不来方
不来方︵こずかた︶は、現在の岩手県盛岡市を指し示す言葉である。﹁盛岡﹂が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、﹁不来方﹂は、少なくとも570年の間存在する由緒ある名であることから、現在、盛岡の雅称として使われることがある。
南部氏による開府当時、居城名も﹁不来方城﹂であり、この時、都市名として﹁盛岡﹂という地名は存在しなかった。
変遷[編集]
﹁不来方﹂の発祥[編集]
伝承によれば、かつてこの地には﹁羅刹﹂と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた[1][2]。このことに困っていた里人たちが、三ツ石︵盛岡市に現存する﹁三ツ石神社﹂︶の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した[1][2]。これが﹁岩手郡﹂、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、﹁二度と来ない方向﹂の意味で、一帯に﹁不来方﹂の名が付されたと伝えられている。日本地名研究所の所長を務めた谷川彰英は、﹁鬼﹂は蝦夷を指すのではないかと指摘している[2]。 また﹁さぁさぁ踊れ﹂と人々が囃し、奉納した踊りが、﹁さんさ踊り﹂だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている。 さらに、三ツ石神社のある盛岡市名須川町はかつて﹁三ツ割村︵みつわりむら︶﹂の一部であり、﹁三ツ石﹂の伝承が地名成立に影響を与えてきたことが知られる。﹁不来方﹂から﹁森ヶ岡﹂へ[編集]
三戸城下から進出した時の南部藩主南部利直が﹁不来方﹂という名を﹁心悪しき文字﹂と忌み嫌ったため﹁森ヶ丘﹂と改名した[1][2]。﹁森ヶ丘﹂が訛って﹁森岡﹂となり、南部重信が表記を﹁盛岡﹂と定めた[1][2]。﹁盛岡﹂が城下町の名として用いられるまで、当地は﹁不来方﹂の名で呼ばれたと伝えられる。これは﹁永福寺﹂所在地の裏山が﹁森ヶ岡﹂と呼ばれたことに関わると見られる[要出典]。﹁森ヶ岡﹂から﹁盛岡﹂へ[編集]
永福寺の山号は、現在﹁宝珠盛岡山﹂である。﹁盛岡﹂は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる。 ●幾春も 華の惠の露やこれ 宝の珠の 盛る岡山 城下町として﹁盛岡﹂の名が定着、後に藩名そのものも﹁南部﹂から﹁盛岡﹂へ改められ、町名としての﹁不来方﹂は残らなかった。﹁盛岡県﹂から﹁岩手県﹂へ[編集]
明治3年︵1870年︶、廃藩置県により﹁盛岡県﹂が誕生するも、明治5年︵1872年︶に﹁岩手県﹂が誕生し、盛岡県はこれに伴って統合された。 明治22年︵1889年︶、市制施行により﹁盛岡市﹂が誕生する。狭義の﹁不来方﹂[編集]
現在の盛岡市中心部は﹁岩手郡仁王郷不来方﹂に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、﹁陸奥話紀﹂の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが﹁逆志方﹂。南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという。 一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が﹁不来方城﹂と解されているが、厳密には両者は別の城である。 永享11年︵1439年︶に福士氏が城代として定着し、﹁不来方殿﹂と呼ばれたのが﹁不来方城﹂の始まりであり、﹁不来方城﹂を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の﹁盛岡城﹂である。 現在の岩手医科大学附属病院の北辺︵盛岡市本町通︶には、不来方町の石碑が残っている。また、盛岡城址には不来方城を詠んだ石川啄木の句碑が立てられている[1][2]。広義の﹁不来方﹂[編集]
﹁不来方﹂は、﹁盛岡の雅称﹂として用いられることが多い。この場合、盛岡市中心部のみならず、盛岡地域全体を示す象徴的な言葉であることが多い。﹁岩手県立不来方高等学校﹂の開校によって、所在地である矢巾町附近に﹁不来方﹂を冠する施設が多いが、本来、矢巾地域を示す言葉ではない。
●不来方祭‥国立大学法人岩手大学の大学祭の名称。校地が盛岡市にあることから、盛岡の古名より命名される。
●不来方橋‥盛岡市盛岡駅前通と盛岡市大沢川原を結ぶ橋。北上川に架かる。公募により命名。
●不来方賞‥岩手競馬のサラブレッド系3歳馬で争われる重賞競走。詳しくは不来方賞の項を参照。
●岩手県立不来方高等学校‥岩手県紫波郡矢巾町にある普通科高等学校。校章は盛岡藩主・南部家の家紋﹁向かい鶴﹂をモチーフとしている。
●こずかた号‥盛岡市が運営する移動図書館車の名称。
●こずかた日詩
●こずかたサービス