中村星湖
中村 星湖︵なかむら せいこ、1884年︵明治17年︶10月14日 - 1974年︵昭和49年︶4月13日︶は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為︵なかむら まさため︶[1]。
生地の富士河口湖町河口。河口湖と富士山
島崎藤村
柳田国男
星湖は民俗学者の柳田国男︵1875年 - 1962年︶とも交流している。柳田は江戸後期の甲斐国総合地誌・﹃甲斐国志﹄︵柳田旧蔵本は柳田文庫所蔵︶を読み込むなど山梨県の民俗事例にも関心を示しており、星湖以外の山梨県の郷土史家・民俗学者では土橋里木や大森義憲と交流がある[9]。
柳田は1947年︵昭和22年︶の﹁嫁盗み﹂︵後に﹃婚姻の話﹄に収録︶において星湖の﹁略奪﹂について言及し、﹁略奪﹂に山梨県における﹁嫁盗み﹂の事例が描かれてると知りつつも、その時点で未読であると記している[10]。このことから戦後には両者の関係が生まれていたことが確認されるが、﹁略奪﹂は1914年︵大正3年︶に発表されており、明治末年から大正初年の両者の関係は不明であるものの、柳田は一時期に自然主義文学に傾倒していたため、文学を通じて交流が生まれたとも考えられている[11]。
星湖は柳田を﹁先生﹂と呼び私淑し、1943年︵昭和18年︶の﹃文化は郷土より﹄では柳田に対する献辞を記している[10]。柳田の星湖宛書簡は、2007年時点で3通が確認されている[12]。3通とも山梨県立文学館寄託[12]。2点は葉書、1点は書簡[12]。葉書は昭和18年2月7日付・同年4月8日付で、ともに﹃文化は郷土より﹄の献辞・献本に関するもの。前者は予め献辞を添えることを伝えたことに対する返礼で、後者は同年4月5日に刊行された﹃文化は郷土より﹄が柳田に献本され︵柳田文庫所蔵︶、それに対する礼状であると考えられている[12]。書簡は昭和18年8月30日付で、同年4月に出征して戦死した星湖の次男・文彦に関する見舞いに関する内容[12]。星湖次男の戦死から時間が経っての書簡であることから両者の距離を示してるともされるが、海軍省から正式な発表があったのは同年8月下旬であるため、星湖から直接知らされた可能性も指摘されている[13]。
その後、星湖は拠点を東京に移したが、星湖が農民文学・農村文化運動に関心を強めていくのに対し、柳田は文学から離れ両人は方向性を異にしたため、交流は疎遠になったと考えられている[14]。一方で柳田と星湖には田山花袋や島崎藤村など共通の知人がおり、1930年の田山花袋の葬儀では柳田と星湖がともに写された写真が残されている[14][15]。
また、1934年︵昭和8年︶3月には中西悟堂により日本野鳥の会が設立される[16]。柳田・星湖はともに中西と交流があり、同年6月に静岡県の須走で探鳥会が開催さると、柳田・星湖ともに参加して顔を合わせている[16]。星湖は昭和9年6月の﹃週刊朝日25巻29号﹄で﹁岳麓探巣行﹂を発表し、同会の様子、柳田と交わした会話についても記している[17]。
戦後には1949年︵昭和24年︶4月に柳田が河口湖を訪問している[18]。﹃山梨日日新聞﹄同年4月27日の記事に拠れば、柳田は4月25日に河口浅間神社で山宮と孫見祭を見物し、夜は河口湖畔の竜宮ホテルに宿泊し、山梨郷土研究会会員と座談会を開いたという[19]。渋沢敬三や大藤時彦、千葉徳爾らも同行している[20]。
星湖は柳田を案内したとされるが、詳しい事情は不明[19]。﹃山梨日日新聞﹄の記事には柳田が写った集合写真が掲載されており、千葉徳爾や鳥類研究家の中村幸雄がともに写っている。星湖の姿は見られないが、猿田彦の面を被った人物が写っており、これが星湖であるとも考えられている[20]。
柳田はこの頃、山宮・里宮の関係について研究しており、河口浅間神社においても山宮を訪れ、翌日には一宮浅間神社を訪問している。大森義憲宛書簡の内容からも、柳田の河口湖訪問は星湖を訪ねた観光ではなく、学術的視察であったと考えられている[21]。