内藤弘矩
内藤弘矩 | |
---|---|
時代 | 室町時代後期、戦国時代初期 |
生誕 | 文安3年(1446年) |
死没 | 明応4年2月28日[1](1495年3月24日) |
別名 | 弥七[1]、常珍(法名)[1] |
官位 | 弾正忠[1]、肥後守[1] |
幕府 | 室町幕府 長門守護代 |
主君 | 大内政弘、義興 |
氏族 | 自称藤原氏秀郷流・道長流、内藤氏 |
父母 | 盛世[1] |
兄弟 | 武盛[1]、弘矩、弘春[1] |
子 | 弘和[1]、大内義興室(東向殿)、内藤興盛室 |
内藤 弘矩︵ないとう ひろのり︶は、日本の室町時代後期の武将で、周防長門の守護大名大内氏の家老として、代々長門守護代を務める内藤氏の当主。大内政弘、義興の2代に仕え重きをなす。娘︵東向殿︶はのちに義興の正室となり大内氏嫡子義隆を生む。
生涯[編集]
兄の謀反[編集]
応仁の乱のため上京した大内政弘に従い、弘矩は在京、諸所の合戦に活躍した。長期にわたり上洛し不在だった政弘に対して、1470年︵文明2年︶に叔父の大内教幸︵道頓︶が謀反を起こし、それに兄の内藤武盛が加担する。しかし乱は陶弘護らの活躍により鎮圧されたため、弟の弘矩が武盛に代わって父の跡を継ぎ内藤家の当主となった。陶弘護暗殺事件[編集]
政弘の代は、周防守護代陶弘護とともに大内家重臣として重きをなし、上洛した政弘の留守を守った。1482年︵文明14年︶に、宴席でその弘護が遺恨のあった吉見信頼に討たれる事件︵大内山口事件︶が起こるが、弘矩はその場で信頼を成敗し、事態を収拾する。その後は大内家随一の重臣として権勢を振るう。大内義興により誅殺[編集]
1494年(明応3年)に病態の政弘が義興に家督を譲ったあとは、若年の君主を補佐した。しかし翌年、義興への家督相続に際して兄弟の高弘の擁立を画策したと陶弘護の子武護が義興に讒言し、それを信じた義興の命により、弘矩は大内氏館にて暗殺された。嫡男の弘和はそれを知って挙兵をしたものの、攻め滅ぼされた。 のちに弘矩が無実であることが判明したため、義興は弘矩の娘を正室に迎えるとともに、弘矩の死後家督を継いだ弘春の嫡子興盛に弘矩の娘をめあわさせるなど、弘矩の名誉回復と内藤氏との関係修復に腐心した。讒言した武護は死を賜った。ただし、弘矩の死には異説もある︵後述︶。 義興に嫁いだ娘は、義興の嫡男亀童丸︵のちの大内義隆︶を産んでいる。人物・逸話[編集]
陶弘護暗殺後の陶氏の家督争いには、弘矩が暗躍したともいわれている。一方で、弘矩が殺害された原因として弘矩を讒言したとされる陶武護とともに反抗を企てたとする逆の説[2]も伝えられている。また、この説では弘矩を殺害したのは当主である義興ではなく、隠居していた先代当主の政弘であったと記されている。このため、藤井崇は大内政弘が自らの権力を脅かす陶弘護を排除するために吉見信頼に殺害させたところを、内藤弘矩に口封じさせたのが本来の計画であったが、後日の陶武護の反抗をきっかけに更に内藤弘矩も殺害して真相を隠そうとしたとする説を提示している︵陶武護が弟の興明を殺害して陶氏の家督を奪ってから15日後に弘矩が殺されている︶[3]。 また、文人としても活動しており、当代屈指の連歌師宗祇とも交流した記録がある。脚注[編集]
参考文献[編集]
●今井尭ほか編﹃日本史総覧﹄ 3︵中世2︶、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。 ●藤井崇﹃大内義興 : 西国の﹁覇者﹂の誕生﹄戎光祥出版︿中世武士選書21﹀、2014年6月。ISBN 978-4-86403-111-0。 NCID BB15726292。全国書誌番号:22420785。
|
|
|