伏見晁
ふしみ あきら 伏見 晁 | |
---|---|
本名 | 野村 晁 のむら あきら |
別名義 | 錦 美奈仁 にしき みなひと - 共同名 |
生年月日 | 1900年6月18日 |
没年月日 | 1970年9月27日(70歳没) |
出生地 | 日本 愛知県名古屋市 |
職業 | 脚本家 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1926年 - 1957年 |
主な作品 | |
『恋の花咲く 伊豆の踊子』[1] 『落第はしたけれど』[1] |
伏見 晁︵ふしみ あきら、1900年6月18日 - 1970年9月27日[1]︶は、日本の脚本家である。新漢字表記伏見 晃︵読み同︶、本名は野村 晁︵のむら あきら︶[1]、野村浩将との共同名錦 美奈仁︵にしき みなひと︶でも活動した[2]。
小津安二郎-伏見晁-清水宏-野田高梧1928
1931年︵昭和6年︶には、同撮影所初のトーキー、五所平之助監督の﹃マダムと女房﹄に参加、北村小松が執筆したオリジナルシナリオに﹁ギャグマン﹂として関わった[3]。1933年︵昭和8年︶には、川端康成の小説﹃伊豆の踊子﹄の最初の映画化である五所平之助監督の﹃恋の花咲く 伊豆の踊子﹄を脚色した[3]。
1936年︵昭和11年︶には同撮影所が大船に移転になり、伏見もともに異動した[3]。前年に公開された五所平之助監督の﹃人生のお荷物﹄が蒲田での最後の伏見が手がけた作品であり、斎藤寅次郎監督の﹃女は何故怖い﹄が松竹大船撮影所での最初の作品となった[3]。
第二次世界大戦中も大船で脚本を書き、1944年︵昭和19年︶、斎藤寅次郎監督の﹃敵は幾万ありとても﹄の脚本を山形雄策とともに執筆し、初めて東宝製作の作品を手がけた[3]。伏見にとっての終戦後第1作は、当時松竹京都撮影所長だったマキノ正博︵のちのマキノ雅弘︶が製作・監督した同撮影所の戦後第1作﹃千日前附近﹄で、長谷川幸延の原作を依田義賢と共同で脚色した[4]。
1950年代には、斎藤寅次郎の監督作のシナリオを書き、大映京都撮影所で映画化され、1957年︵昭和32年︶、同撮影所が製作した斎藤監督の﹃南蛮寺の佝僂男﹄[5]の脚本を書いた後は、映画脚本の一線を退いた[3]。
1970年︵昭和45年︶9月27日、死去した[1]。満70歳没。1980年、第4回シナリオ功労賞︵協同組合日本シナリオ作家協会主催︶を受賞。
人物・来歴[編集]
1900年︵明治33年︶6月18日、愛知県名古屋市に﹁野村晁﹂として生まれる[1]。 東京に移り、旧制・明治大学に入学するが、中途退学する[1]。 松竹キネマ︵現在の松竹︶が東京・蒲田に開いた松竹蒲田撮影所に入社、1926年︵大正15年︶、蔦見丈夫監督の﹃鉄腕﹄の脚本を執筆して脚本家としてデビューする[3]。1929年︵昭和4年︶には小津安二郎監督の﹃学生ロマンス 若き日﹄にオリジナル脚本を提供し、1930年︵昭和5年︶には小津の原作・監督による﹃落第はしたけれど﹄を脚色した[3]。おもなフィルモグラフィ[編集]
特筆以外は脚本・脚色である。- 『鉄腕』 : 監督蔦見丈夫、原作井口静波、松竹蒲田撮影所、1926年 - 脚本家デビュー
- 『学生ロマンス 若き日』 : 監督・潤色小津安二郎、松竹蒲田撮影所、1929年 - 原作・脚色
- 『落第はしたけれど』 : 監督・原作小津安二郎、松竹蒲田撮影所、1930年
- 『マダムと女房』 : 監督五所平之助、原作・脚色北村小松、松竹蒲田撮影所、1931年 - ギャグマン
- 『銀座の柳』 : 監督五所平之助、原作西条八十、松竹蒲田撮影所、1932年
- 『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』 : 監督小津安二郎、原作ゼェームス・槇(小津安二郎)、潤色燻屋鯨兵衛(同)、松竹蒲田撮影所、1932年
- 『天国に結ぶ恋』 : 監督五所平之助、松竹蒲田撮影所、1932年
- 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 : 監督五所平之助、原作川端康成、松竹蒲田撮影所、1933年 - 増補・脚色
- 『処女よ、さよなら』 : 監督五所平之助、松竹蒲田撮影所、1933年 - 原作・脚色
- 『和製キング・コング』 : 監督斎藤寅次郎、松竹蒲田撮影所、1933年 - 原作・脚色
- 『人生のお荷物』 : 監督五所平之助、松竹蒲田撮影所、1935年 - 原作・脚色
- 『女は何故怖い』 : 監督・原作斎藤寅次郎、松竹大船撮影所、1936年
- 『少年航空兵』 : 監督佐々木康、松竹大船撮影所、1936年 - 原作・脚色
- 『荒城の月』 : 監督佐々木啓祐、松竹大船撮影所、1937年 - 原作・脚色
- 『淑女は何を忘れたか』 What Did the Lady Forget? : 監督小津安二郎、松竹大船撮影所、1937年 - ゼームス・槇(小津)と共同で脚本
- 『敵は幾万ありとても』 : 監督斎藤寅次郎、東宝、1944年 - 山形雄策と共同で脚本
- 『千日前附近』 : 監督マキノ正博、原作長谷川幸延、松竹京都撮影所、1945年 - 依田義賢と共同で脚本
- 『ニコニコ大会 追ひつ追はれつ』 : 監督川島雄三、原作サトウ・ハチロー、松竹大船撮影所、1946年
- 『音楽五人男』 : 監督小田基義、原作長谷川幸延、東宝、1947年
- 『それは或る夜の事だった』 : 監督斎藤寅次郎、新東宝映画 / 東宝、1947年
- 『湯の町悲歌』 : 監督野村浩将、原案佃血秋、新東宝、1949年 - 「錦美奈仁」名義[6]
- 『東京キッド』 : 監督斎藤寅次郎、原作長瀬喜伴、松竹大船撮影所、1950年
- 『海の小扇太』 : 監督志村敏夫、原作林房雄、宝塚映画製作所 / 東宝、1955年
- 『お父さんはお人好し』 : 監督斎藤寅次郎、原作長沖一、大映京都撮影所、1955年
- 『女の足あと』 : 監督渋谷実、松竹大船撮影所、1956年 - 田中澄江・渋谷実と共同で脚本
- 『一夜の百万長者』 : 監督斎藤寅次郎、原案浅井昭三郎・松村正温、大映京都撮影所、1957年
- 『南蛮寺の佝僂男』[5] : 監督斎藤寅次郎、大映京都撮影所、1957年 - 遺作
- 『泣いてたまるか』第14話『生れてはみたけれど』 : 監督生駒千里、テレビ映画、1966年 - 原作
註[編集]
外部リンク[編集]
- Akira Fushimi - IMDb(英語)
- Akira Fushimi - オールムービー(英語)
- 伏見晁 - 日本映画データベース
- 伏見晁 - KINENOTE
- 錦美奈仁 - KINENOTE
- 伏見晁 - allcinema
- 錦美奈仁 - allcinema