兪樾
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晩年の兪樾 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1821年12月25日 清浙江省湖州府徳清県 |
死没 | 1907年2月5日 (85歳没) |
学問 | |
研究分野 | 漢学・儒学・考証学 |
兪 樾︵ゆ えつ、拼音: 、1821年12月25日︵道光30年12月2日︶ - 1907年2月5日︵光緒32年12月23日︶︶は、中国清代末期の学者・文人。字は﹁蔭甫﹂、号は﹁曲園﹂、堂号は﹁春在堂﹂。
俞樾﹃楓橋夜泊﹄詩碑
兪樾は書家としても知られる。1906年秋、蘇州の名刹寒山寺所在の、張継作・文徴明刻﹃楓橋夜泊﹄詩碑の修復に携わっており、その拓本が広く流通している[16]。
生涯[編集]
1821年、浙江省湖州府徳清県に生まれる。祖父は兪廷鑣。父は兪鴻漸。兄は兪林。 1850年、進士となる。この時試験官を務めた曽国藩は、兪樾の詩の﹁花落春仍在、天時尚艶陽﹂という一節を賞賛した。それを受けて、兪樾は後に﹁春在堂﹂を自身の堂号にした。 合格後、官僚として翰林院編修・国史館協修を務め、その博識を咸豊帝から賞賛されたことから、1855年には河南学政の地位についた。しかし、出題した試験の題について弾劾を受けたため辞職。以降、友人の李鴻章らの援助のもと在野で過ごした[1]。 1875年、友人の援助で蘇州の荒れ地を買い取り、湾曲した地形を自ら設計して庭園を造った。庭園名を﹃老子道徳経﹄の一節﹁曲則全﹂から取って﹁曲園﹂と名付け、自らを﹁曲園居士﹂と号した。 晩年は、阮元が建設した杭州の書院﹁詁経精舎﹂で講義した。1907年2月5日、逝去[2]。 門人に章炳麟・呉昌碩がいる。曾孫に兪平伯︵﹃紅楼夢﹄研究者・詩人︶がいる。杭州市に兪曲園記念館がある[3]。人物[編集]
学問[編集]
学風は戴震・王念孫・王引之の皖派考証学を継ぐ。特に、清末の諸子学の中心人物として知られる[4]。1870年の著書﹃諸子平議﹄は、刊行後まもなく明治期の日本でも読まれた[5]。孫詒譲の﹃墨子間詁﹄︵﹃墨子﹄の著名な注釈書︶には序を寄せている。日本との関わり[編集]
兪樾は日本の漢学にも関心を寄せていた。例えば、1866年には荻生徂徠の﹃論語徴﹄を読んでいる[5]。 1877年には、日本から訪ねてきた漢学者の竹添井井と歓談した[6]。その時のやりとりが﹃春在堂随筆﹄にまとめられており、﹁﹃管子纂詁﹄の著者安井息軒を知っているか﹂などの質問を竹添にしている[注釈 1]。1905年には、竹添の弟子の島田翰とも歓談した[注釈 2]。その他、山本渓愚らとも交流した。 1883年には、日本漢詩選﹃東瀛詩選﹄を岸田吟香と北方心泉の依頼をきっかけに刊行し[10][11]、山梨稲川・白川琴水・広瀬旭荘らの詩を顕彰した。 狩野直喜や倉石武四郎が伝える所では、1906年春、小柳司気太が哲学会の機関誌﹃哲学雑誌﹄に﹁兪樾の哲学﹂という旨の論文を載せたところ、それを知った兪樾は﹁私は"哲学者"だったのか﹂という内容の詩を﹃春在堂詩編﹄にしたためて応え、明治日本で作られた﹁中国哲学﹂という新奇な学問分野に対し、当事者の立場から反応を示したという[12][13][14][15]。書[編集]
小説[編集]
兪樾は小説家としても知られる。1889年には﹃七俠五義﹄を刊行した。随筆の﹃右台仙館筆記﹄では、日本を含む各地の奇譚を集録している[17]。編著[編集]
500巻余に及ぶ膨大な著作を残した[18]。大概は全集の﹃春在堂全書﹄に収録されている[18]。
●﹃諸子平議﹄
●﹃群経平議﹄
●﹃古書疑義挙例﹄
●﹃春秋外伝国語平議﹄
●﹃爾雅平議﹄
●﹃春在堂詩編﹄
●﹃春在堂随筆﹄
●﹃小浮梅間話﹄
●﹃右台仙館筆記﹄
●﹃茶香室叢鈔﹄
●﹃七俠五義﹄
●﹃内経弁言﹄
●﹃東瀛詩選﹄︵日本漢詩の選集︶