二十四孝
﹃二十四孝﹄︵にじゅうしこう︶は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物である。元代の郭居敬が編纂した[注 1]。ここに紹介された中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化したものもある。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけではない。
睒子︵ ]。この話の原型は、﹃ラーマーヤナ﹄などに見られ、中国では呉の康僧会により﹃六度集経﹄として訳された[1]。その他、﹃仏説睒子経﹄などの翻訳もあり、有名になった[1]。有名になるにつれ、字形が似ていることから郯子と混同された[2]。
楊香と虎︵歌川国芳﹃二十四孝童子鑑﹄︶
楊香︵ようこう︶には一人の父がいた。ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように﹁天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ﹂と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。
王祥︵歌川国芳﹃唐土二十四孝﹄︶
王祥︵おうしょう︶は母を亡くした。父の王融は後妻をもらい、王祥は継母の朱氏からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。継母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。
孟宗︵歌川国芳﹃二十四孝童子鑑﹄︶
孟宗︵もうそう︶は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっという間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。
舜と象︵歌川国芳﹃二十四孝童子鑑﹄︶
舜︵しゅん︶は大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟といい頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の天子を堯といった。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。
漢文帝︵歌川国芳﹃唐土二十四孝﹄︶
漢の文帝は高祖の子である。諱を恒︵こう︶といった。母の薄太后に孝行を尽くし、食事の際は自ら毒見をするほどであった。兄弟も沢山いたが、文帝ほど仁義・孝行な皇子はいなかった。そのため、陳平・周勃などの重臣が皇帝に推戴した。孝行とは誰もが知っているが、実際に行うことは難しい。だが、高貴な身分で孝行を行ったことは神の如き志である。
黄庭堅︵歌川国芳﹃唐土二十四孝﹄︶
山谷︵さんこく︶黄庭堅︵こうていけん︶は、宋の詩人であり、現在でも詩人の祖といわれている。使用人も多く、妻もいたが、自ら母の大小便の便器を取り、汚れている時は素手で洗って母に返し、朝から夕方まで母に仕えて怠けたことはなかった。
曾参と母︵歌川国芳﹃二十四孝童子鑑﹄︶
孔子の弟子の曾参︵そうしん︶は、ある時薪を取りに山に行った。母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。母はもてなしたいと思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、﹁曾参、急いで帰って来てくれ﹂と指を噛んで願った。曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。
甚︵ ︶四孝を始︵はじめ︶として、その外︵ほか︶の著述書も計︵かぞ︶ うるに遑︵いとま︶あらず。然︵しか︶るにこの書を見れば、十に八、 九は人間に出来難き事を勧るか、又は愚にして笑うべき事を説くか、 甚︵はなはだ︶しきは理に背︵そむ︶きたる事を誉︵ほ︶めて孝行と するものあり。寒中に裸体にて氷の上に臥︵ふ︶し、その解︵とく︶ るを待たんとするも人間に出来ざることなり。夏の夜に自分の身に酒を灌︵そそぎ︶て蚊に喰︵く︶われ、親に近づく蚊を防ぐより、その 酒の代を以て紙帳︵しちよう︶を買うこそ智者ならずや。父母を養う べき働︵はたらき︶もなく、途方に暮れて罪もなき子を生きながら穴 に埋めんとするその心は、鬼とも云︵い︶うべし蛇とも云うべし。天 理人情を害するの極度と云うべし。最前︵さいぜん︶は不孝に三あり とて、子を生まざるをさえ大不孝と云いながら、今こゝには既︵すで ︶に生れたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。何︵いず︶れを以て 孝行とするか、前後不都合なる妄説︵もうせつ︶ならずや。畢竟︵ひ つきよう︶この孝行の説も、親子の名を糺︵ただ︶し、上下の分を明 ︵あきらか︶にせんとして、無理に子を責るものならん。 — ﹃學 問ノスヽメ﹄︵八編︶