万里小路冬房
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万里小路 冬房 | |
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時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 応永30年(1423年) |
死没 | 文明7年(1475年)11月 |
改名 | 成房→冬房→弘房/弘円(法名) |
戒名 | 菩提院 |
官位 | 従一位、准大臣 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇 |
氏族 | 万里小路家 |
父母 | 父:万里小路時房 |
兄弟 | 冬房、玄周、中権、慈俊、慈照 |
妻 | 広橋宣光の娘 |
子 |
命子 養子:春房、賢房 |
万里小路 冬房︵までのこうじ ふゆふさ︶は、室町時代中期の公卿。内大臣・万里小路時房の子。官位は従一位・准大臣。万里小路家8代当主。
幼年より仏教への帰依が深く[1]、応仁の乱を機に出家して、最期は補陀落渡海を遂げた。
経歴[編集]
万里小路時房の子として誕生。初名は成房。 永享年間に叙爵された後、右兵衛佐・弁官・五位蔵人を歴任。文安6年︵1449年︶3月蔵人頭を兼ね、宝徳2年︵1450年︶4月参議に任じられて公卿となる。同3年︵1451年︶従三位・権中納言に叙任され、武家伝奏を兼務。享徳元年︵1452年︶8月正三位、康正元年︵1455年︶8月従二位に進む。長禄2年︵1458年︶大宰権帥を兼ね、権大納言に任じられたが、寛正5年︵1464年︶1月に辞退。翌年︵1465年︶1月正二位に叙され、12月後土御門天皇即位礼の伝奏を務めた。 応仁元年︵1467年︶9月准大臣宣下を蒙り、従一位に叙されるも、10月後花園上皇の落飾に殉じて出家。法名を弘房︵浄土宗︶または弘円︵真言宗︶と号した。予てから勅許を得て東寺に入壇していて、応仁の乱で在所を焼かれた際は比叡山北谷に隠棲したという。出家後の足取りは不明だが、何の因果か﹁菩提心﹂を発して、文明7年︵1475年︶11月22日[2]紀伊国熊野浦から補陀落渡海に出航した。享年53。 万里小路家では冬房の出家に先立ち、甘露寺家から春房を迎えていたが、文明3年︵1471年︶に突如出奔したため、改めて勧修寺家から賢房を養子に迎えて存続させている[3]。系譜[編集]
●父‥万里小路時房︵1394-1457︶ ●母‥不詳 ●兄弟姉妹‥玄周、慈俊、算子︵慈照︶、中権 ●室‥広橋宣光女 ●女子‥万里小路命子︵瑞林院、1453-1488︶ - 足利義尚妾 ●養子 ●男子‥万里小路春房︵江南院龍霄、1449-1509︶ - 甘露寺親長の子 ●男子‥万里小路賢房︵1466-1507︶ - 勧修寺教秀の三男。従三位・参議、右大弁。吉徳門院の父脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『萬里小路家譜』(東京大学史料編纂所蔵)
- 『大日本史料』8編1冊、応仁元年9月20日条
- 宮崎康充 「万里小路冬房」(安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年、ISBN 9784404017574)
- 根井浄 『補陀落渡海史』 法蔵館、2001年、ISBN 9784831875334