天保の大飢饉
概要
大飢饉の名残
主に東北から北陸や山陰の日本海側や、近畿から四国などまで広い地域の方言で、﹁てんぽな﹂または﹁てんぽ﹂という形容動詞・形容詞が用いられる。﹁大変な﹂﹁とんでもない﹂﹁とてつもない﹂﹁途方もない﹂などの広い意味を表す。天保の飢饉に由来するともいわれ、現代まで言葉に残る大飢饉の名残と言える。まれにさらに強調した意味で﹁天明天保な﹂とも使われる。 鳥取藩では﹁申年がしん﹂としてこの飢饉の悲惨さが伝説となって、近年まで語り継がれていた。 東北地方を中心に飢饉の犠牲者を慰霊するための叢塚︵くさむらづか︶が現在も残っている[7]。人口の変化
当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2000人減少しており︵後述の参考資料参照︶、人口減少幅の規模としては天明の大飢饉に匹敵する。当時の日本の推計人口
﹁江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計﹂によれば[8] ●1833年︵天保4年︶ 3,198万 ●1838年︵天保9年︶ 3,073万 ●1843年︵天保14年︶ 3,177万仙台藩の推計人口
仙台藩の食糧備蓄を当てにした困窮者が周辺の藩から流入したが、腸チフスと思われる疫病の流行も重なり、人口は大きく減少した[9]。箱館方面への人口移動
餓死を免れようと密かに蝦夷地︵現在の北海道︶へ渡る者が現れ[10]、箱館方面の人口が増えた。渡来した者は、一時これを保護しておいて、1人につき米1升、銭200文を与えて帰らせるという対策などもとられたが、密かに住み着く者もいたためこのようになった[11]。脚注
(一)^ “天保の飢饉とは”. コトバンク. 2022年4月30日閲覧。
(二)^ ﹁江戸の飢饉、巨大噴火の影 気温低下で凶作、人災も一因﹂﹃日本経済新聞﹄朝刊2022年5月1日サイエンス面︵2022年5月5日閲覧︶ (要購読契約)
(三)^ 永原慶二, 青木和夫, 佐々木潤之介執筆﹃百姓・町人と大名﹄︵読売新聞社‥日本の歴史 : ジュニア版,第3巻、1987年5月︶262頁1行目
(四)^ abc“災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から(3)民の力 有力商人に支援要請”. 河北新報オンラインニュース (2021年3月3日). 2022年4月30日閲覧。
(五)^ 永原慶二, 青木和夫, 佐々木潤之介﹃百姓・町人と大名﹄︵新版︶読売新聞社︿日本の歴史 : ジュニア版﹀、1987年、262、6行目頁。ISBN 4643870273。 NCID BA31804946。
(六)^ 松田 2019, p. 50-53.
(七)^ “﹁仙台の﹃くさむら塚﹄をさがす﹂”. miyachiyokatoclinic.alcoholdrug.yuzu.bz. 2022年4月30日閲覧。
(八)^ 高橋眞一﹁江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計﹂﹃日本の人口転換開始の地域分析﹄2013年度~2016年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書、2017年、79-96頁。 p.88より
(九)^ “災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から(2)飢饉 人心すさみ疫病流行”. 河北新報オンラインニュース (2021年3月2日). 2022年4月30日閲覧。
(十)^ 菊池勇夫 2020.
(11)^ 函館市史.通説編1, p. 520.
参考文献
●高木正朗, 森田潤司﹁<共同研究報告>飢餓と栄養供給 : 一九世紀中期東北地方の一農村﹂﹃日本研究﹄第19号、国際日本文化研究センター、1999年6月、159-201頁、doi:10.15055/00000736、ISSN 09150900、NAID 120005681691。 ●函館市史編さん室, 函館市﹃函館市史﹄函館市、1974年。 NCID BN01157761。全国書誌番号:80022789。 ●松田清﹃京の学塾 山本読書室の世界﹄京都新聞出版センター、2019年。 ●菊池勇夫﹁江戸に向かう奥羽飢人‥天保七・八年を中心に﹂﹃キリスト教文化研究所研究年報 : 民族と宗教﹄第53号、2020年3月、1-21頁、doi:10.20641/00000495、ISSN 0386-751X、NAID 120006846179。関連項目
外部リンク
- 『天保の飢饉』 - コトバンク
- 幻の山形天保そば保存会(山形市、他):天保の大飢饉の際に後世を想って俵に詰め保存された蕎麦の実が、平成11年に福島県の浜通り(天保当時は相馬中村藩)の古民家の屋根裏から発見され、研究室や試験場へ託した後に山形県内の製粉所が約160年ぶりに発芽させたもの。他品種との交雑を避けるため、本土から30㎞近く離れた日本海沖合の飛島でのみ栽培されている。