万里小路正房
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万里小路 正房 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 享和2年12月1日(1802年12月25日) |
死没 | 安政6年10月22日(1859年11月16日) |
改名 | 寿房(初名)→正房 |
官位 | 従三位、権大納言 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 万里小路家 |
父母 | 父:万里小路建房、母:勧修寺経逸の娘 |
兄弟 | 正房、幸子、堀河康親室、睦子 |
妻 | 藤波寛忠の娘 |
子 | 博房、素信、正秀 |
万里小路 正房︵までのこうじ なおふさ︶は、江戸時代後期の公卿。権大納言・万里小路建房の子。官位は従三位・権大納言。万里小路家24代当主。
経歴[編集]
京都で誕生。初め寿房と名乗った。 文政3年︵1820年︶叙爵。弁官、蔵人頭を歴任し、天保9年︵1838年︶参議、天保12年︵1841年︶従三位に昇進し、また嘉永元年︵1848年︶権中納言となる。 嘉永6年︵1853年︶議奏となって以後、朝幕関係の朝廷に奔走する事となり、安政2年︵1855年︶アメリカ・イギリス・ロシアとの和親条約の謄本を受理する。安政4年︵1857年︶権大納言となり、翌年には公武合体を唱え、また条約勅許問題や将軍継嗣問題において朝幕間の調停に努めた。さらに武家伝奏となり、水戸藩への密勅降下にも関与するが、九条尚忠の独断専行に関与したとして権大納言を辞職する。同年、二条斉敬・近衛忠房・広橋光成と共に江戸に降り、江戸幕府14代将軍となった徳川家茂に将軍宣下を行った。安政6年︵1859年︶安政の大獄で処分の対象となるも、あらかじめ武家伝奏を辞職したために謹慎30日に減刑された。同年、薨去した。享年58。日記に﹁正房卿記﹂がある[1]。系譜[編集]
●父‥万里小路建房 ●母‥勧修寺経逸娘 ●妻‥藤波寛忠の娘 ●長男‥万里小路博房 ●生母不明の子女 ●八男‥万里小路正秀︵1858-1914︶ - 明治天皇の稚児として出仕し、13歳から10年間ロシア貴族のもとに留学したのち、式部官,主猟官などを歴任し、1885年に分家して男爵となり(1887)、晩年は大膳頭も務めた[2]。正秀はロシア人女性マリア・バユノフ[信頼性要検証]と結婚したが離婚し︵日本では結婚申請が不許可となった︶[3][4]、野村靖の娘久子と再婚し長男・万里小路元秀︵1891-1975︶をもうけるも離婚︵久子は本野一郎と再婚︶。後妻との娘ソデは猪野毛利栄に嫁ぐ。元秀の妻・糸子は大川平八郎の姪[5]。脚注[編集]
- ^ 万里小路正房 までのこうじ-なおふさ日本人名大辞典
- ^ 万里小路正秀 までのこうじ-なおひで日本人名大辞典
- ^ 『華族誕生 名誉と体面の明治』浅見雅男、リブロポート、1994年
- ^ 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p209
- ^ 田中栄八郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
外部リンク[編集]
- 万里小路日記 万里小路正房, 万里小路博房, (日本史籍協会, 1920)