出版社、1996年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- マンハイム市のウェブサイト
- マンハイムの航空写真(ルートヴィヒスハーフェンを含む): 北側 および 南側
- マンハイム - Curlie(英語)
- ベルタ・ベンツ・メモリアルルート