中西陽一
表示
中西 陽一 なかにし よういち | |
---|---|
生年月日 | 1917年9月23日 |
出生地 | 日本 京都府京都市 |
没年月日 | 1994年2月2日(76歳没) |
死没地 | 日本 石川県金沢市 |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
前職 |
内務官僚 石川県副知事 |
所属政党 |
(自由民主党→) 無所属 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 法学士(京都帝国大学) |
第47-54代 石川県知事 | |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1963年2月20日 - 1994年2月2日 |
中西 陽一︵なかにし よういち、1917年︿大正6年﹀9月23日 - 1994年︿平成6年﹀2月2日︶は日本の政治家、官僚。石川県知事︵8期、第47-54代︶。石川県の公選知事としては3人目にあたる。京都府出身。
来歴・人物[編集]
全国最長知事[編集]
京都市出身。内務省︵現‥総務省・警察庁・厚生労働省︶入省。保険院属[1]。石川県総務部長・石川県副知事を経て、1963年︵昭和38年︶2月、石川県知事選挙に立候補し当選︵自民党公認︶。1991年︵平成3年︶2月、多選批判の中、部下であった前副知事杉山栄太郎︵自民党公認︶を破って全国最多に並ぶ8選を果たす。1992年︵平成4年︶7月には奈良県の奥田良三が持つ29年5か月の在職期間を塗り替え、最終的に在職期間31年間と全国の知事の中で最長となり、この記録は現在も破られていない。8期目在任中に急速に身体の衰えが進み、県職員に両脇を支えられながら公の場に現れたこともあった。在職中に死去。政策・主張[編集]
内務官僚らしく、各地方にまんべんなく配慮した県政を行った[2]。太平洋側に比べて遅れていたインフラ整備を行うとともに、県都・金沢市だけではなく能登・加賀地域の発展にも気を配り、金沢の一人勝ちを嫌う層からも一定の支持を得た[2]。中西県政で建設が進んだ主なインフラとしては金沢港、北陸自動車道、能登有料道路、小松空港国際線旅客ターミナルビルなどがある[2]。また、テレビ金沢や北陸朝日放送の開局にも尽力した。略歴[編集]
経歴[編集]
●1942年︵昭和17年︶ ●3月 - 京都帝国大学法学部卒業。 ●4月1日 内務省︵現‥総務省・警察庁・厚生労働省︶入省。 ●1955年︵昭和30年︶ ●石川県総務部長就任。 ●1961年︵昭和36年︶ ●石川県副知事就任。政歴[編集]
●1963年︵昭和38年︶ ●2月20日 - 石川県知事選挙︵自由民主党公認︶当選。 ●1967年︵昭和42年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶2期目当選。 ●1971年︵昭和46年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶3期目当選。 ●1975年︵昭和50年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶4期目当選。 ●1979年︵昭和54年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶5期目当選。 ●1983年︵昭和58年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶6期目当選。 ●1987年︵昭和62年︶ ●石川県知事選挙︵自民党公認︶7期目当選。 ●1991年︵平成3年︶ ●石川県知事選挙︵無所属︶8期目当選。 ●1994年︵平成6年︶ ●2月2日 - 肺炎のため死去。脚注[編集]
(一)^ ﹃日本官僚制総合事典﹄東京大学出版会、2001年11月発行、350頁
(二)^ abc佐々木たくみ﹁石川・谷本知事、きょう退任 インフラ整備推進に支持 総務省出身2人で59年 施策、県全域への配慮映す﹂﹃日本経済新聞﹄、2022年3月26日。2022年3月28日閲覧。
関連項目[編集]
公職 | ||
---|---|---|
先代 田谷充実 |
石川県知事 公選第5 - 12代:1963年 -1994年 |
次代 谷本正憲 |