中野邦一
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中野 邦一︵なかの ほういち、1884年︵明治17年︶10月25日 - 1965年︵昭和40年︶4月13日︶は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、衆議院議員。
経歴[編集]
旧佐賀藩士・木村清の長男として佐賀県佐賀郡西与賀村︵現‥佐賀市︶で生まれる。母が中野方蔵の姪という関係から中野家の養嗣子となった。佐賀中学校、山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科︵英法︶を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、芝西久保警察署・本郷駒込警察署・浅草南元町警察署の各署長、高知県・愛知県の各理事官、香川県警察部長、岡山県警察部長、宮城県警察部長、京都府警察部長、愛媛県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。 1926年9月、秋田県知事に就任。1927年5月17日に休職となる[1]。以後、石川県・岡山県・新潟県の各知事を務めた。1931年12月18日、犬養内閣が成立すると新潟県知事を依願免本官となり退官した[2]。 1936年2月、第19回衆議院議員総選挙に佐賀県第一区で立憲民政党 から出馬し当選。1937年4月の第20回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。 戦後、公職追放となる[3]。 その他、東京市助役、立憲民政党総務などを務め、その後、弁護士として活動した。 1965年4月13日死去。享年80。著作[編集]
- 『皇道の真意義』固本盛国社、1940年。
親族[編集]
- 妻 中野千代子(有田義資の娘)